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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 大洲・喜多地方の伝統工業

 伝統工芸

 愛媛県で伝統的特産品産業というのは、手工業で百年以上の歴史と四人以上の同業者を条件としている。大洲喜多地方で、藩政時代から続いている伝統工業といえば、第一に和紙、第二に木蝋、第三に製糸、第四に酒醤油、第五に竹細工、下駄などである。和紙と木蝋と蚕糸業については、項を設けて既に取り上げたので、本項では残りの酒醤油業と、次の竹細工・下駄製造・蚕種などについて記述をすすめる。

 大正三年の酒醤油造業者

 大正三年(一九一四)の『日本商工名鑑』愛媛県地誌の喜多郡の醸造家名をみると、次の如くである。大洲町の井上治義・池田友治郎・山泉保治・岡田こまえ・大野徳七(醤油)・小西安之助(醤油)、大洲村の井形幸雄・徳田甚吉・梶田予三次(醤油)、平野村の大藤健一郎・白石そめよ、平村の矢野茂平・酒肆笹次郎、新谷村の徳田久太郎・亀岡栄治、上須戒の白石右次郎・梶岡重範、粟津の矢野直衛の名がある。内子町では伊達猪鹿・高岡善三郎・菊池石蔵、大瀬の今岡武平、満穂の栗田久吉。五十崎町では天神の亀岡謙太郎・宮田角太郎、五十崎の大野政麿・河内照太郎・山根和賀治(醤油)・御祓の富永をちうである。今は大洲市に合併したが大成の黒川槌忠・栗田勘十郎、宇和川の谷本島太郎・山鳥坂の和気弥十郎・和気郁太郎・宮岡喜代次郎、奥南の玉井保寿。長浜町では長浜の門田米告・矢部好太郎(醤油)・松井正蔵(醤油)・松田利八郎(醤油)・滝川の上田謙吉、豊茂の亀岡政蔵・小西徳十郎、出海の出海酒造合資会社、櫛生の水沼麟太郎の名がある。以上喜多郡(大洲市を含む)で四五業者がある。うち酒屋が三七軒である。

 昭和五九年の南予の酒造業

 愛媛県酒造組合連合会の資料によれば、愛媛県の酒造業者が、昭和二五年には一三八軒あったが、現在は八二軒に減少し、うち四軒は焼酎製造である。うち中予が一七軒、東予が二九軒(うち焼酎二)、南予が三六軒(うち焼酎二)である(表2―14)。中予の人口が四二万余、東予が四〇万余、南予が二七万余であるから、南予地方には人口の割合に酒屋が多く、小規模である。最近は集約といって協力して二社が醸造し配分している小さい酒造家もある。南予地方の酒屋の杜氏は、大洲の神南が越智杜氏のほかは、全部伊方杜氏である。

 大洲・喜多地方の竹細工

 大洲市の竹細工は、松山市の花器などの黒物の工芸品と異なり、青物の荒物の日用品である。大洲市では、野田の梶谷繁一(愛竹産業KK)と柚木(ゆのき)の富永歓市(肱川産業KK)とが、いわゆるマニファクチャーで、八多喜の西山・好崎・山本・小泉・城ノ戸、菅田の谷本、野田の森田が小規模に熊手を造っている。斜陽産業で、昭和三〇年ころに比べると、一〇分の一程度に減少している。
 梶原繁一は二代目で、先代は梶谷源一、息子もあとを継いでいる。現在は熊手が主で七〇%、あとはスダレ、スノコ、根垣サラシ竹などで、目下花せん、花立、円扇など試作中である。従業員は家族を入れて二〇人ほどである。日本の竹熊手生産約一〇〇万本のうち、七〇%を大洲市域で造っている。
 富永歓市は菅田の宇津出身で、満州からの引揚者で『歓市自伝=拓』に書いているように立志伝中の人である。当初は西山根の市役所の隣で、昭和二三年から二〇年間操業し、主にスダレと釣竿をつくり、専ら輸出し外貨を獲得し表彰を受けている。昭和四四年に工場を柚木一五〇〇坪に移した。同三四年ころからプラスティックなどの代用品の進出と、台湾の低賃金による安い品に押され、先が見えてきた。同三七年日本輸出竹スダレエ業組合理事長当時、台湾を二週間視察し、台湾合作社の竹藪の計画的管理栽培に感心した。南予の竹スダレは次第に姿を消して行った。肱川産業は今では内需の熊手を年産三〇万本つくり、販路は北海道から九州に及ぶ。作業も半ば機械化し一日一〇〇〇本つくる。従業員は最盛期には一〇〇人以上もいたが、今では二〇人に減らし、経営も息子の建一社長は、安田生命保険の支所を兼営し、堅実に存続している。
 内子町八日市の芳我吉右衛門(中芳我)は、昭和三年ころから、筆巻き・スダレ・メシザナ・のり巻きを、戦後は貿易用の竹の熊手・スダレ・ラスの竹細工の工場を経営し、欧米に輸出し、一時成功していた。小泉滝蔵も一時ラスを造っており、浅野幸三は竹の繊維で優秀なロープを紀州海南市で造っていた。藤山製材所は鉄の不足する戦時中に、竹で戸のレールを造り、一時活気を呈した。現在内子では本町で岡田登(大正三年天神村奈良野生れ)が桑篭・手箕・魚篭などを編んでいる。内子町論田の栗田義一(義隆)は、和傘の骨やミニ熊手・魚を焼く竹串などを造っている。内子町長田の信高秋芳は老齢ながら今でも、百斤ザル・五〇斤ザルを造り、松山市河原町の三好豊重商店に出荷している。
 五十崎町妙見町の橋本積衛(明治二七年生―昭和一九年歿)(息子清)は五十崎町の竹細工の先覚者である。大正時代から地元の大野金次部・丸岡(都築)数恵・岡田登・上田和衛・石上竹一・寺岡覚寿・山田敬らが弟子入りして、青物の篭類を編んでいた。戦前には繭入篭・桑篭・茶オロシ・手箕(ジョウレン)・斗イカキ・ツルイカキ・西宇和郡行きの夏柑篭・長浜方面のイリコ用のマイラセなどを造った。終戦後は熊手や、ハチク五三竹などの釣竿を海外に輸出した。柿原の宮岡要は熊手を生産し、大久保の田中宗雄は重松の極楽寺の下で釣竿を集め、輸出に力を入れていた。
 五十崎町上村の山本長男(明治三九年生―昭和五二年歿)は折箱紙箱の兼業に、花篭の素器を造り、戦後松山市の矢野長市商店の黒物の下請をしていた。五十崎の古田では向井義幸が一時十余人の従業員をかかえて竹細工を経営していた。昭和二三年当時、国鉄五十崎駅の貨物は、鉱石・木材・竹細工製品の順であった。平岡では現在、柿原の山田敬が、壁下地平手箕や熊手を製造しているに過ぎない。
 長浜町黒田の小川儀三郎(明治四二年生―)の家は、父の儀太郎(明治一四年~昭和一四年)の時代から竹材業者で、戦時中は竹統制組合の理事長であった。長浜港は筏の時代から古来竹の集散地である。丸亀の円扇の材料や、塩田の竹管や枝條架の孟宗竹の枝、真珠筏の材料として需要があり、昭和四〇年ころまでは活気があった。プラスティックなど代用品の出現のため竹細工は衰え、作業場へ運んで真竹で一束一〇〇〇円、孟宗竹では五〇〇円程度に竹材も暴落している。小川工場では壁の下地と試作品の毛糸の編棒などを造っている。

 五十崎の桐下駄

 今では桐下駄は趣味の履物になった。戦前には五十崎に、青木・東・大田・石見の四軒の下駄屋があり、内子には前田・山本・須崎・奥永・藤本の五軒あった。各々弟子を数名入れて、四年から一〇年位して一人前の職人になると独立して分れて出て行ったものである。今では青木履物店で四年半修業して、戦争に八年行ってビルマから帰還し、昭和二三年から創業している宮部真木履工場が、四国で只一軒、桐下駄専門に操業しているに過ぎない。阿波おどりの桐下駄も五十崎町平岡の宮部木履に注文がきている。多くの桐下駄専門店が廃業するのに、宮部が継続できるのは息子二人をはじめ家族五人と、近くの中老の従業員八名が協力しているからである。常に皆が研究し機械化合理化している。原料の桐は北陸東北産は木がしまって固いがネバリがなく、地元産はネバリはあるが軟らかいという。台湾桐は軟らかく水を吸って駄目という。日本桐は軽くて一度乾かしたら水を吸わないのが特色であり、一本で一年に一〇〇〇円は肥るという。天神木履や長浜木履は備後松永と同じく雑木が原料で趣を異にする。

 大洲の生糸の良さ

 大洲の生糸は良質で、歴史が古いので有名であり、大洲藩時代からの伝統産業である。『延喜式』(九二七年)にもあり、藩主泰幹や、明治維新の山本尚徳大参事、藤村紫朗県知事、下井小太郎郡長などの政治的な保護奨励と、自然に恵まれた桑と水と気候、人文的な子女の丁寧勤勉性などに基因する。最近では昭和三年に即位式用に大洲町志保町の今岡製糸工場が、宮内省用の生糸を引き、京都の高島屋を通して納品した。また皇太神宮の遷宮式の第五九回と第六〇回(昭和四二年)にも御用を承っている。
 大洲の生糸は表2―15の如く、明治中期から大正の創業が多く、約三〇工場が肱川の伏流水に依存して分布していた。内子にも五、五十崎にも四、天神にも四工場があった。しかし周知の如く化学維繊の発達で次第に斜陽となり、愛媛県の製糸工場は昭和三三年には一一工場に、昭和三八年には六工場に統合され、最近は広見と野村と大洲の三工場である。大洲では昭和五五年、桝田製糸と今岡製糸が、繭の生産者団体の伊予蚕糸農協組合連合会と合併して、冨士二七一番地に、三〇〇〇坪の近代工場一つに統合した。

 蚕種製造業者

 大洲は蚕種製造の伝統的な産地であった。表2―16の如く、明治中期から大正初の創業が多かった。今は一か所である。

 蚕種貯蔵所

 蚕種の貯蔵の塩酸処理が、大正一一年に普及するまでは、冷蔵庫や風穴で貯蔵していた。これの施設も今はほとんど荒廃し、探ねるのに苦労するほどであった(表2―17)。

表2-14 南予地方の酒造業者

表2-14 南予地方の酒造業者


表2-15 大洲・喜多地区の製糸工業

表2-15 大洲・喜多地区の製糸工業


表2-16 大洲・喜多地区の蚕種製造業者

表2-16 大洲・喜多地区の蚕種製造業者


表2-17 愛媛の蚕種貯蔵所

表2-17 愛媛の蚕種貯蔵所