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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 大洲・内子地方の新しい農村工業

 工業の構成

 この地方の工業の市町村別構成を示しだのが表2―18である。地域としては河辺村も含まれるが工業統計に表われないので省略する。
 電機を筆頭に、木材、窯業、食料品、繊維などが多いが、全体としては本県工業出荷額の二・四%を占めるにすぎない。中心の電機については次の項で述べるので、それ以外の主要工業について述べる。地域内の企業を従業者規模別にみると、四名~九名の規模の工場が約四二%を占め、三〇〇名以上の大工場は電機の一工場にしかすぎない(表2―19)。他は地元の労働力、原材料などに立地した農村工業と称すべき分野のものが中心である。

 木材・木製品工業

 大洲・内子地方の製造業に占める木材工業の地位は、事業所数では長浜が第一位(一九)、次いで大洲市(一七)、内子町(一〇)、五十崎町(九)、肱川町(二)と続いている。出荷額では一位が大洲市(六〇億円)で、次いで長浜町、内子町、五十崎町と続く。市町村別の製造業ではそれぞれ高い比重を占め、その中心は製材業である。原木は肱川流域を中心に、南予や高知県西部方面から主に集める。長浜町誌によれば、長浜町で大正六年(一九一七)に最初の製材所が立地し、五十崎町でも昭和初年に蒸気機関による製材が行なわれていた。大洲市に関する資料に乏しいが、本地域における製材業の始まりはこの時期と考えられる。戦後、復興による建築ブームで四〇年代までは製材所は増加した。又関連の加工業として、家具、木履、折箱、箱材、かまぼこ板などの製造も発達したが、石油化学製品の登場や輸入木材の増加などで、石油危機以後特に大きく変化した。現在の製材所の分布(県中小企業団体中央会「企業名鑑」による)をみると、従来は肱川流域からの集荷が多かったが、現在は原木輸送と消費地の関連で、市街地近郊の主要道路沿いに立地するものが多い。又、木材関連の加工業でも木履(下駄)、箱材など衰退したものが多く、大洲市内の家具が若干注目される程度である。従来、地元の豊富な原料に立地した竹製品加工(大洲市内)や杞柳を原料とした食器、柳行李や民芸品の製造業(大洲市新谷)もあったが、衰退し特に杞柳の加工は四〇年代後半に消滅した。

 食料品工業

 大洲・内子地方における食料品工業は、表2―20にみるごとく高い地位を占めている。しかし、全体としては中小企業が多い(表2―19)。本地域の食料品工業は、(一)肱川の良質、豊富な水、(二)地元の原材料(野菜・家蓄等)(三)国道五六号など道路の整備を条件に立地したものが多く、古くから酒造業なども発達していた。
 その中で代表的なものをみると、まず五五年に大洲市春賀に完成した食肉センターがあげられる。同センターの事業主体は県経済連で、二三億円を投じて完成した中・四国最大の食肉センターである。自動豚皮はぎ機や自動洗浄背割り機など最新鋭の機器を導入し、豚換算で一日八〇〇頭を処理する能力を持っており、年間で豚二四万頭、牛一万頭を処理している。原料は南予を中心に県内一円から集めている。次に国道改修による道路事情の好転と原料事情の変化により、三九年に野村町から明治乳業(株)愛媛工場が大洲市若宮に移転立地した。従業員三八名で粉ミルク、バターを年産約七億円の生産をあげている。現在、原料は県内三〇%、徳島など県外のものを七〇%以上使っている。
 その他、地元の農産物の加工・販売が中心の五十崎町の大森産業(株)、長浜港に水揚げされるエビを中心とした海産物を原材料とするため広島から進出したスナック食品のカルビー食品(株)など地元の原材料に立地する企業が多い。又、伝統産業としての清酒醸造業が、大洲市に二企業、内子町、五十崎町、肱川町に各一企業あり、特色ある地酒を生産している。

 窯業

 表2―18のごとく窯業も大洲・内子地方を代表する工業の一つである。その内容は表2―21のごとく、採石から生コン、コンクリート製品など肱川を基盤とした建設関連工業が中心である。生産物はいずれも重量物で、輸送位置が重要なため、主要道路沿いに現地の原料(砂利・砂)に立地するが、需要先が公共事業に関連するものが多いため、最近停滞傾向が強い。

 繊維工業

 肱川流域は西日本有数の養蚕地域であった。生糸工業地の立地の三条件である(一)原料(まゆ)の産地に近い、(二)良質・豊富な水が得やすい、(三)安価・豊富な女子労働力がえられる、という好条件に恵まれていた。大洲藩主の加藤泰幹が注目した養蚕は、やがて明治十年(一八七七)大洲町山根に本県初の機械製糸を生んだ。大正五年(一九一六)製糸工場は大洲三の丸の河野工場をはじめ二〇工場、生糸生産高一一万㎏に達し、昭和三年には大洲町を中心に二四工場、約一三万㎏の生糸を生産した。昭和五・六年ころには中小の製糸工場が三八工場も立地していたという。第二次大戦と合成繊維の発達、割安の輸入生糸の増加などの諸条件が重なって、現在、生糸生産を行なっているのは伊予蚕糸協同組合(大洲市冨士)と金子蚕糸(大洲市志保町)の二工場にすぎなくなった。前者は大洲市・喜多郡の六つの農協の連合組織で、従業員四一人、原料のまゆは地元の大洲市、喜多郡のものを使うが、不足分は群馬、茨城の各県から購入している。後者は従業員五人の坐操り製糸にしかすぎず、五八年まで製糸していた伊予玉製糸(大洲市中村)は製糸を中止し、現在はねん糸を行なっているのみである。
 製糸業に代って登場したのが縫製業で、流出する労働力を食い止め、統廃合した学校などの公共建築の活用とを併せて、多数企業の進出をみた。その代表が表2―20にある南予被服(株)や大洲縫製(株)である。前者は八幡浜に本社をおく四国ソーイング(株)のグループで国内市場を対象とする生産であるのに対し、後者はアメリカ、ソ連向けの輸出縫製品を中心に国内市場向けと両方の生産をしており、肱川町にも工場進出している。表2―22のごとく、大洲・喜多郡地方だけでも中小の縫製企業が一四~一五社進出しており、本地方は八幡浜地方と共に、今治地方に次いで衣服・縫製業が主要な地場産業となってきている。さらに特徴的なことは、南予の地場産業が水産練製品、手抄(てすき)和紙などにみるごとく限定された地域に立地するのに対し、縫製業は集積度の差こそあれ全域に分布していることが注目される。大洲・内子地方の一市四町にはすべて、衣服・縫製業種がそれぞれかなり高い比重をもっている。

表2-18 大洲・内子地方の工業

表2-18 大洲・内子地方の工業


表2-19 大洲市・喜多郡の市町村別・従業者規模別事業所数

表2-19 大洲市・喜多郡の市町村別・従業者規模別事業所数


表2-20 大洲市と周辺町村の製造業の主要企業

表2-20 大洲市と周辺町村の製造業の主要企業


表2-21 大洲・内子地方の窯業の分布

表2-21 大洲・内子地方の窯業の分布


表2-22 大洲・内子地方郡市別「衣服・繊維製品製造業」の実態

表2-22 大洲・内子地方郡市別「衣服・繊維製品製造業」の実態