データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 内子の市の町

 大洲秘録に見る内ノ子村

 元文五年(一七四〇)に編集(大洲藩士人見栄智書写、安政六年(一八五九)城戸三郎右衛門騰写)の『大洲秘録』巻五の曽根郷内ノ子村の項を見ると、次のように土産の記事がある。

内ノ子村 古高六百七拾八石  代官 六日市喜左衛門 七日市弥左衛門 廿日市善蔵
氏神 七日市は川中三島大明神 六日市廿日市は五十崎宇都宮を祭る 小社 岡の宮三島大明神 願成寺 時宗 廿日市にあり遊行上人道場 旧記の由 官床山と云ふ  禅昌寺 禅宗六日市にあり 高昌寺末 桂林山と云ふ  
高昌寺 七日市檀寺也 城廻村にあり
土産 米中 大豆 紙

これによると土産に紙はあるが蝋がない。これに対して古田村には土産に蝋はあるが紙はない。平岡村(天神村)には土産に米・大豆・紙とあり、内ノ子と同じである。

 大洲旧記に見る内ノ子村

 大洲旧記第七内ノ子村をみると次の如くである。

 内ノ子村 廿日市、六日市は五十崎十一ケ村之内にて、栗田宗徳大庄屋下也。(中略)六日市は喜兵衛・新左衛門(中略)。八日市四郎兵衛と云庄屋有。力量剛なるものにして、泰興川狩鹿狩の節云々。
 内ノ子に市町取立の事。高昌寺前より下モヘ町を立、月に六日の市初り、朔日六日より一六の日毎也。然共廿日市、先年より繁昌して、上の新市繁昌せず、依て廿日市の伊勢屋共に下へ引、其時より七日市と申候也。
 七日市村分る事、天正十三年より内ノ子には大守なく、上町分は彌おとろへ、下町分は廿日市繁昌に付、文禄慶長の頃、上町六日の市を廿六日一日を残して、五日の市を下へ取、有来る廿日を添えて、都合六日の市を用ひ、村を分けて六日市と名付けり。
 扨六日市町伊勢家共に繁昌せり。夫に付ては、万事猥りになり、伊勢大夫博奕好にて、町の者と冬春中逗留間、毎夜博奕し、博奕楽しみの参官多し。太夫不仕合の年は、帰り侯時、参宮人十人を壱人と記事有よし、神明の御罰にや、慶長より後三度火災有、伊勢屋も二度焼けたり、三度目より小屋懸けして裏の方へ引き入れたり。惣町も衰え、市興行もならず。中山時を得て、出渕道を中山へ通るように付替え、市を成し度望共、その時より新市は天下一統御停止故、内ノ子市を中山へ諸願を立て、六日のうち廿日一日を残して、五日の市を中山へ取りたり。
 内ノ子七日之内、廿日廿六日二日を残し、四月に五日、十二月廿日、廿六日年中七日市を用ひ、依って七日市と申すなり。
 近年に至り、菜と糠との市と云ふ名を忌み、八日市と替えたるは延享のころ(一七四四~一七四七)なるか、開き及び故、今に記す。内ノ子より城廻りを分け、七日市と六日市を分けて内ノ子三ヶ村と申すなり。
 廿日市えびす由来之事
治承養和(一一七七~一一八一)の頃か、厳島を平家取立、夫を学て河野氏五十崎へ宮床を取立、厳島の荒えびすを勧請して廿日市へ鎮座す。厳島は開帳なし。廿日市は毎月市日に一日宛開帳あり。依て遠方より参詣多し。いよいよもって廿日市繁昌す。廿日市町を内ノ子へ引きし時も、えびすを上市町へと願いけれ共、元来廿日市えびすと申伝なれば申訳いたし、伊勢家近所に安置せり云々

 明治六年当時の内ノ子と五十崎の町

 明治六年(一八七三)の『喜多郡地誌』によれば、内ノ子の職業を次の如く誌している。

 士族四、僧三、祠官一、医師八、薬店一、農業四二八、工業三五、商業三一、雑三九、酒造稼六、牛馬商二とある。これに対して古田村は士族四、祠掌一、医師一、僧二、農業一四八、工業二五、商業五五、雑四四、酒造稼六、牛馬商一とある。なお平岡村は士族一、僧二、医師一、農業一七一、工業二、商業が僅かに一、酒造稼一、雑四人

 定期市は消滅

 八日市といえば、普通毎月八日、十八日、二十八日と定期市があった筈である。六日市も廿日市でも同様である。いつころから消滅したか、今のところ『大洲旧記』のほか史料が見つかっていない。関東地方の六斉市と違って、内ノ子の場合は名称だけで、定期市は初めから整然としていなかったのかも知れない。ただ菜糠を忌みて八日市としたのは軽妙である。