データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)
四 青島の集落
伊予灘沿岸集落の立地と形成
長浜町には一七の大字集落があるが、そのうち七つの大字が急傾斜の海岸沿いに立地している。伊予郡双海町につづく断層海岸における集落立地は、わずかばかりの平地の存在する海浜に位置する長浜・沖浦地区と、海浜から急斜面に連続的に家屋が密集する今坊・櫛生・出海・青島の二つのタイプがある。須沢以西ではいずれも、ごく小規模の入江を利用した船溜り程度の漁港施設を集落ごとにもっている。武智利博は、伊予灘断層海岸の一連の地理的研究の中で、集落の形成過程について論及しているが、農民の集団的移住による、すなわち農民分化による漁村化と、農民先住の地先きの漁業を専業とする純漁村のタイプが、主に考えられるとしている。
寛文七年(一六六七)の『西海巡見志』に記録された漁舟数は今村坊(二)長浜(二五)沖浦(二)出海(三)青島(二六)となっており、長浜・青島が古くから漁業の中心であったことを物語っている。佐々木善楽著『積塵邦語』(一八二一)には長浜の名産について次のように述べている。「長浜の鯛(たい)と白子とながれ礪蛸鯔はまちあさり貝なり」。長浜沖合の漁場は、肱川河口を中心にして浅海性の砂礫層のひろがる海域で、海底は、佐田岬半島方向に進むにしたがい、その進度を増し岩礁海岸となっている。したがって長浜沖には産卵のための鯛や鰮の回遊が集中し、沿岸部には貝類や藻類の生育が盛んである。特に長浜地区は長浜御用網と名づけられた藩の保護を受けた漁業が栄えた。肱川河口左岸に位置する沖浦は大洲藩の御用船の櫓方養成を目的として百姓に漁業を許可されたもので、文化一〇年(一八一三)と歴史は新しい。昭和五三年現在、農家に該当する漁業経営体をみると、長浜は皆無であり、もっぱら漁業を主業としてきたことが推察される(表2―34)。櫛生、出海地区は海に面しておりながら、漁業専業は少なく海に背を向けた臨海集落であるといえよう。
青島の開発
伊予灘の孤島青島の開発は、赤城家文書によると寛永一六年(一六三九)に兵庫県坂越村与七郎が漁場開拓を志したのにはじまる。坂越村より一族および家僕ら一六軒の集団移住により形成された村は、いわし網漁撈をあわせて畑地開墾をおこなう主漁副農村として発展してきた。人口は昭和一七年の八八九人が最高で、世帯数は同三五年の一六五世帯が最高となっている。
青島の集落形成は、近海漁場の開発に伴って、漁村として成長・発展してきた。しかし、資本制漁業の進展する中で、魚族資源の減少に伴う漁場の衰退は、昨今における青島の人口流出、空家の増大などを生み、漁村は大きく変貌をとげている。
わずか四九ヘクタールあまりの島に、九〇〇人ばかりの人びとが集中し、最盛時には島の五〇%ほどが普通畑として開墾され、麦作と甘藷作中心の農業が続けられてきた。しかし、島の経済を支えてきたのは漁業であり漁業生産の力であった。青島の漁業は、藩政期の二統のいわし網とたい縛網の経営を中心として発展してきたといえる(表2―35)。
藩政期には庄屋の赤城家が網主として漁民の上に君臨していたが、明治期になると明治七年(一八七四)・一〇年と個人の網主経営は共同経営に移っていく。不安定な網漁業経営を島民全体の共同経営によって危機脱出をはかろうとするものであり、このような例は出海地区でも見られた。
たい縛網の場合、七〇人の労働力を必要とし、漁民は四月中旬から六月下旬にいたる間の七〇日間拘束され、この期間中はほかの個人の漁業は営めなかったという。こうした共同組織で行なわれた網漁業は部落民全体の生活を保障するものであり、そのぶん共同体的規制が強く働いているといえる。水揚げした魚類はすべて青島漁協を通じ、指定仲買人の競争入札となっていた。
表2―35にみる二統の網漁業は、その組織を通じて相対立し、青島の村落構造を二分した。明治期から現在に至るまで青島の主導権争いは、庄屋赤城家が坂越村出身の漁民を統率、一方、庄屋の分家赤穂家が大洲出身の漁民を統率し、戦前には縁組までもこうした系統によって行なわれていた。部落内の各種役員の選出等にもこうした人間関係が強く作用している、といえる。
青島の集落
青島の集落は遅越・地下・三軒屋・干ヶ浜・馬の谷・小廻の地区で、いずれも島の南東部に位置し、北西の季節風を防ぐ位置にある。坂越村から移り住んだ一六軒は地下に住居を構えたという。図2―39は村上節太郎が 調査した昭和五五年現在の住宅配置図であるが、昭和三〇年代の産業構造の変化による人口流出の結果、多くの空屋の分布が確認される。昭和五九年三月末現在、青島の世帯数は五七、人口一〇二人である。図中の空屋の数も五〇軒を超えるが、空屋のまま放置されると自然倒壊をまつことになろう。庄屋の赤城家も一〇一坪のとりわけ大きな建物であったが、空屋となり昭和五四年五月一四日自然倒壊のうき目にあっている。昭和三〇年代後半の青壮年を中心とする急激な人口減少は、地区の人口構造をいびつなものとし、現在二五才以下は皆無という典型的な高齢の島となっている。図中の青島小学校は昭和五四年三月廃校になり、その後公民館として利用されており、現在では訪島者の簡易宿泊施設として利用されている(図2―39)。
家屋の配置は、庄屋の赤城家を中心として村井戸を囲んだ形に立地している。この元小学校下の村井戸一個が飲料用の共同井戸であった。岩石海岸の発達は地下水が少なく、井戸の分布も断層の分布と密接な関係をもち、家屋の位置を決定している。遅越の「東井戸」、中屋下の「西井戸」など多数の井戸が分布していたが、ほとんどが塩分を含み、雑用水に利用された。開発以来ほとんどを井戸水にたよってきた飲料水は、昭和五二年度の離島振興事業で、逆浸透脱塩装置による簡易水道を敷設することになり、翌五三年に完成している。一日最大給水量、五〇立方メートルであり、島の人びとはもとより訪島する観光客にとっても非常に便利になっている。