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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 大洲の観光


 「住んでよし、訪ねてよいまち大洲」へ

 美しいまちには、美しい女が生まれる。美しいまちは伊予大洲、美しい女はおはなはん(小野田勇)。大洲は、かつて「おはなはん」の舞台になった所である。また、「風と雲と虹と」の一方の旗頭、藤原純友も、海音寺潮五郎によって、大洲が出生地という想定で紹介された。
 人口三万九〇〇〇人、面積二四〇平方キロメートル、旧大洲藩加藤六万石の城下を中心に発展してきた町である。今もって昔日の城下町の面影がそこここに残り、市街地の中央を東西に貫流する肱川や周囲の山々の自然が、町の表情をことのほか豊かな、詩情あふれるものにしている。この歴史的な観光資源と肱川という清流と山・緑をもとに、住む者にとって誇りうる郷土をつくり、訪ねてくる人びとにとってもここならではの特色を十分に味わってもらうための都市基盤整備・まちづくりをめざした粘り強い活動が展開されてきた。
 大洲観光の基本として、「人間のもつ、よき異質文化へのあこがれを満たしてくれる場」としてのふるさと性の尊重が考えられた。大洲市のふるさと資源は種類が多く、その歴史も古い。少彦名神終焉地の伝説に始まり、ドルメン・メンヒル・ストンサークルなどの古代巨石、城下町の佇まい、明治の屋並、格式高い社寺、中江藤樹邸跡、肱川の清流とひらけた河川敷、秋から冬にかけて昼近くまですっぽり町を被いつくす霧、伝統的地場産業、川魚山菜の味覚など。その手つかずのありのままのまちを守ることがめざされ、地味な環境整備の積み重ねがなされた。
 その事業の一つは、肱川流域をいかに美しくするかということで、毎年夏、住民総出の流域清掃を継続して行っている。また、あゆ・かじか・ふな・うなぎ・おいかわなどの自然繁殖を促すために、清流を守る三ない運動、つまり「捨てない、汚さない、こわさない」を全住民によって徹底的に進めているほか、市・観光協会・漁協の三者共同によるあゆの放流や、漁協の建て網漁法の規制によって、魚類の多い美しい流れが保たれている。
 もう一つの事業は、花木を中心にした樹木の植栽である。毎年約六〇〇〇万円近くの市費を投入して、冨士山をはじめ城山公園・肱川緑地・森林公園・稲荷山公園などの都市公園について、既存のもみじや桜などの樹種の慰撫をはかりながら、四季の名所づくりが着々と進められている。  

 城山公園

 西流する肱川が曲流する攻撃斜面の深淵に臨み、北流する久米川が西側をめぐる小丘陵上にある大洲城跡は都市公園の一つ城山公園として保存整備されている。今では桜の名所であるとともに、冨士山・神南山・清流肱川・市街地などの美景をながめる絶好の場所である。大洲城は、古くは比地城・地蔵ヶ岳城・亀の城・根来城・大津城ともいった。城の東端地蔵ケ渕は江戸初期、日本泳法の一つである神伝主馬流が発祥したところである。宇都宮八代にわたる根城地蔵ヶ岳が天正一三年(一五八五)開城させられたのち、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。近世城郭として大津城が建設・整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主の頃慶長年間(一五九六―一六一五)とみられる。
 城は天然の要害を巧みに利用し、外堀、内堀、肱川などを周囲にめぐらした平山城で、規模は大きくないが、よく整った城郭であった。
 本郭の位置は現在と大きな変動はないが、たびたび城郭の修築が行なわれた。高さ三間の石垣に囲まれた山上の本丸は、南北三〇間、東西二〇間で、西南の隅に四重四層の天守閣を構え、その東の台所櫓とその南の高欄櫓は、渡櫓でつながれた複連結式天守閣であった。山下にあって高さ三間の石垣に囲まれた二の丸は、東西八六間、南北一〇三間、西側から南側にかけて幅一〇間の内堀をめぐらし、太鼓・鉄砲など七櫓と冠木門・穴門・脇小門のほか数個の小門があった。本丸・二の丸の東南にあり、南北に幅一五間の堀をめぐらした二の丸の一郭には苧綿櫓をはじめ六櫓があり、ほかに南隅櫓のほか数個の隅櫓があり土塀でこれをつないでいる。三の丸の大部分は城の西部から南部を占め、鉤の手に侍屋敷が並び、城南椎の森丘陵に続いていた。
 大洲市所有の大洲城本丸及び二の丸(遊園地を除く)の約一万㎡は昭和二八年二月大洲城跡として、県指定史跡に指定され、また市所有の本丸に所在する台所櫓、高欄櫓、二の丸肱川畔の苧綿櫓、及び加藤泰通氏所有の三の丸南隅櫓は昭和三二年六月重要文化財に指定された。
 台所・高欄の両櫓は桃山期創建と思われるが、安政地震で大破し、前者は安政六年(一八五九)、後者は万延元年(一八六〇)にそれぞれ再建されたもので、二重二階・三階建、入母屋造、本瓦葺である。苧綿櫓は、慶長―元和期(一五九六~一六二四)創建と思われるが、天保一四年(一八四三)の再建で、二重二階建、入母屋造、本瓦葺である。南隅櫓は明和三年(一七六六)に改築されたものである。県指定有形文化財の下台所は、元禄五年(一六九二)以前の建物と思われる。

 城下町の佇まい
        
 大洲城跡本丸一帯は公園となり眺望よく、東に冨士山・肱川橋を見渡し、肱川の流れに浮かぶ遊覧船、夏は鵜飼船のかがり火、秋は肱川河原の芋たきを楽しむことができる。城山公園の南にある大洲市民会館が二の丸で、横に大洲郵便局・大洲小学校がある。やや右手の南隅櫓の近くが県立大洲高校で、校内に中江藤樹の住居跡があり、県史跡となっている。
 大洲小学校から西の一帯と正面の山根は昔の侍屋敷で、小学校前の大通りを桝形といい、これから東の本町・中町・片原町は町屋であった。現在も商業地域になっている桝形に面した大洲警察署は大洲藩学、止善書院明倫堂のあったところで、市史跡明倫堂跡の碑が建っている(図2―40)。この近く中町一丁目に、シーボルトの孫娘にあたる高子が嫁した蘭学者三瀬諸淵の生家跡があり、市史跡となっている。この付近の地蔵堂にある像高一〇五㎝の木造地蔵菩薩立像は鎌倉期の寄木造で市文化財である。警察署の南に中江藤樹の幼年期の住居跡があり今は大洲小学校の一隅となっている。これに接して、矢野玄道五〇〇〇冊の蔵書を保有する大洲市立図書館がある。若宮騒動の責を負い自刃し果てた山本尚徳邸跡は市史跡でここに大洲南中学校がある。
 寺院は、藩主の菩提寺である臨済宗曹渓院のほか、東山根、西山根、鉄砲町、椎の森に多く、神社は東端の山上に大洲神社がある。なお、「明治の屋並」「おはなはん通り」は大洲神社の西麓一帯、町家の東端部にあり、古い蔵屋敷跡が見られる。

藤樹邸跡 近江聖人中江藤樹が九歳から二七歳で脱藩するまで、藩主加藤貞泰に任えた時期を過したところ。当時の住居を復元した至徳堂や当時使用していた中江の井戸がある。昭和二三年一〇月二八日に県史蹟として指定された。
大洲城山郷土館 昭和三五年一〇月、故高井政生が自費で大洲城跡の一隅に建築開館した。郷土の歴史・芸術・民俗・産業・自然科学に関する資料千余点を所蔵展示しており、市内外からの観覧者が多い。
大洲市立博物館 第一展示室は、郷土の歴史・美術工芸品、第二展示室は、民俗資料・自然(動植物、地質、鉱右など)資料、特別展示室は特別企画により随時開催している。(祝日、月曜日休館。九時より一六時半まで開館、無料)

 臥竜山荘

 城下町大洲東端に肱川流域随一の景勝地臥竜ヶ渕がある。肱川の清流が淀み淵となって、山水画的な美しさを見せている。深渕に伏臥する霊龍を見て、藩主が臥竜ヶ渕と命名したといわれ、旧藩主の遊覧所であった。このあたり一帯は、蓬莱山・臥竜山荘・神楽山など亀山公園とともに水郷大洲を代表する名勝地に指定されている。この淵に臨む丘の上に、神楽山を背景とした約三〇〇〇坪の古式庭園をもつ山荘が大洲の桂離宮と呼ばれる臥竜山荘である。東と南に冨士山・梁瀬山・亀山・肱川・如法寺河原を借景とした典雅な景観を展開し、水郷自然公園の中心となっている。
 文禄年間に藤堂高虎の一族である渡辺勘兵衛は私宅に接してここに庭園を作った。後に三代大洲藩主加藤泰恒侯は、天資風流を好んでこの地を愛し、桜を吉野から、かえでを龍田から移植して風情を加えたという。其の後歴世の藩主は、時に臨んで屡々遊賞したが、補修することもなく次第に荒れていった。明治三〇年ころ河内寅次郎氏はこの地を購入して、現在の如く建築、庭園などの結構を整え昭和五三年三月二〇日、大洲市が河内陽一より譲り受け市において管理している。
 山荘は不老庵、臥竜院、知止庵、庭園、臥竜蓬莱山などよりなり、三建築はそれぞれ数奇をこらした京都工匠のみごとな作品で逸品揃いである。特に臥龍院は、桂離宮・修学院離宮などを参考として先代寅次郎自らの設計になるもので、本屋は迎礼、始定、壱是、清吹、霞月、食堂、庖舎の七室の寄せ棟造り茅葺平家建、文庫は瓦葺で、総建坪四三坪である。
 山荘の自然の景勝は、四季に亘ってそれぞれの風趣があり、時にはけんらん華麗にあるいは明浄閑寂の気をたたえるなど、筆舌では尽きない景致である。大洲市教育委員会は、臥竜山荘の建築、庭園、四囲の眺望何れも大洲市を代表する景観の一つとして、昭和三一年九月、亀山公園と共に「臥竜及び亀山公園」として市の名勝に指定している。

亀山公園 臥竜が渕の上流二〇〇mにある名勝地で、周囲の展望美しく、園内には約一五〇種の植物がある。特に深緑の夏には川下り遊覧の屋形船が眼下にただよい、鵜飼い舟の乗船場ともなり、秋の紅葉は川面に朱を映して一段と美しい。この一角に昭和四一年に国民宿舎臥竜苑が建設された。
国民宿舎臥竜苑 昭和四一年八月に亀山公園の一角に建設されたもので、鉄筋コンクリート四階建、暖冷房つきの近代的な宿泊施設の偉容を誇っている。宿泊定員一一三名個室二〇で、温泉も引湯されて人びとにいこいとやすらぎを与えるかっこうの場所となった。

 冨士山公園

 市の中央に位置し、冨士山に似た秀麗な緑の容姿を肱川の面に映し出す。標高三二〇m、一三〇ヘクタールに及ぶ広大なこの山は、旧藩主嫡裔加藤泰通がその大部分を市へ寄贈し、都市公園となった。旧城下と肱川が俯瞰でき、六㎞の周遊ドライブウェイと、数万本の桜・つつじ、数百種の珍しい世界の樹木園、展望台や休憩所・ベンチなども完備している。つつじ一〇万本公園をめざして、市役所、青年会議所、民間奉仕団体などの手によって整備事業が進められ、五月には見事なつつじの名所になっている。また、秋は学童や老人クラブの奉仕によって、山頂への車道の両側にコスモスと菊が植えられる。頂上には盤珪禅師の座禅石といわれる巨石遺石ドルメンがあり、二千数百年前の神奈備信仰をしのぶことができ、四季を通じていこいと行楽の場として最適のところである。
 冨士山公園の中腹には、禅林の大徳盤珪禅師の開山、第二代大洲藩主月窓加藤泰興の開基になる禅寺、如法寺がある。寛文年間(一六六一―一六七三)の寺院建築の一部がそのまま残っているほか、県指定有形文化財の禅堂、地堂菩薩立像のほか、釈迦三尊像など三百余点の宝物を蔵しており、寺域広大で青松古杉生い茂り、閑静な名刹である。

 行事と事業のセット化

 大洲においては、二月から一一月にかけて間断なく数々の催しがおこなわれる。そのほとんどが長い年月の間に培われてきた郷土、自然を素材にしており、毎年看板は同じでも中味の細かなところでいろいろな変化をつける工夫がなされている。また、肱川の自然を舞台にした「鵜飼い」や「芋だき」「川下り」などの事業が行なわれている。これらの事業には共通して「味覚観光」が大きな比重をしめている。地元で生産された材料を生かして、地域内他産業との密接な連携によって観光事業の存立がはかられる工夫がなされている。また、市内業者の育成のために観光協会によって登録店制度がとられるとか、自然や資源に見合った量の制限、たとえば鵜飼船の船数規則、地域の特性をそこなわない料金設定、たとえば低廉性を打出した芋だき料金など行政・業者・市民が一体となった活動が継続されている(表2―36・37)。

 鵜飼い・川下り
        
 昭和三二年に、水郷大洲唯一の観光資源として、当時の市長沼田恒夫、商工会議所会頭桧垣吉太郎などの提唱によって開発され、以来逐年発展し、現在は観光大洲の表看板になっている。六月一日から九月二〇日にかけて行なわれ、水郷大洲の夏の夜をいろどる風物誌であり、観光客は著しく増加して、年間二〇〇〇隻を越え二五〇〇〇人に達している。開設当初はわずかに三隻の遊覧船であったが、現在は六〇隻と鵜飼三隻を保有し、今日では日本三大うかいの一つに数えられるようになった。

「午後六時、乗船場の岸を一斉に遊覧船が離れ、一路約二㎞の川下り。四囲の景色が碧水に影をおとし、ゆるやかな流れに乗って川魚料理に舌つづみを打ちながらの船中食事。黒装束をまとった鵜匠が数羽の鵜をあやつりながらいよいよショーの開幕。清流を泳ぐアユをすばやく見つけて横ぐわえし水面に顔を出してのみ込む。この得意満面の鵜たちへ遊覧客が一斉に拍手をおくる。そして鵜は再び獲物を求めて水中へ……。こうして約三時間、観光客は夏の風物詩うかいを満喫する(大洲市)。」

 いもたき

 いもたきは藩政時代から受けつがれて来たこの地方独得の秋の風物詩であり、三百年の伝統の味である。この地方には春秋二回お籠(こも)りという地区住民の寄り合いの行事があり、秋には肱川の河原に収穫の夏いもを持ち寄り素朴な親睦融和の一刻を過した。これを昭和四一年に観光行事として開発したものである。晩夏から中秋にかけて涼しい川風のわたる肱川の河原を座敷とし、大洲自慢の夏芋を炊きながら、舌の上でとけるような味をたのしんでもらおうという趣向である。値段も一人前一二〇〇円と安く、非常に人気があって一晩に二〇〇○人ぐらい、名月の晩には三五〇〇人ぐらいの来客があって壮観である。また、観光業者による芋の買入れ価格の保証、農家による芋の量の保証、農協の仲立ちによる計画栽培、それに流通過程における小売業者及び関連業者など農業と商業と観光が一体となった地域循環型観光としての特色もある。













図2-40 大洲市の古道めぐり

図2-40 大洲市の古道めぐり


表2-36 大洲市とその周辺の観光コースと主な事業

表2-36 大洲市とその周辺の観光コースと主な事業


表2-37 大洲市の観光客の推移

表2-37 大洲市の観光客の推移