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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 五十崎の凧合戦

 凧喧嘩の由来

 五十崎の凧合戦の起源は浜松や越後の白根や長崎のように明確ではない。しかし喜多郡の紙の文献は、天暦四年(九五〇)の正倉院文書にあるほど古い。明治四四年(一九一一)の『五十崎郷土史』によれば、鎌倉時代から端午の節句に凧を揚げたと誌しているが、何によったか不明である。
 筆者は五十崎町平岡の生れで、凧をあげて育ったが、戦前には凧合戦とはいわず、凧喧嘩といい、端午の節句といわず凧節句と俗称した。藩政時代から五十崎や内子で凧喧嘩が盛んで、弊害まで出ているのは、凧の材料の丈夫な和紙と竹の本場で、凧は消耗品で、壊れても水の中に落ちても平気であったからである。
 内子の『六日市永久録』(弘化四年)(一八四七)に次のような文言がある。

五月凧上け之事  毎歳五月五日六日凧を上け、六日市八日市福岡取合を致し争論に相成、又々作物踏荒候二付、五月五日内ノ子福岡町組頭五人頭を呼出し、当弘化四年未年より○○番申付然ル処翌申ノ五月六日東二而喧嘩致し、東町伝治郎方江石ヲ打チ又作を踏荒候段申出不埓二付同十二日内ノ子福岡町之組頭五人頭中呼出御届可申上哉、又向後を締候哉、当○合定書相渡し廿日迄二一統江申聞致返答候様申聞、追二返答之処一統奉畏候二付御届不被下候様申出ケ条ハ十五才以上之者凧上候事不相成、凧ハ半紙六枚二限候事、四月廿日より五月六日迄之外不相成事。

 明治大正昭和戦前の凧上げ

 五十崎の凧喧嘩は、明治維新で藩の制約や庄屋の監視がなくなったので、明治五年頃から自由になり、旧暦の端午の節句と田植休みに揚げていた。五十崎の豊秋河原は、凧喧嘩をするのに格好の場所である。拙宅には明治五年(一八七二)と同七年と、それより少し古い凧の糸の枠が残っている。枠には天保十年(一八三九)生まれの祖父の名が墨で書かれている。日露戦争に勝った年は、復員軍人の元気者が中心で盛大に凧を揚げたという(藤本勝談)。
 五十崎地方では古来、男児が生まれると初節句に、引合い(隣組)の人びとが集まって大きい凧を貼って、凧節句に揚げて大いに祝ったものである。
 大正時代は古田方(西方)は小田川の中洲(中河原)で、平岡方(がた)(東方)は榎のある駄場で、川の流れを挾んで対抗し、凧の数は今より少なく一〇〇前後であった。今のルールと違って、勝手な「ガガリ」をつけ、切られると根付のところから糸は返してもらい、凧だけ取られた。昔の糸は緒で自分の家で綯った丈夫なものであった。浅い小田川を渡渉して来たり、石の投げ合いをした思い出がある。
 昭和一五年当時は盛大になり、相手方の凧を多数取った者に、天神商工会と五十崎商工会と別々に表彰していた時代がある(写真残存)。戦時中は自粛し、男児の初節句の祝いも質素にした。

 終戦後の凧合戦

 昭和二一年の凧合戦の景品には、農業会の在庫の売残りの品を利用した。同二二年から五十崎凧に、アドバルーン式の宣伝を始めた。富永呉服店の凧文字と、宮崎芳満が映画の「月よりの使者」を凧文字に描いた。それまでは縁起のよい凧文字か初節句の男児の名が普通であった。同二三年から凧合戦の日を旧暦五月五日だったのを新暦六月五日に改めた。
 昭和二九年九月天神村は五十崎町と合併したので、同三四年から町の商工会と町公民館が凧合戦を共催することになった。昭和三二年六月五日は雨のため次の日曜日の六月十六日に延期した。翌三三年から五十崎凧にスポンサーを入れ、寺谷喜古久と都築数恵に一枚二五〇円で、各々一〇〇枚注文し、松山の白方タオル・白魂・一六タルトなどの文字凧が揚った。もっとも以前から栗田瓦や木下瓦などは自分の企業の宣伝凧をあげていた。昭和三四年六月七日前田医院は三mに四mのジャンボ凧を麦を刈った田圃で揚げた。同三四年の夏、五十崎町銀座会の有志が阿波踊りを見学し、これにヒントを得て五十崎の凧踊りを始めた。昭和三五年から六月五日を、子供の日の五月五日に改め、雨のときは次の日曜日と決めた。同三七年五月五日、松浦医院の次男が「ガガリ」で顔を負傷した。それで翌三八年から「ガガリ」を町で統一し、尖っている先に丸い玉をつけ安全にした。同三八年度に凧踊りのユカタを新調した。
 昭和三七年一一月三〇日五十崎凧合戦を町指定の文化財とした。同四一年四月五日付で県指定の無形文化財となった。同年五十崎町観光協会が発足し、今後五十崎凧合戦の行事は協会主催で行なうことになった。

 凧合戦行事の発展過程

 昭和四二年五十崎凧おどりの作詞を募集し、上宿間の増本保夫の作詞が入選。愛大佐々木宜男教授が作曲、愛大神野寛教授が振り付をした。
 昭和四五年五月から初めて出世大凧(大きさ四三〇㎝と二九〇㎝)を二つ町費でつくり、最近一年間(四月一日より三月末まで)に生まれた男と女の姓名を書いて、出世を祈って揚げることにした。同四八年一〇月凧貼りの名人の寺谷喜古久が死去したが、後継者が続出した。徳永初太郎・都築数恵・広瀬透・佐伯敏行・谷口清・奥島重則・山本千代一らが凧を貼り、凧文字や凧絵は成田幸子・浅倉忠則・寺岡久夫らが分担している。
 昭和四九年二月二三日に五十崎中央公民館で、町教育委員会・町観光協会共催で凧の研究会を開催した。河内町長・久保県議・森久内子駅長・製紙家長野幸博・村上節太郎愛大教授・五十崎中学校長・同教諭などが出席した。村上が外国の凧や文献を紹介し、中学校の行事に組み入れることにした。五月三日を目標に中学生に創作凧コンクールを指示した。三日を中学生、五日を大人の凧合戦日と決めた。
 昭和五〇年五月二日の午後、中学校で世界の凧デザイン凧を審査し、三日の朝中学校庭で標準凧(大きさ一六七㎝と一三六㎝)の凧文字を審査し、次いで女子の凧おどりクラスマッチ、一二時半から五・六年生、午後一時半から中学生、午後二時から豊秋河原で子供の凧合戦を開催した。同じ年の八月一三日、五十崎の凧の歴史を探る座談会を村上邸で開いた。出席者は藤本勝・堀尾忠一・山田彦邦・富永雅治・藤本仲衛・竜田亨・都築数恵・村上節太郎。昭和五〇年発行の「日本の凧の会」の会報一〇号に初めて「五十崎の凧合戦」の記事が載った。
 同五一年「えひめのふるさと一二月」県観光課選定に、五月の行事に選ばれた。同年五月三日は雨のため、子供の大会を、大人の会の翌日六日に挙行した。貸凧は二〇〇〇円とし、戻すと使用料一〇〇〇円とした。同五二年は五日は雨のため八日(日)に延期した。同五三年一月三日、富永雅治の提案で「新春凧上げ大会」第一回を催した。五月と趣きを異にし、新愛媛・日本の凧の会五十崎支部・中央商店街の共催で、アイデアを生かし、よく上がる自作凧を持参し、喧嘩はせず、優秀な者にトロフィを五位まで授与した。この会は五七年度に一度正月五日に催したら、参加者が減ったので、以後一月三日に戻し継続している。
 昭和五三年五月五日(三日は廃止)朝九時から豊秋河原で中学生の凧文字の審査、一〇時半から神事で幼児の成長を祈願し、男と女の出世凧を揚げた。一一時から女子の凧おどりのクラスマッチ、一二時半から三時半まで待望の大凧合戦。中学生は榎より北、大人は豊秋橋と榎の間とした。第三回剣道大会は午前中で榎の下。うどん食べ放題は橋の下に移転、第七回愛鱗会は例年通り町営プール。天神産紙工場が店舗を改造し、手漉和紙の実演を見せ、即売店を開き、年々改善している。同五四年度からは前年同様五月五日の一日とし、本年は天候に恵まれ、五〇〇枚の貸凧の在庫がなくなるほど、盛会であった。昭和五五年度と五六年度とは、五月五日は凧文字の審査だけにし、世界の凧・デザイン凧は一〇月一五日の秋祭の午後にしたが、失敗で観覧者が少なく、中学生の負担が重いので、以後廃止した。昭和五六年度から、榎の北の高圧線を移したので、凧合戦場が広くなり、とてもよくなった。本年からスポンサー凧二枚一万円を、物価上昇のため一万五千円にした。同五七年度に、凧の絵はがきを二枚五〇円で観光協会で販売することにした。
 昭和五八年度の五月五日は雨のため八日(日)に挙行。ハングライダー数機が飛来した。五十崎町観光協会が「凧合戦と手漉和紙の里、見て歩き」の八ページのカラーの案内書を発行した。同五九年度の五日は風が弱くて、困っていたところ、午後三時ころになって順風が出て、盛会裡に終った。

 五十崎凧の特長

 ①字凧が五十崎の特色である。その文字が独特の凧文字で、近くでは見にくいが、目を細くするか、空に揚がったとき見ると、白い文字の部分が浮んで判読できるのである。戦後五十崎側は五丸で赤地、天神側は天丸で緑地に決めた。絵凧は五十崎の伝統的凧ではない。②次に五十崎凧の特色は四角で、縦骨二本横骨四本で、標準凧の大きさは縦一六五㎝横一三五㎝で、頭が二〇㎝ある。越後の三条のように六角凧でもなく、長崎のハクのように菱形凧でもない。③次に根付(糸目)の糸は細く上二つ、下二つ、中二つで六箇所で、浜松凧のように多くない。骨は竹で中の横二本を弓張りにするが、うなりはつけず、足(尾)もっけない。但し喧嘩凧には登録番号をつける。風の強いときは弓を強くしぼる。④第四に相手の凧糸を切るため「ガガリ」を一つだけつける。昔は勝手な刃物をつけたが、今は観光協会規定の丸い玉を先につけた危険のないものに統一した。糸の太さもほぼ一定している。⑤第五の特色は貸凧である。毎年五〇〇枚の貸凧を用意し、突然よそから来ても、僅か一〇〇〇円で凧を貸してもらい、凧合戦に参加することができる。その点越後の白根の大凧合戦をはじめ、浜松も長崎にも貸凧はなく、旅行者は遠方から眺めるだけである。⑥第六は五十崎のように合戦場が広く快適で、観戦も橋の上からできるところは、日本中世界中にない。⑦その他出世凧、神事、凧文字コンクール、凧おどり、ミニ凧土産凧、クイズ、モデル撮影、合戦写真コンクール、凧せんべい、凧そうめん、凧最中、当日のうどん食べ放題(いくら食べても二五〇円)など催しも多い。なお当日の国道五六号は車が輻輳するので、早目に九時までに行くのがよい。