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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 八幡浜地方の漁業


 県下有数の底びき網の基地―八幡浜

 昭和五二年の八幡浜市の漁業経営体は二五二で、県下全体の二六%を占めるに過ぎない。しかし、この地域の漁業経営体は漁船漁業が二三七(九四%)で絶対多数を占め、かつ県下の一〇〇トン以上の漁船漁業経営体二四のうち一〇(四一%)を占めて、大規模漁業経営体中心の県下有数の漁船漁業の基地となっている。八幡浜の漁船漁業の特色は底びき網漁業にあり、愛媛県における沖合底びき網漁業、以西底びき網漁業、遠洋底びき網漁業を独占している。
 愛媛県の底びき網漁業(小型船も含む)は、まき網漁業と共に本県の漁船漁業の双璧をなしており、五五年度総漁獲量一六・六万トンの中で三・二万トン(一九%)を、漁獲高五三三億円の中で一八二億円(三四%)を占めている。漁獲量でまき網に次いで第二位、漁獲高ではまき網をしのいで首位を占め、本県の漁業生産ではきわめて重要な役割をはたしている。この内、底びき網漁業発祥の地であり、根拠地でもある八幡浜は、年間漁獲量約三万トン、一〇〇億円と、水産加工製品三〇億円(練製品・乾製品)を合わせると約一三〇億円の生産で、有数の水産都市を形成している。

 底びき網漁業の発展

 底びき網の本県における発展については、小林憲次の「機船底びき網漁業の変遷について」が詳しい。以下、この報告を中心に述べる。
 トロール漁業はイギリスからの輸入であるのに対し、機船底びき網の名称は地方によって異なるが、日本で改良・発達した漁法である。一般に機船手繰、機船打瀬、手繰船、トロール船などと呼ばれている。本県でもトロール船、トロ船などと呼ばれている。正確には、二そうびき機船底びき網漁業で、トロール漁業ではない。オッターボードの有無、船の大小の違いである。
 本県においても機船底びき網の前身の手繰網は古くから操業され、藩政時代には盛んに使われた。宝暦五年(一七五五)の宇和島藩漁業調べの中に、ふり網(底びき網)、手とり網(手繰網)が見られる。又、打瀬網も古くからあり、明治三七年(一九〇四)には八幡浜市向灘に四三統の打瀬網があり(『八幡浜市史』)、大正八年(一九一九)には城辺町久良で八幡浜より打瀬網七統購入の記録(『城辺町史』)もある。
 本県の機船底びき網漁業の創始者は西宇和郡真穴村(現八幡浜市)の柳沢秋三郎で、アメリカへの出稼から帰国した大正七年(一九一八)に島根式漁法による漁船、漁具を導入し操業を始めた。彼はさらに大正一一年(一九二二)島根方式の一そうびき漁法をとり入れ、操業を行なって好成績をあげた。この一そうびき漁法は好能率で急速に増え、大正九年(一九二〇)には早くも三四統に達した。しかしこれは沿岸漁業に大きな影響を与え、大正一二年(一九二三)に向灘の打瀬業者が機船底びき網の許可を申請したが、沿岸漁民の反対で不許可となった。このため宮崎・大分・広島・鹿児島・高知へ出願し許可になっている。
 この機船漁業にまず進出したのは、古くから打瀬網漁業の盛んな八幡浜市向灘、西宇和郡伊方町、城辺町久良などで、機船底びき網の根拠地となった。しかし沿岸漁民の反対のため昭和二年に西宇和郡管内で一四統になったが、なお沿岸漁民との対立は解消せず、違反船の許可を取り消していったので、一五年には八幡浜の底びき網は消滅した。
 戦争中は食料不足のため操業を黙認したため、一九年に七統が復活し、二三年には二七統に増加した。この結果、底魚資源の乱獲の弊害が出始め、以西底びき網以外を中型底びき(一五トン以上)と小型底びき(一五トン以下)に分けて減船処置をしていった。その結果、本県の中型底びき網は三九年には七統、更に四三年には四統(八隻)となり現在に至っている。

 沖合底びき網漁業の現状

 三七年の漁業法の改正により、中型底びきは沖合底びきと名称が変わった。本県の漁船は前述のように減船したが、優秀な技術の漁業者は二八年ころから中間区域の佐賀・福岡・山口の漁業権を獲得して進出を始め、四四年には中間区域に一三統、以西海域に九統、更に遠洋に三統とめざましい発展をとげた(表3―13)。このように本県出身者の船主による県外船の増加によって二九年に愛媛県機船底曳網漁業協同組合の名称を、日本西海漁業協同組合と変更した。
 本県の日本西海漁業協同組合所属の漁船は、二そうびき五〇~七〇トン階層に属し、非常に安定した高い収益をあげてきたが、石油危機以後の燃料、資材の上昇などにより経営状況はきびしい状況となった。かつては魚価の上昇によって安定していた経営も、練製品原料(えそなど)の値下りから魚価の上昇はあまり望めず、漁業者自らの生産性の向上への努力でやっと対応している現状である。
 現在、日本西海漁協所属の八幡浜資本の組合員は二〇統四〇隻で、この内、八幡浜を基地(水揚地)とするものは一〇統二〇隻で、太平洋南区を漁場としている。他に中間区を漁場として下関を基地とするものが一〇統二〇隻、東シナ海に出漁する以西底びきで、八幡浜資本ながら長崎を基地とするもの六統一二隻、下関基地一統二隻があるが、いずれも八幡浜への水揚はない。五五年までは九九九トン級の大型船が大手水産会社にチャーターされてラス・パロマスを基地とするアフリカ沖のトロール漁業に従事し、また、北転船と呼ばれる遠洋底びき網の北洋漁場出漁船は、三四九トン型三隻でスケトウダラを獲っていたが、共に廃業した。

 宇和海の小型機船底びき網漁業

 前述の沖合底びき網に対し、終戦後の混乱の中から、無許可の小型機船底びき網漁業(二そうびき)が自然発生し、操業が始まったが、取り締りもできず放置されていた。二七年に小型船底びき網漁業整理特別措置法が公布され、本県ではこの漁業の一部解除か全面禁止かが問題となった。そして三五〇隻もの小型機船底びき網漁業が整理され、四二年には伊方・川之石・八幡浜の三港を封鎖して出入の小型底びき船を検査することまで行なったが、県は四三年に水産庁の承認をえて規則を改正し、宇和海の小型機船底びき網漁業は許可になった。漁船は五トン未満で、一五馬力以下と二五馬力以下の二種類で、二三〇隻の許可船は宇和海小型機船底びき網協会をつくった。

 小型船による沿岸漁業中心の伊方町

 平野に乏しい宇和島藩は、漁業を藩の財政上保護育成すると共に厳重な統制下においた。その中で最も重要な漁業がいわしの船曳網で淡路島の福良地方から伝わったものと考えられている。宝暦七年(一七五七)の『大成郡録』によると、このいわし網が伊方浦に一六帖、九町浦に三帖、二見浦に三帖あった。この伊方浦のいわし網一六帖は佐田岬半島のみでなく、宇和島藩内の各浦中最大の保有数で、伊方浦のいわし漁業の隆盛が想像される。
 現在は、五トン未満の小型船による船びき網・流し網・刺し網・底びき網などであじ・さば・はぎ・たい・いかなどをとる沿岸漁業が中心である。
 表3―14から最近一五年間の漁家の動向をみると前半は専業漁家の減少がめだったが、後半は逆に第一種兼業漁家から専業へUターン現象が起こっている。これは宇和海沿岸一帯に共通した傾向である。伊方町をみると四三年から減少しているが、これは漁業不振から県外への出稼やみかん栽培への転業によるところが多い。それが四八年からの専業漁家の増加は、伊方原子力発電所建設や国道一九七号の改良工事などの進捗により、出稼者がUターンし、一部のものが再び漁業に戻ったことが主たる原因と考えられる。
 大浜、仁田之浜、湊浦、豊之浦など伊方漁協の宇和海側地域はまき網・定置網・小型底びき網などが中心で、漁場は沿岸から宇和島沖の嘉島周辺にまで及んでいる。
 これに対し町見地区は宇和海側(田之浦中心)、伊予灘側(大成中心)共に五トン未満の刺し網・流し網・大型定置網などに加えて、三崎町串地区と同様に海士がいて、あわび・さざえなどを採っている。有寿木地区は小規模な水揚にすぎないが、九町越への原子力発電所建設に伴なう漁業権放棄の補償は、町見漁協と共に有寿木漁協にも支払われている。

 停滞する水産業―瀬戸町

 三机を中心とした瀬戸町の漁業は、藩政時代から昭和初めころまでは盛んであった。明治四〇年(一九〇七)、地元の奥山又三郎は魚見台のある金比羅山頂から砂嘴の網干し場まで、私設電話を開設して、魚群の到来を知らせる便を図っている。これは、往時の漁業の活況を推測させる一端であるが、現在は三崎町・伊方町の漁業に比し振わない。
 昭和四〇年代後半から五〇年代初期の漁業の不振はかなり回復して、いわし船びき網と小型底びき網で、しらす・いわし類・かわはぎなどを漁獲し、うに・てんぐさなども採取しているが、養殖漁業はきわめて少ない。
 沈降海岸の続く伊予灘海岸の足成は、瀬戸町では最も漁村的性格が強く、かつては、たいのしばり網や遠洋のさば釣り漁もあったが現在は消滅し、最近はうにの採取が盛んである。宇和海側の砂浜海岸に立地する大久(漁港名四ッ浜)は、大正初期から第二次大戦中まで、いわしの巾着網が盛んであったが消滅し、一本釣などの零細漁業がわずかに残存するにすぎない。

 海士漁業の町―三崎町

 三崎町は、潮流の激しい速吸瀬戸の激しい潮流に洗われた、採貝、採草、釣り場によい碆(はえ・はや)と呼ばれる顕・陰岩礁が多い。
 『西海巡見志』には三崎浦の岩礁として一三の碆をあげているが、三崎町の小字には現在一九の碆地名が見られる。三崎町には、たい・はまちなどの一本釣、ふぐ延縄漁業・磯建網漁業など零細な漁業もあるが、あわび・さざえ・うに・てんぐさなどを採取する海士漁業は、藩政時代から引き続いて現在も最大の特色ある漁業となっている。
 養殖漁業はほとんど存在しないが、昭和四三年に完成した漁業協同組合経営の蓄養池の存在は、漁業経営上の大きな特色といえる。地元での水揚したものや、他地区から買いつけた貝類、伊勢えびなどを一時的に蓄養池で飼い、禁漁期間の品薄期や、年末の需要期に共同出荷している。出荷は漁協が直接運搬船か自動車で中国地方(広島、呉方面)や京阪神、松山などに出荷している。又、四六年から佐田岬漁港に漁協の加工部門をもち、うにのびん詰加工を行なうなど漁業経営の先進的姿がみられる。その他、串や与侈には三四年以来、静岡県下田漁港を基地とする伊豆沖出漁への出稼ぎが多少ある。三崎町漁業の中心基地は第四種漁港の佐田岬漁港で、明治四一年(一九〇八)に築港開始以来改修を重ねて、近代的漁港に発展したが、他は小規模な第一種漁港にすぎない。

 海士漁業の発展

 海士の歴史は古い。参勤交代の時、宇和島藩主や南九州の諸大名は航行の難所であった速吸瀬戸を避けて半島部の三机~塩成、又は三崎~二名津の陸路を利用し、船のみ岬を迂回させた。上場または上手(伊予灘側の呼び名)に位置する二名津、三机はこれらの渡海船の港として発達した。この参勤交代の藩主に海士が鮑を献納して知られるようになり、藩より買上げられ、幕府に献上された。元禄九年(一六九六)の小物成に「串鮑千九百盃」と『大成郡録』は記している。塩水で加工し、煮干した鮑は明鮑と呼ばれて、保存できる珍味として評価された。上場の雀碆から足成に至る専用漁業権が海士に認められた。明治時代までは上場に好漁場があり、二名津・明神・松・与侈・串が海士中心に発展した。
 伊達藩の転封と共に東北の名取郷の人が狩場や山の番人として入って開拓したのが名取で三崎の定置網漁業の中心となり、上場は海士、下場または下手は網、一本釣の特色ある漁業として発展した。しかし明治中期に夏柑が導入されて漁業依存度が低下した。海藻類を肥料にしていたが、大正末期から大豆粕や化学肥料が用いられるようになり、その結果かって漁業で栄えた三崎・二名津・明神・松・名取などは夏柑中心の農村に姿を変えた。これに代わって漁業は半島先端部の串・与侈・正野など、強風で夏柑導入が容易でなかった所が漁村的色彩を強めた。
 その柱になったのが海士である。明治二〇年(一八八七)に串の加藤松太郎により丸一組が組織され、あわび・さざえの缶詰工場がつくられ、その需要を満たすため海士漁業が発展した。水中メガネが開発され、漁場を求めて佐賀関半島、大分県の保戸(ほと)島、宮崎県の土々呂・美々津、山口県の角島、対馬・五島方面にまで出稼した。又、明治一四年(一八八一)には串の岡崎孫太郎他一五名の海士が雇われて朝鮮に出漁し、明治二〇年(一八八七)には直接出漁するようになり、明治三二年(一八九九)には工場進出もして海士の漁獲物はこの工場で現地処理されるようになった。
 朝鮮への出稼は昭和一五年まで約六〇年間も続いた。二三年ころ、約三三〇名いた海士が現在は一四〇名に減少し、平均年令も四〇才以上と高齢化している。串が中心で一一〇名、他は与侈・正野に分布する。

 三瓶漁業の発展と現状

 まず網漁業は庄屋などが営んだ漁業で、例えば周木地区の場合でみれば、四つ張網が二統あったが、一統は旧庄屋が営んでいた。この二統は藩主のお墨付きで経営権を与えられたものである。昭和恐慌を契機として、それまで主であった地びき網より四つ張網の比重が高くなり、戦後徐々に衰退した。それに従って網元の絶対的権力も薄れていった。四つ張網は三瓶湾漁協成立後、化繊網、魚探、動力、無線などを導入して逐次近代化され漁獲高が増した。四〇年代以後、まき網に順次転換し四四年に四つ張網は消滅した。四五年には全船まき網になり、八幡浜地方では最も多い一〇統のまき網基地になっている。
 次に突棒漁業は長早地区を代表する漁業で、永い歴史と伝統的技術をもって営まれてきた。明治三五年(一九〇二)長早の浜田愛太郎が対島に突棒漁業のあることを知り、厳原を基地としてこの漁法を習得して操業した。その後僚船も増えて、大正六年(一九一七)には五島の玉ノ浦を基地として操業を始めた。対馬近海のかじきまぐろ漁が不振になった大正一三年(一九二四)、南宇和郡久良(現・城辺町)のさんご採取業者、小泉重太郎の情報で台湾近海の漁場を知り二隻で出漁し、翌年より出漁船も増加した。台湾のスーアオ(蘇澳庄)を基地としたが、移住しないと漁業を継続できないため、大正一五年(一九二六)家族を呼び寄せた。台湾に渡った漁船は約一〇隻でモリでかじきまぐろを突く漁法であった。第二次大戦中は船、乗組員共に軍に徴用されたが、終戦と共に長早に引揚げた。
 二二年ころから操業を再開し油津・長崎を基地として土佐・奄美諸島・男女群島・済州島に操業を広め、船も三〇年ころには二〇~三〇トンと大型化し七隻に増えたが、李ラインによって済州島近海では操業できなくなったため、東シナ海・北海道・三陸沖・伊豆諸島に出漁するようになり、四四年には三〇~四〇トンと更に大型化し一三隻に増えた。しかし五一年にはタンカーブームによる船員の転職と、かじきまぐろ網の使用などにより、突棒漁業の灯は消えたが、現在は一五トンクラスの四隻が再操業し、伊豆諸島沖などで操業している。
 鯖はね釣漁業も三瓶の漁業の代表的なものである。明治一〇年(一八七七)ころから土佐沖でさばの天秤釣を行なっていたが、はね釣漁法そのものは昭和二二年周木の吉岡惣右衛門らが屋久島近海に出漁中、静岡県焼津のかつおはね釣の技術を習得し、これをサバ釣に導入して始まった。
 このころの漁場は主に韓国の済州島周辺海域で、新漁法によって漁獲高は急増し、三瓶漁業の中心となった。李ラインによって済州島漁場から締め出され、東シナ海に漁場が移り、鹿児島・長崎・下関などを基地として操業した。この漁法は周木地区によって代表されるものであるが、明治初年の手労働時代には単純な個人資本でこと足りたが、漁船の動力化、大型化が進むにつれて個人資本では賄いきれない情勢となり、親族による共同経営形態が生まれた。さらに漁場が高知沖から鹿児島へ移り、漁船の大型化の進行に伴ない徐々に遠洋漁業としての性格を持ち始めたため、次第に県外資本が増加した。三四年になると山口・長崎の大型まき網船が大量に東シナ海に進出し鮮度のよいさばが市場に供給されるため、はね釣の場合満船になるのに日数がかさみ、鮮度低下で買いたたかれ、採算の悪化で廃し、タンカーの経営に切り替える者が続いた。大型船は失敗したが、近海四〇トン型のさば釣が三八年から復活し、千葉県沖・伊豆諸島沖近海を漁場として焼津・銚子を基地にわずかに操業しているにすぎない。
 以上の突棒漁業とさばはね釣漁業を基盤として、三七年に愛媛県漁業公社と地元の出資で三瓶地区漁業公社を設立し、沖縄方面へまぐろ漁業に出漁し、さらに三八年には三瓶漁業生産組合を結成して、サモア島を基地にまぐろ漁を行なった。しかし二隻の漁船が共に遭難し、遠洋漁業は挫折した。これに代わる形で四七年よりニュージーランド近海のいか漁に出漁している。
















表3-13 年度別日本西海漁業協同組合組合員統数

表3-13 年度別日本西海漁業協同組合組合員統数


表3-14 佐田岬半島町別の漁業専・兼業別個人経営世帯の推移

表3-14 佐田岬半島町別の漁業専・兼業別個人経営世帯の推移