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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 地下資源

 保内町の鉱山

 八幡浜市周辺から佐田岬半島にかけての三波川系結晶片岩のなかには出石・金山・今出・大峯・成安・高浦などの含銅硫化鉄鉱床が分布していて、明治以来、四国の主要産地の一つとなっていた。保内町・長浜町・三崎町に多くの鉱山が開かれ、全盛期には試掘をあわせて八〇鉱区におよんでいた。保内町の鉱山のほとんどは、昭和の初めころ伊方の兵頭宇治吉が買収し経営していたが、昭和一一年には昭和鉱業(株)に経営権が移った。同一六年からは帝国鉱発(株)が受託し積極的に開発を図った。同社は川之石に日産三〇〇トンの大選鉱場を建設し、地場産業の開発に大きな役割を果たした。その後、戦争激化と政府の操業中止命令により、二〇年四月には全山休山している。二三年には東方鉱業(株)が全鉱区の一括譲渡を受け、翌二四年より開発に着手した。大内・永坂・大峯・今出などを整備し採鉱したが、二八年以後鉱石品質の制限を受けたのと、鉱石価格が低落したため三三年末についに採鉱を中止した。
 保内町川之石字大峯にあった大峯鉱山は、明治二三年(一八九〇)に発見され、翌二四年より川之石の白石和太郎が創業した。何度かの社名変更後、明治製錬(株)と合併したのち、大正一四年(一九二五)大峯鉱山(株)が設立され経営に当たった。その後、昭和一一年に昭和鉱業が経営、同一六年から帝国鉱発、戦後は東方鉱業が経営していたが、三三年以来休山している。この鉱山は、当地方最大の鉱床を誇り、含銅硫化鉄鉱がおもであった。品質は銅一〇%、硫黄四〇%内外で露頭部より下部に掘り進み、海抜二二〇mの露頭部より海面下一八〇mの間が開発されている。明治四〇年ころの大峯鉱山は、別子鉱山に次ぐ四国第二の大鉱山であり、月産六〇〇〇トンの出鉱量を誇り、沖合いの佐島に製錬所を設けていた。大峯鉱山(株)が経営していた昭和四年には年間六六四四トンを採鉱し、従業員は一六五名であった。
 保内町須川にあった柳谷鉱山は、明治二二年末に発見され、翌二三年より採鉱が始まった。当時は年産三七〇トン以上を産し、製錬所を同所に設置し、採鉱、製錬ともに盛況であった。しかし、鉱毒の煙害がはなはだしく、住民に訴えられ明治二六年(一八九三)に採鉱を中止した。
 明治二四年(一八九一)に保内町喜木字永坂において発見され、採鉱を始めた永坂鉱山は、一時は年産三六九一トンをあげたが、同二九年早くも鉱脈がとだえ休山した。その後、同四二年には鉱区内字黒岩より採鉱し、年産一一〇七トンに達した。経営者は昭和一一年昭和鉱業、同一六年帝国鉱発と代わり、戦時中一時休山していたが、二四年から東方鉱業が再開発に着手した。しかし、営業成績が思わしくなく、同三三年に休山した。
 保内町宮内にあった大内鉱山は、明治三九年の創業であった。経営者は昭和鉱業・帝国鉱発・東方鉱業と代わり、昭和三三年末から休山している。昭和二八年に八幡浜市日土の高手鉱山と坑内で貫通し、同一鉱床であることがわかった。大内鉱山は下部より上部に向かって、高手鉱山は上部より下部に向かって開発せられたものであった。
 保内町磯崎と長浜町出海の境にあった金山鉱山は、明治二六年ころ事業を開始している。大正年間がこの鉱山の最盛期で、従業員三二〇人で、年産九二二八トンの銅を出鉱している。鉱石は海路兵庫県の飾磨へ送り製錬していた。三本の鉱道の延長は八㎞にもおよび、金山出石寺の真下あたりまで掘り進んでいた。昭和初期に品質の低下、出鉱量の減少などのため閉鎖された。

 佐田岬半島の鉱山

 「日本鉱産誌」によれば、この狭小な半島部に実に四三か所(伊方町一五、瀬戸町一五、三崎町一三)の鉱山が記載され、また『四国鉱山誌』には一六(伊方町七、瀬戸町五、三崎町四)の鉱山があげられ、銅鉱(副産物としで金・銀、硫化鉄鉱)を採掘した実績がある(図3―13)。もちろん、それぞれの鉱床規模は小さく、昭和四〇年休山の高浦鉱山を最後として、今日稼行している鉱山は一つもない。明治四〇年代から大正六~七年に至る産銅ブームのころは半島一帯の鉱山は盛況をきわめ、全国でも稀な銅鉱山の集中地域であった。
 銅鉱業の盛衰をみると、伊方町成安鉱山のように、すでに藩政時代に開発されたと伝えられるものもあるが、大部分は明治以後の開発であり、明治二〇年(一八八七)以後に鉱床が発見されたものが多い。本格的な操業は明治三〇年代に始まり、その多くは大正年間に最盛期に達している。もっとも盛況を呈したとみられる大正六年当時の主要鉱山の概況を示すと表3―27の通りである。高浦鉱山がその規模は最も大きく、鉱夫数五二八名に達し、家族を含めると一〇〇〇名を超える大規模な鉱業集落が三崎湾の奥の高浦付近に形成されていた。
 明治末期から大正期にかけては金属鉱業における独占体制が確立された時期である。いわゆる産銅五社(三菱・住友・古河・藤田・久原=日本鉱業)は、大資本と圧倒的に優秀な技術を駆使して、買鉱製錬所を基軸としつつ、群小銅山を傘下に吸収し、あるいは系列下に組織した。当地域では地理的にみて当然佐賀関製錬所を有する日本鉱業の進出が顕著であった。高浦鉱山に続いて井野浦鉱山(三崎町)・忠城鉱山(伊方町)・成安鉱山(同)などが相次いで吸収され、その他の銅山もほとんどが佐賀関製錬所に売鉱するようになった。第一次大戦後の不況は銅鉱業においてとくに深刻をきわめ、全国的に中小鉱山の休閉山が相次いだ。半島内においても、さしも盛況をきわめた高浦鉱山は大正九年に休山し、その他の諸鉱山も休山もしくは著しく操業規模を縮小した。その後、第二次大戦中銅需要の増大によって一部再開されたが往時の盛況とはほど遠いものであった。
 第二次大戦後、朝鮮動乱の特需ブームに発する銅市況の好転により、三たび鉱山開発の気運が訪れた。しかし、すでに富鉱体は採掘しつくされ、有望な新鉱床の発見に乏しく、昭和三一年の稼行鉱山およびその操業状況は表3―28に示す通りきわめて零細である。もっとも地元西宇和郡内の鉱山経営者は、昭和二八年に西南開発金属鉱業協同組合を結成し、その共同事業として翌二九年に川之石選鉱場を建設し、傘下諸鉱山出鉱の共同選鉱を行ない組合員の自立達成を図った。選鉱された銅精鉱は日本鉱業佐賀関製錬所へ、また硫化精鉱は東洋高圧大牟田工場へそれぞれ全量出荷した。しかし、昭和三六、七年ころから自由化に対処し生産を合理化するため、金属鉱業は再編成を迫られ、中小鉱山は徹底的に整理された。かろうじて命脈を保ってきた半島内の鉱山は、ここに決定的な打撃を受け、昭和三八年現在高浦鉱山一か所を残して他は全部閉山された。その高浦鉱山も二年後の四〇年に閉山した。

 銅鉱製錬所と公害問題

 明治のころ佐田岬半島一帯の銅鉱を製錬するため、八幡浜市の佐島、伊方町町見の女子岬、三崎町の高浦の三か所に銅鉱製錬所があった。明治三〇年(一八九七)に建設された女子岬製錬所は梶谷・大峰・永坂の各鉱山の産出鉱を処理したが、佐島に比べてはるかに小規模で、明治四一年における従業員数二二名、製銅量は年間五万六〇〇〇貫であった。
 佐島製錬所は明治二六年(一八九三)に伊予の銅山王と称せられた川之石の矢野荘三郎や白石和太郎、八幡浜の浦中友治郎ら西宇和郡内の鉱山業者の出資で建設された。この製錬所は明治四〇年の好況期に明治製錬(株)に改組され、当時三崎町で稼行していた三崎製錬所を合併して操業規模を拡大した。佐島製錬所は半島内に点在する諸銅山、高浦・九町・平碆・大峰・永坂・平岩などの産出鉱を製錬するために建設されたものであり、明治四〇年の生産規模は、従業員数二四〇人、月間鉱石処理量四〇万貫、製銅量は約一二万斤であった。
 大正期にはいって久原鉱業(現日本鉱業)が瀬戸内海西部に大規模な買鉱製錬所の新設を計画した。その際、佐田岬半島地域、とくに先端の三崎町は高浦鉱山が久原の所有に移っていた関係上、有力な候補地として立地条件が検討された。当時四阪島を始め、各地の製錬所の煙害が社会問題化していただけに豊予海峡に細長く突出した半島先端部は、煙害軽減という見地から絶好の地理的条件を備えていた。しかし、結局大正三年(一九一四)に対岸の大分県佐賀関町に新製錬所は建設された。三崎町を選ばなかった理由としては用水の不足と電力コストが劣るという点が決定的理由となった。
 当時は各製錬所とも銅製錬の際に出る亜硫酸ガスの浄化装置を講じていなかったので、その害は想像以上のものがあった。女子岬製錬所は集落に近くて煙害がはなはだしく、地元民の大反対により大正の初めに廃止している。いっぽう、佐島製錬所は、沖合いにあったので周辺住民と煙害問題で紛争を重ねながらも製錬量の減少や肥料工場への転換などを図って操業を続けた。しかし、佐田岬半島一帯の鉱山が増えるとともに製錬高も年々増加し、当時の麦作を中心とした農作物への被害が大きくなり、明治四一年(一九〇八)以来、しばしば被害農民と会社間で損害補償問題が話し合われた。経営者の公害に対する考え方が現在のように進んでいなかったことや、公害防止装置の未開発、経営者の資力不足などが原因で、積極的な公害防止対策は講じられなかった。なお、大正八年(一九一九)以後は、西宇和郡一帯の鉱石はほとんどが佐賀関製錬所に送られるようになったので、その後佐島製錬所煙害問題は起こらなくなった。









図3-13 佐田岬半島(三崎・瀬戸・伊方町)の主要旧鉱山の分布

図3-13 佐田岬半島(三崎・瀬戸・伊方町)の主要旧鉱山の分布


表3-27 佐田岬半島の主要鉱山

表3-27 佐田岬半島の主要鉱山


表3-28 佐田岬半島の稼行鉱山

表3-28 佐田岬半島の稼行鉱山