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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 伊方杜氏


 杜氏とは

 杜氏とは、清酒製造業主から、清酒製造に関する直接の業務を一切まかされ全責任を持って、酒造に従事する人たちの最高責任者、あるいはその人たちの総称である。酒の製造は、一家の主婦である刀自の手でつくられてきたが、その刀自が杜氏に転化したものといわれている。五〇〇石の酒蔵で働く人数は平均一二人で、杜氏・三役・下働きからなる。酒造り職人は、杜氏の呼びかけで集まった郷党的集団で、大半が積雪・寒冷で冬季農作業が停止状態になる農村出身者で占められる。全国的に有名な杜氏としては灘地方の丹波・但馬(たじま)杜氏をはじめ、越後・南部(岩手県)・能登・備中・出雲杜氏など、出身地名で呼ばれている。愛媛県では東予地方の宮窪杜氏、中予地方の今出杜氏、南予地方の伊方杜氏が知られている。

 起源と酒造技術の向上

 伊方杜氏の起源は、一八〇年くらい前に上浮穴郡の久万地方に蝋打ち(生蝋搾り)に行った者が、丹波杜氏の指導を受けたのに始まるという程度である。伊方杜氏には六人組と八人組がある。六人組は半じまいとして一本のおけを二日に仕込む。八人~一〇人組は毎日一本仕込む。これを日じまいまたは本じまいという。杜氏は役人一名、蔵夫数名従えて農閑期に約一〇〇日間、毎年同じ出入り先の酒屋へ行く。雑役・釜たきから役人・杜氏になるのには何年もかかった。伊方は古くから養蚕の村として栄えてきた。そのため杜氏は幼時より養蚕に従事し、夜間二時間ごとに「桑やり」に起きる習慣がついていた。それは酒造りが夜中に起きて作業することに相通じる点があり、これが優秀性の一つとしてあげられる。次に伊方杜氏は勤勉実直で、手がたくそして研究心に富み、その上正直である。そのため主人の信用が厚く、同一酒屋に長年勤める者がほとんどである。
 研究熱心なことは、明治四〇年(一九〇七)に利酒会(大正七年からは自譲酒品評会と呼ぶ)を発足させ、毎年品評会を開催していること。明治四四年(一九一一)には伊方杜氏蔵夫組合を組織し、大正三年(一九一四)には、当時伊方杜氏が主であった南予地方へ丹波杜氏や高知県の幡多郡杜氏が、同じく中予地方へ今出杜氏や宮窪杜氏が進出しはじめたのに対処するため大きい組織の必要を痛感し、西宇和酒造助業者組合が作られたこと。さらに、大正元年ころには丸亀税務監督局の技師の指導を得て醸造講習会を開催し、以後毎年夏季に講習会が行なわれてきたことなどにより理解できる。

 南予地方への出稼ぎ

 伊方杜氏は大体が愛媛県内、とくに南予地方が中心である。昭和二三年の調査によると、伊方村六三組(三一四人)と町見村一五組の行き先は、西宇和郡二七組、東宇和郡一五組、北宇和郡一一組、伊予郡五組、喜多郡四組、南宇和郡三組、上浮穴郡・周桑郡各一組、大分県七組、高知県・宮崎県各二組となっている。
 戦前は満州・朝鮮、県内外の各地に六〇〇名以上の者が出稼ぎに行く盛況であったが、酒造業者の減少や酒造設備の機械化にともないその数は減少の一途である(表3―35)。昭和五五年度の西宇和郡杜氏組合の名簿から伊方町出身の四二人の杜氏の行き先をみると、やはり南予の酒造場へ行く杜氏が多くて二二人を占める。ついで中予五人、東予三人、大分県・徳島県各四人、香川県三人、高知県一人となっている。その四二人の出身地をみると、大浜の一一人を最高に、伊方越六人、川永田・九町・中浦各五人、仁田之浜・小中浦各三人、湊浦二人、河内・保内町各一人となっており、旧伊方村の出身者が大部分を占める。これら杜氏について麹師・庫人・精米などの仕事に従事する人が一二〇人いる。この従業者の出身地は杜氏と同じく旧伊方村が多く、大浜・川永田・中浦・中之浜・伊方越に多い。なお隣りの保内町や野村町・大洲市などからも伊方杜氏と一緒に出稼ぎに出向いていることがわかる(表3―36)。杜氏出稼ぎの期間は、早い人で一〇月下旬から出始め、みかんの収穫の終わる一二月初旬には全員が出かけ、二月から三月の後半まで約一〇〇日から一四〇曰くらいの期間である。





表3-35 伊方杜氏の移り変わり

表3-35 伊方杜氏の移り変わり


表3-36 伊方杜氏の出身地(昭和55年)

表3-36 伊方杜氏の出身地(昭和55年)