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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 八幡浜市の商圏


 八幡浜市商業の現況

 八幡浜市はかつて「伊予の大阪」といわれ、特に明治二〇年代から西宇和郡の機業地、農業地を背景に発展し、現在の市の南部に位置する合田地区は反物行商の中心地として大分・宮崎をはじめ九州東岸を中心に中国・近畿から北海道と全国に販路をもった商業地であった。現在は市全体が過去のような商業の中心的地位にはない。図3―15は五七年の商業統計で、地方生活経済圏域別構造から八幡浜・大洲圏をみたものである。松山圏とは対照的な構成で、商店数、従業者数の割合よりも、年間販売額の占める割合の方が低く、商業活動の弱さを示しているが、商業が当地域の重要な産業の一つであることに変わりはない。五七年の当市の現況は表3―39のごとく商店数一五〇六、うち卸売業二二三(一四・八%)、小売業九五〇(六三・一%)、飲食業三三三(二二・一%)となっており、五四年と比較すると卸売業八、小売業三二、飲食業二六、合計六六の増加を示しているが、卸売業はほとんど変わらない。次に商業年間販売額は一二二三億一四〇〇万円で県全体の三・七七%を占め、五一年の六〇七億三四〇〇万円から倍増している。五四年が七五六億五三〇〇万円であるので、第二次石油危機以後の立ちなおりが大きいことがわかる。五七年の内訳は卸売業八五〇億九九〇〇万円(六九・六%)、小売業三四八億五五〇〇万円(二八・五%)、飲食業二三億六〇〇〇万円(一・九%)となっており、五一年に比べて卸売業の倍増が注目される。小売業の年間販売額は一店当たり三六六九万円、一人当たり一一九七万円で、県下市部の一店当たり五〇一九万円、一人当たり一三六六万円を大きく下まわり、県一店当たり四二〇五万円、一人当たり一二七四万円をも下まわっており効率がよくない。一店当たりの売場面積が平均四七・六㎡で市部平均の六六・六㎡はもとより、県平均の五九㎡をも下まわっており、県市部で最小売場面積であることが八幡浜市商業の問題点を最もよく示している。

 中心商店街の構造と特色

 八幡浜市の商店街は国道一九七号に沿う桧谷から大黒町までの中央部に約六〇%が分布し、特に市役所を中心に東西に延びる矢野町の五~七丁目の通称銀座街(以下銀座と呼ぶ)と、それに直交して南北に並行する新町・千代田町・大黒町が中心である。商店街の発展については「都市」の部分で述べられるので詳細は省くが、明治以後綿織物業の発展につれ、綿糸・綿布の取引を通して商業地として発展し、明治二〇年ころから大正初期には本町・田中町・船場(せんば)通を中心に呉服、綿糸・綿布、薬種など約四〇の卸商が軒を連ねた。商業の発達につれ埋め立てによる市街地の拡大が図られ、明治六年(一八七三)の現在の新町・港町の埋め立て以来商店街も新町へ移動し今日に至っている。
 前記四つの商店街の中で中心は新町と銀座である。これらの商店街は、(一)買回り品を中心とした消費の松山への流出、(二)大型店の進出、(三)フェリー港の移転や愛宕山(あたごやま)トンネルの開通による北部商店街(新町・大黒町の北部)の低迷などの問題点がある。五〇年代の頭初までは松山への消費流出はレジャーとしてのみであったが、国鉄のスピードアップや、特に大洲西道路の完成で国道一九七号と五六号がトンネル(平野~北只間)で結ばれたために消費の流出は拡大された。次に大型店については四六年にフジが進出したのに続き、五二年にはニューいずみが駅前店をオープンし地元商店街に大きな影響を与えた。さらにフェリー港の移転は従来の旧フェリー港→大黒町・新町→銀座・昭和通り→国鉄駅という人の流れを、新フェリー港→銀座・昭和通り→国鉄駅の流れに変化させた他に、愛宕山トンネルの開通によって保内町方面の客が従来のように新町・銀座を通らずに直接フジ・ニューいずみのある昭和通りに連結されるなど人の流れが大きく変化している。消費流出と大型店対策として銀座や新町の商店街は、五三年以後アーケードづくりやカラー舗装を行なうなどしている。さらに北部商店街の低迷に対し、バスセンターや核店舗計画なども考えられているが、基本的には道路整備による消費の流入促進を図る必要がある。その一つとして三瓶町を結ぶ横平トンネルが開通したが、今後、宇和町を結ぶ笠置トンネルの開通などが期待されている(表3―40)。

 周辺の商業地域

 八幡浜市は旧川上村の区域が吉田藩であった以外はすべて宇和島藩であった。明治二二年(一八八九)に八幡浜町が誕生し、昭和一〇年に八幡浜町・神山町・千丈村及び舌田村の二町二村が合併して八幡浜市が成立し、さらに周辺の四村(双岩村、真穴村、川上村、日土村)を編入して現在の八幡浜市が成立したのである。八幡浜市と隣接市町村は国道一九七号を大動脈として佐田岬半島の四町を四五にmで当市と結び、更に大洲市で国道五六号に接続する。また、一三㎞余で三瓶町とも県道で結ばれている。八幡浜の商業は今まで述べてきたごとく海へ指向しながら発展したと言えるが、交通条件の変化は商圏にも影響を与え、周辺町村の地元商店街にも変化を生じた。
 まず保内町では五七年の商店数二五四で内訳は卸売業二三、小売業二〇二、飲食業二九となっている。これを五四年と比較すると、卸売業一一、小売業八、飲食業三の増加で、五〇年代当初の小売業の減少傾向はもちなおした。商業全体の年間販売額は三五億四九〇〇万円で、その内小売業は二五億四九〇〇万円である。川之石を中心にしてかつては県下で最初の銀行、第二九銀行が設立された地域で海運、紡績、商業の町として栄え、県下でも有数の規模を誇る商店街を形成していたが、交通体系の変化により八幡浜を中心とした消費の町外流出が急増し、県下でも代表的な購買力流出、衰退型の商店街といわれた。農協系のAコープ川之石店が進出したとはいえ、核店舗をもたない、長い商店街には非商店も多く商店街としての魅力に乏しく、とりまく環境は厳しい。しかし、みかん処理工場の立地や水産加工場の進出など工業化の兆しと、五〇年には伊方原子力発電所関連の四国電力従業員社宅の完成(保内町喜木)など、地価の高い八幡浜市からの流入条件も加わり、減少を続けた人口が四九年以後回復基調に転じ、郡内唯一の人口増加町になった点は注目される。その結果、五一年には一店当たりの年間販売額でも、従業者一人当たりの販売額でも郡平均を大きく下まわっていたが、五七年には従業者一人当たりではまだ郡平均以下であるが、一店当たりの年間販売額は一八一六万円と郡平均をかなり上まわるまでになった。
 次に伊方町は原子力発電所の工事開始以来商業面の発展もめざましく、四七年を基準として五一年では商店数で八店増加、年間販売額で四倍近い増加となった。しかし道路網の整備は購買力の町外流出を顕著にし、町消費の七〇%近くが八幡浜・松山などへ流出する一方、年間一〇〇〇名にも及ぶ原発関連技術者のうち、伊方町へ宿泊せず八幡浜や保内町から通勤する者が増加するなど、地元商店街をとりまく環境は厳しい。年間小売業販売額は一店当たり五七年で一三四二万円、従業員一人当たり七三六万円と郡平均を大幅に下まわり経営効率は悪い。
 伊方町は三〇年に伊方・町見の両村が合併した町で、旧村の中心地である湊浦と九町が商業の集積が大きい。特に中心は湊浦で五一店舗が立地する。道路は幅員四mとせまく、役場、農協、銀行、電報電話局などがあり、集客機能をもっているが、商店街が分散しているため回遊は少ない。一方九町地区には三九店あり、ほぼ一本の線状につながるが、三つの小字に分散して集積の力が発揮できない。
 瀬戸町は本地域の中でも特に商業的に低位にあるので省略する。
 三崎町は五七年の商店数一六二、内訳は卸売業一〇、小売業一三二、飲食業二〇となっている。五四年に比べ卸売業五、小売業六、飲食業六とわずかながら増加している。また、商業全体の年間販売額は五七年で一八億八七〇〇万円で、そのうち小売業は一三億九一〇〇万円となっている。小売業の年間販売額は一店当たり一〇五四万円、従業員一人当たり販売額は五七〇万円といずれも郡平均を大幅に下まわっている。当町に現在大型店はなく農協や生協の販売活動も活発ではない。町内七店の農協ストアも現状では全体に占める比重は低い。モーターリゼーションの進展に伴ない買回り品を中心とした消費の八幡浜・松山への流出が拡大しているが、今後、国道一九七号の頂上線バイパスが完成すればその傾向は強まってくる。消費の流出とともに生鮮食品や生活用具を主とする車による町外などからの移動販売が目立ち、当町のこれらの業種の売上げにかなり影響している。
 当町内で商業地区としてまとまりをもつのは三崎地区と二名津地区である。三崎地区は当町の行政、経済、教育、交通などの拠点で、これらの施設を周辺に立地させ、旧道沿いに商業地形成がなされているが、その形状は複雑で、通り筋の一体的形成に乏しい。幅員三m、延長三六〇m程で、車輛の導入も困難で立地の制約が大きい。業種的には飲食店が三七・五%と最も多く、次いで最寄り品の店が三一・三%となっている。二名津地区も旧道沿いに形成された商業地区であるが、幅員二・五mと狭く、約二五〇mの範囲に一六店が散在しているにすぎない。最寄り品店、買回り品店が共に四一・二%で飲食店は一一・八%で三崎地区と異なっている。
 三瓶町は五七年の商店数が卸売業一〇、小売業一五二、飲食業二七の計一八九で、五四年に比べて卸売業は六増加しているが、小売業は九も減少している。年間商業販売額は三一億三〇〇〇万円で、保内町と同規模である。小売業年間販売額は一店当たり二四四一万円、一人当たり九九六九万円と西宇和郡平均を大きく上回り、県全体の郡平均に迫っている。これは商店街が早くからアーケードをつくり、顧客吸収に努力したことや、漁業、海運業が発展したことによる。しかし商店街は横平トンネルの全面開通によって、八幡浜への所要時間が従来の四〇分から二〇分に短縮され、購買力流出への与える影響は大きい。これが五四年に比べ小売店九の減少となってあらわれたと考えられる。五三年に酒六(株)三瓶工場が閉鎖した跡地に、地元資本によってオープンしたショッピングデパートは、地元商店街に大きな影響を与えた。この影響を地元商店街がどう克服するか注目される。









図3-15 愛媛の生活経済圏と八幡浜・大洲圏および宇和島圏

図3-15 愛媛の生活経済圏と八幡浜・大洲圏および宇和島圏


表3-39 八幡浜市の産業分類別商店数、従業者、年間商品販売額の推移

表3-39 八幡浜市の産業分類別商店数、従業者、年間商品販売額の推移


表3-40 八幡浜市の中心的商店街の現状

表3-40 八幡浜市の中心的商店街の現状