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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 港湾都市八幡浜の立地


 八幡浜市の立地

 八幡浜市の市制施行は昭和一〇年で、県内一二市の中では松山市(明治二二年)・今治市(大正九年)・宇和島市(同一〇年)についで古く、新居浜市(昭和一二年)・西条市(同一六年)などとともに戦前からの旧市である。
 都市の発達は、地理的環境と深いかかわりをもっている。地形的条件からの立地のありかたは、都市の形態や機能の形成に影響を与えている。県内の都市を地形との関係から立地の態様をみると、圧倒的に多いのが瀬戸内海と宇和海に沿った臨海立地で一〇都市を数え、松山市と大洲市が内陸立地である。同じ臨海立地といっても宇和島と八幡浜の両市は、宇和海沿岸特有のリアス海岸にあって、湾奥(頭)立地都市の代表的な例となっている。八幡浜市は、宇和島市に比べてはるかに平地に乏しく、流域のせまい新川の片口に立地している。このため市街地は明治以後三五回におよぶ海岸の埋め立てによって広がってきたといってよい(図3―17・表3―41参照)。

 港湾都市八幡浜

 八幡浜市は明治二三年(一八九〇)町制施行、昭和一〇年(一九三五)近隣の千丈・神山・舌田の町村を合併して市制をしいた(人口三万五〇一)。その後、三〇年に双岩・川上・真穴・日土の四村を合併して現在に至っている(五七年推計人口四万二八四五)。市街地は埋め立てが前進するにつれて西方へ移動し、現在は新町通りと大黒町通りが繁華街となっている。
 新町は南北に約五〇〇mの町筋をなし、明治末期から大正期にかけてかつて東側にあった中心街本町・浜ノ町から商店街が移動した。現在は市街東部に大型スーパーニ店ができたため、商業地としてのかつての独占的地位は下降気味であるが、昭和五四年の売上額では市内全商店売上額の三二%を占めている。
 大黒町は明治三二年(一八九九)~三六年にかけて野本家(大黒屋)によって埋め立てられた新開地で、一丁目は旧国道一九七号に沿う商業地域で各種商店のほか香川相互銀行八幡浜支店・宇和島自動車大黒町営業所がある。二~四丁目と五丁目東部は商店・住宅の混在地域で中小の練製品(かまぼこなど)業者も多い。五丁目臨海部沖新田地区には水産物産地流通加工センター(八幡浜魚市場)があり、日本西海漁協・八幡浜市漁協・太陽水産・玉岡水産の四卸売市場があり、年間約三万トンを取り扱う四国最大の魚市場をなしている。近くには八幡浜市漁協本部・同冷凍冷蔵庫・製氷工場のほか仲買人など水産関係業者の事務所・倉庫が多い。
 港は、明治五年(一八七二)に造られた旧港と同一八年(一八八五)恵比須堂沖を埋め立てて造った新港があった。大正四年(一九一五)新港の待合所付近を拡張し、昭和三年に新港の棧橋ができた。新港の形は長崎の出島をまねたものである。この旧港・新港は五一年に策定された八幡浜市総合計画基本構想により、五四年度より内港地区の埋め立てが始まり、今やかつての繁栄をしのばせる内港の面影はない。同計画によると、魚市場の隣接地に地方卸売市場(青果)が配置されるほか、体育館・白浜地区公民館・市庁舎が建設され、新港を埋め立てた造成地には駐車場・公営住宅・バス停留所の共同施設ができる(図3―18)。
 五五年一月に九四連絡フェリーボート埠頭が魚市場の南側に開設され、新川河口の南部の栗之浦ドックや埠頭団地の造成とあいまって、臨海機能は旧港を離れてしだいに南西方に向かって遠心的に拡張されつつある。



図3-18 八幡浜市北浜地区土地利用計画

図3-18 八幡浜市北浜地区土地利用計画