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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 佐田岬半島の集落


 岬端の町三崎

 佐田岬半島最先端に位置する三崎町には一四の大字があり、ほぼ大字ごとに集落を形成している。中心集落の三崎(五六一世帯、五八年度末)をはじめ高浦(五七)、佐田(三六)、大佐田(五八)、井野浦(七四)、名取(一五八)は宇和海側に、串(一七二)、与侈(一四〇)、松(一一一)、明神(六二)、二名津(二三三)、平磯(三〇)、釜木(七四)は伊予灘にのぞんでおり、いわゆる「岬十里」の先端にあたる正野(一九八)は両面に分かれていくつかの小集落が分布している(図3―25参照)。宇和海の入りくんだ三崎・高浦・佐田・大佐田・井野浦の各集落および伊予灘側の二名津・明神を除いては、各集落とも多くは海蝕崖の上に位置しており、名取(一〇〇~二〇〇m)、串(六〇~一〇〇)、与侈(四〇~一〇〇)、松(四〇~八〇)、平磯(八〇~一二〇)、釜木(二〇~七〇)など、急斜面に密着して狭い石だたみの階段状道路が集落の中を曲がりくねっている。
 旧三崎村の中心集落である三崎は、三〇年の神松名村合併後も本町の核心集落である。図3―26は昭和三八年当時の三崎の業種別土地利用を示したものである。当時の三崎の職業上の傾向をみると、小売業六〇(酒・調味料一五、菓子・パン一二、織物・衣料・身回り品八、たばこ、書籍文具各七、飲食店、履物各六、医薬・化粧品、飲食料品各五など)、サービス業二九(医者四、寺院、旅館、美容院・理髪各三など)、製造業一五(豆腐五、アイスキャンデー三など)などとなっており、三崎町の核心集落としての機能をある程度そなえていた。
 二〇年後の現在の三崎は、国道一九七号の四国側のターミナルで、四四年就航の九四国道フェリーにより大分県佐賀関町に通じる。さらに行政、教育、文化、経済の中心集落であり、三崎町役場をはじめ、郵便局、電報電話局三崎分駐所、保育所、小・中学校、県立三崎高校、警察官派出所、法務局三崎出張所、道路公団九四連絡道路管理事務所、三崎農協および選果場、伊豫銀行三崎支店などがある。
 伊予灘に面した二名津は、旧神松名村の中心集落であり、今もその名残りをとどめている。世帯の七〇%は甘夏柑栽培を主とする第一種兼業農家であるが、神松名支所をはじめ、郵便局、警察官駐在所、小・中学校、保育所があり、行政、教育の中心地である。以下、本町の特色ある集落の成立についてふれると、佐田・大佐田は佐田岬半島の呼び名となった集落で、入り江は避難港として役立ち、宇和島藩主出府の折には船の停泊地となった。名取は、慶長二〇年(一六一五)藩主伊達秀宗入国の際、同行した仙台藩名取郷出身の軍夫が定着した集落といわれている。与侈は文政年間(一八一八~三〇)松からの移住により開かれた集落といわれ、串は元禄のころ、すでに海士の存在で知られた古い漁村で、岬端の正野は慶応三年(一八六七)から明治五年(一八五二)ころまでの間に、串の植田氏や旧神松名村・三崎村の各地から移住してきた人達により開かれた新しい集落であるといわれている。
 なお、これら岬端の地域は台風襲来の通路にあたり、その台風に対応した海浜の防風、防潮石垣や石置き屋根などもみられる。また、飲料水不足の対応策として多くの住居は、天水を貯える貯水タンクを庭先に施設している。この地下タンクの多い串は、岡崎常松が大正ころに設置したのが始まりである。

 瀬戸町の集落と運河の開さく

 半島一帯が宇和島藩の支配下にあった藩政時代、三机は三崎・湊浦と並ぶ一つの中心であり、庄屋が置かれて三机・塩成・足成・大江・志津・小島・神崎・川之浜の各村と二現在三崎町に編入されている釜木を加えたいわゆる九ヶ浦を管していた。一方、残る大久・田部は三崎庄屋に統轄されていた。
 佐田岬半島三町の中央に位置する瀬戸町は、三一年に三机村と四ッ浜村(大久・川之浜・田部・神崎)との合併によって成立した。集落分布をみると、北の伊予灘に面して一〇集落、同じ斜面の内陸に上倉・高茂の二集落、南の宇和海斜面に塩成・大久・川之浜の三集落の合計一五集落が分布する(図3―25参照)。集落規模は三机(四〇一世帯、五五年)を除くと南岸の集落が大きく(大久―二二四、川之浜―一八六、塩成―一八四)、集落内の高距差は南岸集落が北岸のそれに比して小さい。集落内部の傾斜が大きいことは、景観の上で、豊富な緑泥片岩の細片を利用した石段、防風垣などの特色となって随所にみられる。
 瀬戸町役場には江戸末期と推定される三机絵図が保存されている(図3―27)。この絵図と古くからの俗謡に「志津は三軒、大江は五軒、並ぶ三机九十九軒よ」あるいは「三机百軒、釜木三軒、明神五軒、あいだ二間津九十九軒よ」などとあることから、近世において付近の浦々に冠絶する賑いをみせていた三机の有様を想像することができる。なお、図中に井上善兵衛城跡とある山城跡は、天正五年(一五七七)八幡浜の萩森城主宇都宮房綱の臣井上の拠った中尾城址であり、これ以後が港町としての形を整えるにいたったものである。
 次に、本町の集落の機能についてふれると、明治以後の開拓村の上倉と戦後の開拓村である高茂を除くと、いずれも海に面した集落である。しかしながら意外なほど漁業との関連が少なく、生活基盤は農業にある。農業とはいえ、半島部では柑橘導入が最もおくれたため出稼ぎの多い地域となっている。瀬戸町役場のある三机は、郵便局、海上保安部三机分室、松山地方法務局瀬戸出張所、警察官派出所(番所跡)、小・中学校、保育所、中央公民館(旧庄屋跡)、瀬戸町文化センター(商工会、たばこ組合、建設業会)、農協、漁協などが集中し、行政、教育、文化、経済面の中心的役割をはたしている。
 藩政時代から旧三机村に運河開さくが試みられた。この工事は半島の中でももっとも幅の狭い(約八〇〇m)、しかも半島の中央付近ないし八幡浜に近い部分ということで塩成―三机間が選ばれた。これは宇和島藩主富田信濃守が慶長一五年(一六一〇)から一八年にいたる三か年間に一〇万石の浦里からのベ一〇万人の人夫を徴発し、突貫工事を推し進めたが三〇%も掘らないうちに作業の困難さから人夫が逃散した。このことが幕府に聞こえ「無謀な工事を起こして民心を乱す」との理由で富田信濃守は奥州に流されて開通をみることができなかった。当時の計画は「堀の長さ塩成の振より三机の小振まで三四〇間、高さ二間より一二間まで同底幅」であったようである。この工事の経過は、上から四~五m掘って中断している。なお、塩成にはこの工事でなくなった人々を祀る「供養様(くえさま)」と称する塚がある。また、当時の岩盤掘削に使ったとされる切先部四〇㎝、全長三・六m、重さ二六㎏の金突きが八幡浜市立図書館に保存されている。
 運河としての有利地点であることを生かすため、昭和初期にも京都大学工学部土木教室から測量調査班がきて測量した結果、掘り開くべき箇所一一二〇m、トンネル五二六mで、技術的に完成の可能なことがわかった。その後、昭和二六年に国土総合開発法のもと、四国西南特定地域に指定され、すでに開通した船越・細木運河に続いて西海運河とともに三机運河は、地質調査、気象観測、潮位観測などの基礎調査が実施されたが、開さく工事はまだ行なわれていない。

 宇和海側に多い伊方の集落

 藩政時代の行政村として現伊方町は伊方浦・二見浦・九町浦の村に分かれ、それぞれ庄屋の支配をうけていた。また各村はいくつかの自然村(小村)から成り、そこには組頭がいた。伊方町は、昭和三〇年伊方村と町見村とが合併してできた町である。
 伊方町の二五集落のうち、二〇(八〇%)が宇和海側(下場)、五(二〇%)が伊予灘側(上場)に分布し、瀬戸町の分布と正反対である(図3―26参照)。山脚が海にせまり平地に乏しい伊方町のなかでも特に伊予灘側では二五度以上にもおよぶ急傾斜の所さえあり、集落立地を大きく制約する。こうした伊予灘側の集落は立地上二つのタイプをもつが、その一つは伊方越・亀浦のように海岸の各所に発達した海崖上に立地するもので、他は大成・鳥津のように僅かな礫浜に続く必従谷斜面に立地する集落である。なお、こうしたきびしい立地条件下の伊予灘側の集落は藩政時代の開拓村で、宇和海側の親村から移住したものである(図3―28)。
 一方、宇和海側は傾斜が緩やかであり、耕地がよく開け集落の発達も著しい。直線に近い砂浜海岸には大浜・中之浜・仁田之浜などの「浜」地名をもつ集落が立地し、リアス海岸の湾頭(奥)には湊浦・小中浦・中浦・豊之浦・田ノ浦などの「浦」地名をもつ集落の分布をみる。湊浦は伊方浦の初代庄屋である佐々木仁左衛門の出身集落であり、今も町役場、中央公民館、郵便局、保健センター、八幡浜警察署伊方警察官駐在所、科学技術庁愛媛原子力連絡調整官事務所、建設省大洲工事事務所伊方第一監督官詰所、農林水産省愛媛食糧事務所八幡浜支所伊方出張所、四国電力伊方営業所、西宇和青果農協伊方選果場、伊豫銀行伊方支店、伊方小学校・同中学校、同保育所、町給食センターなどが立地し、本町の行政、経済、文化、教育の中心地である。特に、四八年に建設が始まった原子力発電所に関連した施設や従業員宿舎などの建築が増え、他地域に比べ世帯数・人口とも増加の傾向にある(三八五世帯、一二五七人、五八年一二月末)。
 川永田も伊方浦二代目庄屋辻右衛門がでた集落で、宇和島藩主が参勤交代のときここに上陸して三机に向かったところであり、古来重要な水陸交通の結接点に位置した歴史的集落である。寛文一三年(一六七三)に藩主伊達宗利の命で植えられた一里松があったが、昭和五三年に枯死し一里塚と名称を変更し、町指定文化財となっている。
 湊浦につぐ世帯数(二三三)をもつ豊之浦は藩政時代以降伊方漁業の中心をなし、今も機船底びき・四つ張り網・流し網・一本釣りなどを主とした漁業集落である。その他、零細ながら漁村的機能をかねそなえた集落としては安政二年(一八五五)開拓の鳥津や天保一〇年(一八三九)開拓の大成がある。これら以外の集落は、温州みかん中心の果樹農業の集落である(八四一ヘクタール、一・八三万トン、昭和五七年度)。










図3-25 佐田岬半島の行政区画と集落

図3-25 佐田岬半島の行政区画と集落


図3-26 三崎町三崎の業種別土地利用

図3-26 三崎町三崎の業種別土地利用


図3-27 瀬戸町三机古図の一部

図3-27 瀬戸町三机古図の一部


図3-28 伊方町の集落分布と親村・開拓村

図3-28 伊方町の集落分布と親村・開拓村