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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 宇和盆地の稲作と換金作物


 宇和盆地の農業

 宇和盆地は南予地方最大の盆地である。肱川上流の宇和川流域からなり、盆地床は標高二一〇~二五〇mのやや高度の高い盆地で、そのため宇和町では東宇和郡の他の三町と比べて特色ある農業経営が行なわれている。農業粗生産額構成比でみると、宇和海に面した明浜町が果樹中心、山間地域の野村町・城川町が畜産中心の農業経営であるのに対し、宇和町では米を主とし、畜産(特に養鶏)を組み合わせた農業経営が行なわれている(表4―3)。愛媛県全体の構成比では米が一六・四%、果実が三一・五%であるから、宇和町の農業は米の比率が高いのが特色である。温州みかんは標高が高いため栽培できず、果樹では「高原ぶどう」の名で知られたぶどう栽培が盛んである。宇和町のぶどう栽培面積は五〇ヘクタール、収穫量三六〇トンで、松山市の一〇三ヘクタール、一一八〇トンに次いで県内第二位の地位を占める(五七年)。また宇和町特産の茶も、芳香豊かな「宇和茶」として評価が高く栽培面積も増加している。養蚕部門では総収繭量四万四九〇〇㎏で、野村町(一三万五八〇〇㎏)、大洲市(一二万七八〇〇㎏)の二大産地には及ばないが、広見町(四万八六〇〇㎏)に次いで第四位である。
 四五年の農業粗生産額を一〇〇として五四年と比較すると、宇和町で最も伸び率の高かった部門は花木栽培の九九九であった。これは県平均の五七一に対し南予の平均が実に二三六〇にも達しており、南予地方に施設園芸が急速に増加した事情を背景としている。しかし花卉部門の粗生産額は年により変動が大きく、四六年に二九〇○万円であったものが四九年には三〇〇万円に落ち込んだ。最近では五五年の一〇〇〇万円、五六年の一二○○万円に対し五七年は六〇〇万円に半減している。伸び率が次に高かったのは野菜部門の三二五で、これは水田転作により大豆・ほうれんそう・夏秋きゅうりなどの栽培が増えたためである。この期間の畜産部門の伸び率は一四九と低く、特に豚は豚肉の価格低迷が影響して伸び率九一と減少傾向を示した。
 五七年の宇和町の耕地面積二一四〇ヘクタールのうち、田が一五八〇ヘクタールで七三・八%を占め、畑は五五八ヘクタールで二六・一%である。耕地面積は四五年に比ベ一四〇ヘクタール(六・一%)減少したが、そのうち田が一四〇ヘクタール減、畑が一〇ヘクタール減であった。なお畑のうち樹園地は二九六ヘクタールから三一〇ヘクタールへとわずかながら増加した。田の減少は米の生産調整から始まり、五三年度からの水田利用再編対策事業の実施による畑作への転換、住宅地や道路の造成、林地への転換などによる。宇和町の耕地利用率は従来あまり高くなかったが、水田裏作としての飼料作物の作付けが増大するにつれて高まった。その傾向は五一年に始まり、五七年の耕地利用率は一五三・五%で、県平均の一〇八・三%を大幅に上回っている。

 稲作の概況

 宇和盆地の稲作の起源は古く、弥生時代には高度の農耕文化が栄えていたといわれる。また条里制がしかれ、古代には南予地方の政治的中心地でもあった。町内の永長・清沢・田苗・真土・岩木などの集落は宇和盆地でも起源が古く、この地域の古地図からは条里制による一辺六〇間の地割が読みとれる。藩政時代には宇和盆地を領した宇和島藩によって水利開発が進められ、河川の改修や溜池の築造が行なわれた。正保元年(一六四四)に完成した宇和郷最大の関地池は、現在では貯水量一〇〇万トン、満水面積一一ヘクタールと県内第二位の大池で、その他の溜池の大部分も藩政時代につくられたものである。このようにして宇和盆地における米の生産力は向上し、平野の乏しい南予地方にあって、宇和盆地は南予の穀倉の役割をはたしてきた。
 現在でも宇和盆地の基幹産業は稲作で、宇和町の水田率七四%は県平均の四一%を大きく上まわっている。宇和盆地でとれる米は良質の「宇和米」として知られ、五七年の作付面積は一一四〇ヘクタールで、松山市・西条市・東予市に次いで県内第四位、収穫量も五一二〇トンを占めている。また一〇アール当たりの収量でも、宇和町は五一五㎏で松山市・松前町などに次いで第五位にあり(五六年)、稲作の技術も進んでいる。宇和町における稲の作付面積は三五年には一五七九ヘクタールであったが、四五年には一四八六ヘクタール、五七年には一一四〇ヘクタールに減少している。作付面積の減少は五三年を境に大きくなり、四五年を一〇〇とすると五三年は九二・三であったものが五五年には八二・六となり、五七年は七六・七である。これは五三年度から実施された水田利用再編対策事業によるもので、四五年に始まった減反政策は米に生きてきた宇和盆地の農業を大きく変貌させつつある。
 宇和町の農家一戸当たりの耕地面積は九二・六アールで、県平均の八一・一アールより多く、特に田については六八・四アールで県平均(三三・一アール)の二倍以上である(五五年農林業センサス)。図4―1は宇和町の水田率を農業集落別に示したもので、南東部を除きどの地区も六〇%以上である。特に信里芝・田苗・真土・永長・久枝・馬場・神領などの宇和川流域の水田率は九〇%を超えている。このうち馬場・神領地区は一〇アール当たりの水稲生産力が六〇〇㎏以上という高い反収をあげており、これに隣接する久枝・下松葉から永長・清沢・山田地区、北部の正信・信里中、中部の加茂などの地区でも五四〇~六〇〇㎏の反収をあげている。これに対し南東部は、稲生・上成・昭和の三地区が水田率六〇~七〇%で他は六〇%未満である。これらの地域は水稲の反収も低く、野村町に隣接する倉谷辛板ケ谷地区では一〇アール当たり三〇〇~四二〇㎏しかない。
 宇和盆地で栽培されている水稲の主な品種は日本晴とミネニシキで、五七年には栽培面積の七一%が日本晴、一四%がミネニシキである(表4―4)。これらはいずれも早生種で味がよく、県の奨励品種になっている。主な栽培品種の推移をみると、三〇年ころは晩生種や中生種が多く早生種は一〇%程度であった。その後早生種が増加し、現在はミネニシキが圧倒的に多い。宇和盆地の水稲栽培で早生種が普及した理由の一つに、早生種の水稲はイモチ病に強く短稈で倒れにくいという点があげられる。宇和盆地は排水不良の湿田が多いためイモチ病が発生しやすく、また台風による倒伏の被害が大きい地域で強い稲が求められた。また、宇和盆地は裏作にほとんど麦を作らないので田植時期が早いこと、山間盆地の水田では秋の気温低下が著しく晩生種では収穫量の増大が期待できないことも理由の一つである。早生種の拡大にはホリドールやBHCなどの農薬の普及も大きく貢献した。

 農業経営

 宇和盆地の水田は洪積世時代の湖盆が埋積して形成された沖積平野であるため、排水が悪く湿田が多い。そのため田のほとんどが一毛作田で、東・中予の扇状地性の平野に比べ湿田率が高かった。明治三四年(一九〇一)に旧上宇和村大字永長部落で行なわれた耕地整理事業は愛媛県下初の耕地整理であったが、この事業も湿田解消を最大の目的としたものであった。宇和盆地では以後次々と耕地整理組合が結成され、昭和二四年の土地改良法発布までに三五組合が認可された。その整備面積は一三二九ヘクタールに達し、宇和盆地のほとんど全域に及んだ。宇和盆地の標準的な耕地区画は三〇間×一〇間を一反とする長方形で、耕地整理後の区画にも条里制の地割が踏襲されている。こうした耕地整理事業の推進にもかかわらず宇和盆地では一毛作田率が高く、明治・大正期には稲作技術の面でも劣っていた。しかし戦後の稲作技術の向上につれて宇和盆地の米の反当収量も増加してきた。
 宇和町の農家の経営規模別割合をみると、一・五ヘクタール以上の層が一一%で県平均とほぼ一致し、〇・五~一・五ヘクタールの層が五二%で県平均の四三%を上回っている(五五年農林業センサス)。このことから宇和町の農家は零細農家が県平均と比べて少ないといえるが、二ヘクタール以上の農家数はわずか四・一%にすぎない。しかし四五年以降でみると二ヘクタール以上の農家が増加しており、農家総数が二八一七戸(四五年)から二三二四戸(五五年)に減少しているのに、二ヘクタール以上の農家は四九戸から九六戸へと倍増している。また宇和盆地では早くから圃場整備が行なわれたため農業機械の普及が早く、県内では周桑・西条平野と共に農業機械の普及率の最も高い地域となっている(表4―5)。しかし宇和町の米作にとって農業機械の過大投資は、農業経営を圧迫する赤信号であるという指摘もある。
 四五年以降の農業粗生産額に占める米の比率はほぼ四〇%台であるが、五〇年から五四年までの五年間の平均が四八・〇%であるのに対し、その後の三年間の平均は四一・一%に減少している。これは、水田利用再編対策が推進されるなかで、水稲依存の農業経営では経営内容がしだいに悪化することとなり、稲作の依存度が低下してきたことを物語っている。また、宇和町の基幹作目であるたばこ・養鶏や酪農も米同様に生産調整されており、ぶどうや茶は生産過剰傾向にあるとして水田利用再編対策の対象作物から除かれている。こうした情勢のもとで「高度に機械化された単純稲作兼業」という宇和町の農業は大きな変革を求められている。このため宇和町農業振興対策室では、宇和町の農業振興のポイントは水田利用再編対策の積極的推進と重点転作作目の意識統一であるとして次のような課題を設定した。①集落ぐるみで集団化を推進する。②受委託と互助制度で連担団地を推進する。③生産性を高めるため土作りを推進する。そして排水対策などの土地基盤を整備し、麦・飼料作物・野菜の裏作面積を拡大することにより水田利用率を高める。また中核的農業者を育成し、農業金融を拡充することもめざされている。
 これらの施策は既に成果をあげつつあり、大豆の栽培面積は五〇年に二六ヘクタールであったものが五三年以降急増し、五七年には二〇〇ヘクタールに達した。宇和町は県の大豆生産振興地域に指定されており、岩木地区は農林水産省から大豆作りモデル地区の指定をうけ、刈取り機が導入されている。また町でも脱粒機七台を導入し、生産効率の向上を図っている。野菜の農業粗生産額に占める比率は六・一%と低いが、米の生産調整から転作の奨励によって、きゅうり・いちご・ほうれんそうの作付が増加した。中でも夏秋きゅうりは五一年から国の産地指定をうけ、またほうれんそうは特定野菜等価格安定制度新産地育成事業により、その生産が急速にのびてきた。また水田裏作の中心である麦栽培も、五二年のわずか五ヘクタールから五七年には五ヘクタールに回復し、四五年の七八ヘクタールに迫ってきている。麦作は特に自給率の低い小麦・飼料用大麦が奨励されている。このように宇和盆地の農業は、稲作を主体としながら、土地基盤の整備により田畑輪換を可能にし、圃場整備によって経営の合理化と選択的複合経営の方向にむかっている。

 宇和盆地のれんげ

 宇和盆地はかつて採種用れんげ栽培の盛んな地域で、菜の花の黄色とれんげの赤は宇和盆地の春の代表的な景観であった。採種用れんげ栽培がおこったのは、化学肥料の普及と平行して自給肥料の改良増産がはかられたからで、れんげは緑肥として重視された。宇和盆地のれんげ栽培は旧石城村東山田でおこり、最初は個人的に採種、販売していた。大正四年(一九一五)西山田の是沢光義が中心となって組合を結成し、ついで山田、郷内と栽培が普及した。郷内の山本寅平らが率先して増産品種の選定、在来種の除去などに力を入れ、昭和三六年には農林省の指定をうけ、農家の現金収入源としてさらに町内に普及した。旧石城村は宇和町西部に位置し、地元では石城平野とよばれる宇和盆地最大の盆地床である。この地域は排水が悪く、裏作としての麦作に適しないためれんげ栽培を行なう農家が多かった。れんげ採種組合に属する農家の九〇%が石城地区で占められていたといわれる。                                                              
 宇和町のれんげ栽培の全盛期は四〇年から四五年にかけてで、約五〇〇ヘクタールに栽培された。その後は急速に衰え、種子の収量も五〇年に五~六トンになり、五六年には一・八トンほどに減少した。れんげ栽培が衰退した理由はいくつか考えられるが、その一つにれんげの果たしてきた役割が失われたことがあげられる。れんげ種子の用途は牛の飼料や緑肥として農家がれんげを植えるためであったが、優れた飼料作物としてイタリアンライグラスが導入され、また緑肥としてれんげを田にすき込む農家も減少した。さらに、田植期が早くなったことでれんげの刈り取りから田植までの期間が短くなり、これがれんげ栽培を圧迫したのも一因である。かつての田植は手植で六月二三~二四日ころに始まったが、早生種の導入・機械植の普及により六月一五日ころに始まるようになった。そのため六月五日ころれんげを収穫すると田植まで一〇日しかなく、田植の準備で農家はきわめて忙しくなった。れんげの刈り取りを早めると種子の実入りが悪く収量が減少し、岐阜県から早生種のれんげを導入したが二・三日しか収穫期が早まらなかった。また種子価格の変動が大きいことも影響している。五四年の農協わたし価格は一㎏当たり八六〇円、五五年には七六〇円であったが、四七~四八年ころは一五〇〇円に達したこともあり、また六〇〇円台に下落したこともある。最近の県内需要は約三トンであるが、県内産では不足するため韓国産の種子を輸入している。この安い輸入種子が価格を低迷させ、れんげ栽培の意欲をますます低下させている。また兼業農家が増えて手間の割に収益性の低いれんげ栽培は敬遠されるようになった。現在は東山田地区でも五~六戸で栽培されているにすぎず、反当たり収量も二~二斗で全盛時代の半分である。このように、宇和盆地のれんげ栽培は換金作物としての重要性をほとんど喪失してしまった。











表4-3 東宇和郡の町別農業生産額構成比

表4-3 東宇和郡の町別農業生産額構成比


図4-1 宇和町の農業集落別水田率

図4-1 宇和町の農業集落別水田率


表4-4 宇和町における水稲栽培品種の比率

表4-4 宇和町における水稲栽培品種の比率


表4-5 農家100戸当たり農業機械普及台数

表4-5 農家100戸当たり農業機械普及台数