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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 宇和林業


 林野所有と林野利用の特色

 南予最大の穀倉地帯である宇和盆地の住民にとって、盆地をとり囲む林野は主要な生活物資を獲得する場所であった。その生活資材とは燃料としての薪炭と水田に投入する肥草が主なものであった。部落有林の整理が行なわれる以前の明治四三年の山田村の林野所有区分をみると、林野面積九五五・一町歩のうち、部落有林が四二〇・四町歩(四四・〇%)も占め、部落有林の比率が高いことが注目される。これら林野のうち草場となっているものは、私有林では六・五町歩(一・二%)にすぎないのに対し、部落有林では一八五・六町歩(四三・一%)にも達する。このような状態は山田村のみでなく、当時の宇和盆地の一般的な状況であった。
 宇和盆地の明治年間の林野の配置は、集落背後の山林が私有林で薪炭林として利用され、その奥地が部落有林として入会採草地として利用されていたのが、一般的な構図であった。部落有林は明治末年以降、その整理統一がなされるにつれて、私有林に分割されたり、村有林に統一されたのち、現在の財産管理区有林となっている。
 明治年間の部落有林は入会採草地としてきわめて重要であった。水田面積に比して林野面積の狭い宇和盆地の諸村は、その入会採草地を分水嶺を越した宇和海側の明浜町や三瓶町・八幡浜市側、また野村町の渓筋地区などにも求めていた。明浜町の俵津地区などでは、その入会採草をめぐって藩政時代に紛争を起こしたりしている。現在、部落有林の系譜をひく財産管理区有林の所在地をみると、岩城財産管理区有林の林野が岩城地区内のみならず三瓶町域や八幡浜市域内にあり、多田財産区有林と田之筋財産区有林の林野が分水嶺を越した野村町の渓筋地区にあるのは、往時の名残をとどめるものである。また宇和町の境界線をみると、三瓶町や大洲市に接する部分は分水嶺を越えて、その境界線が三瓶町側や大洲市側にくい込んでいる。これらの部分はいずれも部落有林の入会採草地であったところで、周辺町村に対して宇和盆地の諸村の入会採草地の必要性がいかに大きかったかを示すものといえよう。
 宇和町の昭和五五年現在の所有形態別の林野面積をみると、国有林(官行造林地)一二三ヘクタール(一・三%)、森林開発公団有林二四ヘクタール(〇・二%)、公有林一〇五五ヘクタール(一〇・九%)、私有林八四六六ヘクタール(八七・六%)となっている。宇和盆地の現在の林野所有の特色は、一部の官行造林地を除き、国有林がみられず、私有林と公有林の比率が高いことである。国有林がみられなかったのは、明治六年(一八七三)の官民有区分以降のことであり、林野が明治以降民有林として所有されていたことは、藩政時代以来、住民による林野利用がよくすすんでいたことを物語るものである。

 財産管理区有林の経営

 宇和町は昭和二九年に石城村・多田村・中川村・田之筋村・宇和町・下宇和村の六か町村が合併して形成された町である。合併前の旧村には、それぞれ財産管理区有林があり、その面積は野村町・八幡浜市・三瓶町など町域外にあるものも併せると、合計一一三六ヘクタールにも達する。
 財産管理区有林は藩政時代には、それぞれの藩政村の入会採草地であったものが、明治維新後も継承され、それが明治二三年の町村制の成立後、旧来の藩政村を前身とする部落の所有林となり、入会採草地として利用されていたものである。この部落有林は国の政策によって、明治四三年(一九一〇)以降整理統一の対象となる。宇和町においても、多田村が明治四四年、中川村・山田村(のち岩城村)・田之筋村の三か村が大正元年(一九一二)、笠置村(のち岩城村)が同三年、下宇和村が同七年、宇和町が同一一年、というように部落有林は整理され、町村有林となる。この町村有林は村の直営林となったものもあるが、旧来の部落がそのまま権利を保有する部分林も多分に残されていた。
 昭和二九年宇和町が成立するに際し、これらの町村有林は、旧来の村が結成する財産管理区によって管理運営されるようになる。各財産区によって直営林と部分林の比率が異なるが(表4―6)、それは合併前の各町村における形態がそのまま引き継がれたものである。部分林の大部分は、藩政時代以降の集落(明治二三年以降は部落と呼称)が財産区と分収契約を結び、管理運営しているものである。例えば中川財産区の部分林五一・三七ヘクタールは、旧中川村を構成する各集落、大江(七・七三ヘクタール)・加茂(五・〇八ヘクタール)・田苗(三・〇七ヘクタール)・真土(七・二六ヘクタール)・杢所(四・四五ヘクタール)・坂戸(一四・一六ヘクタール)・清沢(七・五四ヘクタール)と中川青年団(二・〇八ヘクタール)が分収契約を結んでいる。部分林の分収率は町が二五%と集落が七五%のもの、町が二五%、財産区が五%、集落が七〇%のものの二種類あるが、このように各集落の部分林が残されているのは、藩政時代以来の入会林の慣行が今日も残っていることを意味する。
 財産区有林は大正年間以降施業案が編成され、逐次植林がされた。現在では大部分の林野が人工林化されており、収穫した木材の分収金は地元の公共投資に使用され、共同体を支える一基盤となっている。

 宇和檜の生産

 宇和町はひのきの生産の多いところとして知られ、現在「宇和檜(うわひ)」の里として知られている。昭和五五年の森林面積は九六五六ヘクタールであるが、このうち人工林は七二八三ヘクタール(七五・四%)もあり、南予では特に人工林率の高い町村である。人工林の構成をみると、ひのき五八五五ヘクタール、すぎ八九五ヘクタール、まつ五三一ヘクタールとなっており、ひのきが全体の八〇・三%も占め、林野の中でひのきがきわめて多いことが注目される。
 ひのきはすぎと比べて乾燥した気候や土壌、地味のやせた土地に適する樹木といわれている。宇和町にひのきの多い理由は、一つにはこのような風土による点が大きい。宇和町の地質は秩父古生層に属する砂岩・珪岩・粘板岩などよりなり、母岩自体は吉田町以南の中生代の四万十帯の砂岩・頁岩と比べて肥沃さに劣るものではない。しかしながら、この地は南予随一の穀倉地帯であるところから、林野の下草は余すところなく水田の肥草として投入され続けてきた。数百年にわたる有機質の収奪が宇和盆地の山地をして地味不良な土壌とし、これがひのきやまつの成育環境を形成したといえる。
 ひのきの植栽は明治中期以前に富農層を中心に一部行なわれていたが、一般の住民に普及するのは明治末期以降である。明治末期から大正年間ころの植栽本数は一町歩当たり二〇〇〇本程度であり、きわめて粗植であった。ひのきの造林地の中には、自然生のまつや広葉樹が繁茂し、ひのき山はやがて、ひのき・まつ・広葉樹林の混合林となる。山の下刈りは植栽後一〇年くらいまでは毎年行なわれた。草は水田に肥草として投入された。広葉樹の灌木は樹令一〇年程度で除伐され、自家用の薪炭材として利用された。広葉樹の除伐されたひのき山は、やがてひのきとまつの混合林となる。まつはひのきに比べて成長が早いので、上層木はまつ、下層木はひのきの二段林のような林相になるものも多かった。
 ひのきの枝打ちや除伐は第二次大戦前にはほとんどなされなかった。ひのきの枝はまつや広葉樹林の混合状態のなかで自然に枯死し、それが林野所有の少ない貧農層の薪炭材として採取されたりした。除伐は元来ひのきを粗植にしていたので、その必要がなかった。まつとの混合林のなかで、幼齢木の成長が自然に抑制されたのである。まつは九州の炭鉱の坑木や割木にされて燃料に、あるいは建築材に利用されたりした。坑木用のまつは、二〇~三〇年生で伐採され、建築用材のまつは、三五~四〇年程度で伐採された。まつの伐採後はひのきの純林となるが、その伐期齢はおおむね五〇~八〇年程度であった。
 宇和のひのきは、戸棧用のひのきとして有名であるが、その良材の生産地として知られていたのは、宇和盆地西部の山田地区であった。宇和檜が元来山田檜といわれていたのは、その産地に由来する。山田地区にひのきの良材が成育する理由は充分に解明されていないが、地元住民の言によると、強風のあたらない北向きの緩斜面が多く、地味不良な土地が多いことなどが良材を産する理由だとされている。

 戸棧の生産と流通

 宇和檜は、戸障子や雨戸、ガラス窓などの枠や棧となる戸棧用に最もすぐれた材質をそなえていた。戸棧に適する材質は、完満で通直な木、年輪の緻密な樹齢の高い木、淡紅色の光択に富む木、アテのない木である。アテとは偏心成長の著しい木であり、製材・乾燥にともなって狂いが生じやすく、製品になって後もそりやねじれが生じやすい。アテは一本の木のなかに全然ないものもあるが、部分的にあるものもある。山田地区を中心とした宇和檜が、戸袋材としてすぐれているのは、ひのきの植栽地の立地条件と、その育林方式による点が大きいといえる。すなわち、山田地区を中心とした宇和檜の植栽地は北向斜面にあり、かつ地味不良な土地が多く、ひのきの成育が抑制された。また日当たりがわるく、潮風が当たらなかったことは、木の偏心成長を抑止し、アテ材の発生を防止した。育林方式はまつとの混合林であり、まつの下木として、ひのきが成育する期間が長かったので、自然にひのきの成長が抑制されると共に、強風にあおられることも少なかったのである。
 第二次大戦前のひのきの伐採は、秋の一一月から春の三月中旬まで樹液が止まっている間になされた。木は山側に倒され、樹幹の水分とヤニが自然に枝葉に吸収されるようにして、一~三か月間乾燥させる。乾燥した木は山元で玉伐りされ、山中で井げたに組んで乾燥させたのち、木馬か牛の土曳きで土場まで集材され、そこから馬車で製材工場まで運ばれた。製材業者は一般建築用材の生産のかたわら、戸極用の板を製材した。戸棧になるひのきは、製材工場の丸鋸で一寸三分にひき割られ、それが建具業者に販売される。建具業者は二~三か月乾燥させた板を製品にあわせて、各種の戸袋を生産するのである。
 宇和町に戸棧の生産が開始されたのは昭和五年ころであり、宇和の木材業者の宇都宮光義が松山の木材業者の神谷のすすめで宇和檜を用いて戸棧を加工・販売したのが嘴矢だと言われている。以後宇和檜の戸棧の良質が認められ、市場は松山市・今治市・西条市・新居浜市などへと拡大していく。当時の生産形態は、東予・中予などの建具業者が宇和地区の製材業者に生産資金を前渡しして、加工品を買取る方式であった。宇和の戸棧が県外に出荷されだしたのは昭和一七年、大阪府布施市の業者が木型枠として戸棧を購入したことに始まる。大阪府で狂いの少ない宇和の戸棧の優秀性が認められたことは、市場を大阪府・大分県などへと拡大させた。第二次大戦前に宇和町の製材業者は一〇軒程度であったが、どの製材業者も戸袋加工を行なっていた。
 第二次大戦後は戸袋生産はさらに活発になり、昭和二六年には戸棧加工業者の三〇名が戸袋組合をつくり、戸棧の定期市を開くに至った。昭和三一年には別に戸桟の依託販売を行なう宇和市売木材有限会社も設立された。戸棧生産のピークは昭和四〇年ころであり、このころには宇和の戸棧は愛媛県内全域・高知県内・九州の大分県などに広く販売されていた。しかしながら以後アルミサッシュの登場や外材のなかに戸棧となる競合材の出現したことから、宇和の戸棧生産は急激に衰退していく。現在、戸棧生産をする製材業者は二~三の業者にすぎず、生産額も最盛期の五分の一程度にすぎない。戸棧の市場も最盛期からすると、著しく縮小され、宇和町・八幡浜市・野村町の建具業者に買取られるものが九〇%を占める状態となっている(図4―2)。
 現在の宇和町のひのきの育林技術体系は、第二次大戦前のものとは大きく異なる。その技術体系は昭和四七年「東宇和地方ひのき優良材生産の手引」として、八幡浜県事務所宇和出張所林業課より発表された。これによると、一ヘクタール当たりの植栽本数は四五〇〇本、七年生から一七年生の間に二年ごとに五回の枝打ちを施し、三回の間伐ののち、伐期齢四〇年で皆伐し、無節優良柱材を生産することを目ざしている。これは従来の戸棧生産に適した成長を抑制した長伐期のひのきの育林体系ではない。宇和町の戸袋生産は、需要の減退のみでなく、原木供給の面からも衰退を余儀なくされているといえる。









表4-6 宇和町の財産管理区有林

表4-6 宇和町の財産管理区有林


図4-2 宇和町の木材と戸棧の流動機構

図4-2 宇和町の木材と戸棧の流動機構