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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 卯之町の街村


 卯之町の形成

 宇和盆地の南東部に位置する卯之町は、長さ一六〇〇mに達する細長い市街地であり、典型的な街村である。この町の起源は戦国時代の南予の領袖西園寺氏が天正年間(一五七三~九一)その居城を松葉城から黒瀬山に移した時、山麓の鬼窪村に町を形成したことによる。松葉町と呼称されていたこの町は、当時南予最大の城下町であったと考えられる。その所在地は現在の卯之町の栄町付近に位置していたというが、しばしば火災に見舞われたので、慶安四年(一六五一)町並を東北方の山麓よりの現在の中ノ町の位置に移した。この時、火災に関係の深い「松葉」の名を、水と縁の深い鵜之町に変え、のち卯之町の呼称に転化したという。なお、卯之町の地名については、改名の年が辛卯の年であったので卯之町にしたとか、卯之日に市が立つため卯之町にしたとかの異説もある。
 藩政時代にはいると、宇和島藩の城下町は宇和島の地に造成され、卯之町は南予の中心地としての機能を喪失する。しかしこの地が、宇和島と大洲・松山を結ぶ主要街道ぞいにあり、さらに宇和川下流の野村方面への交通路の分岐点にあたっていたことから、藩政時代には宇和島藩最大の在町として栄える。また宇和島と大洲の間の宿場町としても賑う。

 藩政時代末期の卯之町

 卯之町の開明学校には、「天保時代の卯之町全景図」が保存されている。この絵図によって当時の卯之町の町並を見ると、町は街道に沿ってT字形に屈曲している。町の中央部にある現在の中ノ町の家並は特に大きく、大きな商家が並んでいたことがわかる。瓦葺妻入形態で背後に土蔵をそなえた同一規模の屋並が続いていることは、計画的地割にもとづく市街地の形成をうかがわせる。
 町の中央西側に土塀をめぐらした大きな建物が見られるが、これは現在の国鉄卯之町駅付近にあったという御仮屋と思われる。町の中央東側の山麓には光教寺が描かれている。この寺は西園寺氏の菩提寺であり、城の移転と共に松葉城山麓から黒瀬城山麓に移り、さらに廃城にともなって卯之町の中心部に移動してきたものである。町の北端には主要街道であったことを示す一里塚も見られる。絵図の付記によると、当時の卯之町は戸数一四九、人口は六一五であり、馬四〇匹、牛二匹を有していた。
 降って天保一四年(一八四三)には、町の境界を示す花崗岩のぼう示が三か所建設された。町の東端には、「従是西駅内」、西端には「従是東駅内」、南端には「従是北駅内」とそれぞれ楷書・行書・草書で書き分けられているが、これは松山の儒者日下伯巌の筆になるものである。このぼう示は今日も、当時の所在地にそのままたたずんでいるが、それは前記の絵図に示す町の境界にあたる地点に立っている。

 明治・大正年間の卯之町

 明治・大正年間の卯之町の中心市街地は、藩政時代同様中ノ町であった。東宇和郡の郡役所は中ノ町の旧庄屋であった清水静十郎宅におかれた。ほか各種の公共機関平宇和小学校の前身である開明学校、さらには主要商店もここに集中していた。
 大正初期の中ノ町は、昭和四九年当時宇和高校教諭の竹田俊夫によって復元(図4―3)されている。これによると中ノ町には、清酒・醤油の醸造元、旅館・木賃宿、小間物屋・雑貨屋・米屋・魚屋など各種の商家が建ち並んでいる。中ノ町の北側の新地には日傭取りが多く、下ノ町には農家が多かった。農家は各戸馬を飼育し、駄賃稼ぎにも従事していた。
 中ノ町の商家の宅地は間口四間奥行二〇間程度に区画され、道路に面して妻入形態をとっていた。家屋の構造は、建物の向って右側に中庭まで通じる土間があり、左側には店・中の間・居間と並んでいた。中庭の一角には井戸があり、炊事場と厠もあった。中庭の奥には土倉があり、通路や土間で店や道路と連結されていた(図4―4)。母屋の一部は中二階となり、そこには内窓があった。白壁・うだつ・半蔀・出格子などが、商家の格式の高さを誇示していた。
 現在の中ノ町には商店はほとんど見られないが、往時の古い屋並は今日に伝えられている。宇和郷土文化保存会の調査によると、中ノ町から本町にかけては、江戸時代に建設された民家が二〇軒あり、明治初期の民家が九軒ある。古い町並の保存が叫ばれている今日、中ノ町の古い商家のたたずまいは、歴史的遺産として貴重なものである。

 県道・国道の開通と中心商店街の移動
 
 明治三二年(一八九九)から三三年にかけて、中ノ町の南側に八幡浜・大洲と宇和島を結ぶ県道が開通する。この県道に馬車の往来がはげしくなり、大正末年より自動車も運行されだすと、交通の便を求めて、道路沿線に商家が建ち並んでくる。県道ぞいには、北は上宇和村(大正一一年宇和町と合併)の馬場から、南は下鬼窪に至る一六〇〇mの細長い街村が形成されてくる(図4―5)。
 大正年間から昭和一〇年代にかけての中心街は明石寺の登口にあたる通称下中通と県道の交叉する四辻一帯であった。ここには人力車や自動車の待合所があったので、自然に人が集まり、そこに呉服店・料理店・雑貨屋・食料品店などが軒を並べる。しかしこの界隈も、昭和一六年卯之町から宇和島間に、次いで昭和二〇年卯之町から八幡浜間に国鉄が開通し、予讃線が全通すると、同じ県道ぞいでも国鉄卯之町駅に近い栄町・銀座商店街にその繁栄がうばわれていく。
 県道ぞいに進出した商家は中ノ町から下りてきたものは少なく、北側の馬場町・栄町方面へは岩城あたりの農家が、中心街・旭町方面へは田之筋あたりの農家が進出してきて商業を始めた者が多い。県道の開通は新しい商店街の形成をうながしたのみではなく、中ノ町からの官公庁の移動をもうながした(図4―5)。
 昭和三六年、前記の県道の西側に国道が開通すると、この国道ぞいへの商店・官公庁の進出が著しくなってくる。特に昭和四五年法華津・鳥坂の両隧道が相次いで貫通すると、松山市・宇和島市への自動車交通は飛躍的に発達する。国道ぞいには工場の進出も著しくなるが、卯之町付近は工場進出の余地に乏しかったので、工場は卯之町から二~三㎞も北にあたる下松葉から上松葉にかけて立地したものが多い。市街の拡張は宇和川の西岸の神領地区にも伸び、昭和四八年県住宅供給公社と宇和町の住宅協会によって一三五戸の住宅団地が造成された。これらの住宅のなかには、宇和島市・八幡浜市の事業所を職場とする者の住宅もあり、用地に恵まれた宇和町がこれら両都市のベッドタウンの機能を果していることがわかる。

 都市機能と都市構造

 国鉄卯之町駅を中心に南北に延びる卯之町の街村は、面積約一平方キロメートル、人口約七〇〇〇であり、この地区が宇和町の中心市街地である。卯之町の都市機能には、商業・行政・教育・交通運輸・工業などの機能があるが、最も強い都市機能は商業機能であり、次が行政機能・教育機能である。交通運輸や工業機能はあまり強くない。
 卯之町の現在の中心商店街は市街地の中心部に南北一六〇〇mにわたって分布する。この商店街は北から、馬場商店街・栄町・銀座街・中心街・旭町商店街と続く。この中で最も商業的機能の強い地区は銀座街と栄町であり、この二つの町は商店密度が高く、買廻り品を扱う商店比率も高い。また年間の販売額の多い比較的規模の大きい商店も多い(表4―10)。これに対して、商店街の両端にあたる馬場商店街や旭町商店街では商店密度も五〇%を割り、最寄り品を扱う小規模な商店の比率が高い。
 卯之町の商業機能は小売機能が主体であり、卸売機能はほとんど見られない。商品の仕入れ先は八幡浜市と宇和島市が多かったが、昭和四六年の国道の改良舗装後は松山からの仕入れも多くなる。昭和五三年現在の宇和町の商品の仕入先を見ると、松山市二五%、八幡浜市二五%、宇和島市一八%、その他県内一三%となり、京阪神地区からの仕入れは一〇%にすぎない。県内からの仕入れは二次・三次卸であり、京阪神から仕入れる一次卸はきわめて少ない。卸売商圏からすれば、八幡浜市と宇和島市の圏域の漸移地帯にあたるといえる。
 卯之町の商店街の顧客は宇和町全域の住民であり、他町村の買物客はほとんど見られない。このことから宇和町の小売機能は宇和町域に及び、町域全体は卯之町商店街の小売商圏に含まれているといえる。しかしながら宇和町の住民が卯之町商店街で買い求める商品は日用雑貨品が主体であり、高級家具・装身具・貴金属などの買回り品の多くは八幡浜市と宇和島市で買い求めるものが多く、卯之町の小売商業機能の弱さが認められる。
 卯之町は東宇和郡最大の都市であり、また八幡浜市・大洲市と宇和島市を結ぶ交通の要衝にあるので、東宇和郡を管轄する官公庁が多く分布する。これらの官公庁は、第二次大戦前には中ノ町や県道沿線に多く立地していたが、現在は国道ぞいに移転してきたものが多く、市街地の西側の国道沿線が新しい官公庁街であるといえる。
 卯之町に立地する国の出先機関としては、中国四国農政局愛媛統計情報事務所宇和出張所・農林水産省愛媛食糧事務所宇和支所などがあり、県の出先機関としては、八幡浜地方局宇和出張所・宇和土木事務所・東宇和農業改良普及所・東宇和蚕業技術指導所などがある。宇和町と明浜町を管轄する官公庁には、宇和警察署・松山地方法務局宇和出張所・宇和電報電話局・宇和保健所などがある。また、宇和町の官公庁・各種団体の事務所としては、宇和町役場・宇和町農協・宇和町森林組合・宇和町商工会などがあり、これらもいずれも卯之町に立地する。卯之町は、これら各種の官公庁の行政サービスを通じて、宇和町全域、さらには東宇和郡全域に行政的機能を及ぼしているといえる(図4―6)。
 卯之町に所在する教育機関には、宇和高校・宇和ろう学校・宇和中学校などがある。宇和高校は明治四一年(一九〇八)創設された宇和農業学校と大正一一年(一九二二)創設された東宇和高等女学校を前身とする。同校には現在、普通科・商業科・農業科を併設するが、普通科の通学生は宇和町全域と明浜町に多く、商業科と農業科の通学生は宇和町・明浜町以外に吉田町や宇和島市にもいる。宇和中学校は昭和四一年宇和町内にあった六つの中学校が統合して設立されたものであり、宇和町全域の中学生が通学してくる。これら高校生・中学生の通学範囲からして、卯之町の教育機能は宇和町全域と明浜町に及んでいることがわかる。卯之町にある学校は、市街地の周辺部に立地しているが、文教地区といえるほどの地区は存在しない。
 卯之町の工業は、第二次大歌前には清酒の醸造業や製糸工業、それに製材業が主なものであった。醸造業は江戸時代以来の伝統をひくものであるが、製糸業と製材業は明治中期以降勃興したものである。周辺農村の繭を集めた製糸業は大正年間には最盛期をむかえ、これが卯之町の市街地に活況を与えた。
 昭和一〇年代になって製糸業が衰退すると共に、内陸盆地の卯之町はみるべき工業を持たなくなる。昭和三五年以降の高度経済成長期になると、宇和町は人口流出が激しくなる。町では過疎対策の一環として、昭和四〇年工場誘致条令を制定し、企業誘致をはかる。その適用工場としては、昭和四一年八幡浜市から進出してきた宇和ソーイング(衣服)、同年明浜町から進出してきた秋田製材、翌四二年大阪府から進出してきた八興繊維、四五年に東京都から進出してきた共立電気計器、同年吉田町から進出してきた愛媛食品興業(かんづめ)、四七年下関から進出してきた昭和油脂、四八年松山から進出してきた三栄工業(機械部品)などがある。これらの工場は南予の市町村から宇和町の用地を求めて移転してきた工場と、安価な労力と用地を求めて県外から進出してきた工場に区分することができる。
 昭和四〇年以降進出してきた工場は、卯之町の市街地には少なく、下松葉・坂戸・久枝・伊賀上などの国道五六号ぞいに立地するものが多い。現在の卯之町の市街地には、工業機能はあまり強くないといえる。
 卯之町の住宅街は中心商店街をとり囲んでみられる。しかし旧市街地の部分は用地の不足から、住宅街拡張の余地に乏しく、新しい住宅街は市街地の周辺部に形成されている。その一つは宇和川右岸の神領団地や一ノ瀬団地であり、他は市街地北方の郷団地や上宇和地区のレンゲ団地などである。










図4-3 大正初期の卯之町中ノ町

図4-3 大正初期の卯之町中ノ町


図4-4 卯之町中ノ町の町家の間取

図4-4 卯之町中ノ町の町家の間取


図4-5 宇和町卯之町の市街地の拡張

図4-5 宇和町卯之町の市街地の拡張


表4-10 宇和町の卯之町商店街の主要指標

表4-10 宇和町の卯之町商店街の主要指標


図4-6 宇和町卯之町の主な公共施設の所在地と近年の移動

図4-6 宇和町卯之町の主な公共施設の所在地と近年の移動