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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 泉貨紙の盛衰


 現況

 昭和五九年現在、泉貨紙を漉いているのは、野村町高瀬の菊地定重(大正一五年―)が息子の孝(昭和二四年―)と政子夫人と従業雇人二人で経営している一軒である。漉槽は三杯で、夫人は専ら乾燥を受持っている。昔は一二時間働いて一日五〇〇枚漉いていたが、今は漉きケタを定重が改良して八時間労働で一五〇〇枚漉いている。乾燥も晴天なら木の乾枝で天日乾燥であり、雨の日はおが屑燃料三角ドライヤーを使用している。原料は楮で主に土佐から来るが、タイヤ韓国からも輸入する。菊地家は藩政時代から泉貨紙を漉いており、父が弥三郎・祖父は文治、当主が六代目で、息子は大阪の自動車整備工場に五年いたが、昭和四八年九月Uターンして父祖のあとを継いでいる。大阪へ出たのは、当時は紙漉きは不況であったから、まず高校を出て生活を考えたのである。Uターンの動機は昭和四七年一月に、父定重が愛媛新聞賞を受けたので、父祖の業を継ぎ、郷土の伝統産業を絶やしてはならぬと考えたからである。その後菊地定重の泉貨紙は、昭和五二年に五十崎の大洲和紙とともに、通産省の伝統的工芸品に指定された。さらに同五五年には無形文化財の指定を受けている。
 泉貨紙は重ね漉きで厚く強靭なので特色で、その用途は、帳簿の表紙、質屋や呉服屋で使うエブ札、反物用畳紙(たとう紙)・染め紙、東大寺二月堂のお水取りに着用する紙子(紙の着物)、物を磨くサンドペーパー、文庫紙、坊さんの衣包み(井筒法衣店)、四国へんろ経本、美術学校の卒業証書などである。販路は京都の森田和紙、大阪の丸十商店、大阪の清水治商店、奈良県北葛城郡香芝町の山陽研磨商店、横浜の森木紙店を経て本の表紙用に輸出もしている。
 製造高は近年六八〇〇㎏で年収二~三〇〇〇万円で、好不況がある。昭和一九年には中筋村に紙漉農家が一〇軒ほどあったが、昭和四二年から菊地一軒に減った。伊予紙見本帖によると、昭和元年には野村一九九、魚成七○、中筋六〇、貝吹二八、渓筋一六、土居に四戸漉いていた。                              
 野村には昭和四〇年ころには泉貨紙を漉いていた人が一〇軒ほどあった。高瀬の①菊地・②徳田・③富永・④岡田・⑤船本、野村新町の⑥岡部、野村荒瀬の⑦三瀬、阿下の⑧池田、下氏宮の⑨薬師神喜代松、渓筋の⑩兵頭などである。

 泉貨紙の由来

 兵頭太郎右衛門は天正一四年(一五八六)南予地方が戸田勝隆の世となるや、野村の雲林山安楽寺に隠栖し泉貨居士と号した。慶長二年(一五九七)二月二八日死去するまで一〇年ほどの間に、楮を原料とする従来の紙に、「トロロ」と「ホゼ」を混ぜて粘着性を活かし、重ね漉きして強靭な和紙を発明した。これを泉貨紙という。野村を中心に北宇和郡や喜多郡の一部にも普及した。泉貨居士の祖先は河野系の土居氏で、父を土居清兵衛尉と称し、東宇和郡鳥鹿野村(渓筋村)鎌田城に住み、宇和松葉城主西園寺公広に仕えた。泉貨居士は土居清兵衛の次男で、通正(道正)と称し初め僧となって野村の安楽寺で修業したが、剛勇で気概に富んでいたので、野村の白木城主宇都宮乗綱に認められ、一八歳で還俗して太郎右衛門と称し西園寺公広に仕えた。当時魚成の竜ヶ森の城代の魚成源太が、土佐の長宗我部に通じたので、公広は太郎右衛門をして之を討たしめた。彼は源太を桜ケ峠で仆した。公広はその功を偉とし、廿五貫文の地を与え、且つ兵頭の姓を授けた。然るに天正一三年西園寺が亡んだので、彼は戸田氏に仕えず入道となった。
 泉貨居士の墓は安楽寺の墓地の南にあり、「清洗院塔」とあり、その横に「慶長二丁酉二月廿八日」と刻してある。碑石の高さ一〇七㎝、天蓋三〇㎝、棹四三㎝、台二八㎝である。隣に息子の土居四郎左衛門の「意空宗昌居士」寛永三年(一六二六)九月廿一日の墓がある。清洗院の院号は正徳二年(一七一二)に加諡された。慶応二年(一八六六)六月二九日には宇和島藩がその子孫の土居七兵衛に代々庄屋格を与えた。また明治一六年一一月八日には農商務卿の西郷従道より追賞として金拾五円を賜わっている。同年一二月一八日に愛媛県も、太郎右衛門の子孫の土居七郎に追賞を贈っている。墓は県指定の史跡である。
 土居家の系図を調べてみると、清兵衛―太郎右衛門―四郎左衛門―総右衛門―与総左衛門―七兵衛―七兵衛―善蔵―与総右衛門―七兵衛―善蔵―荘左衛門―七兵衛(慶応二年庄屋格)―七郎(明治一六年)―唯次郎(大正九年歿)―エイ(昭和三六年歿)―一男(妻カオル)(当主が一八代)である。初代の清兵衛の兄に太郎左衛門というのがある。太郎右衛門(道正)(泉貨居士)の兄は加賀守と称した。

 泉貨紙に関する文献・資料

 ①愛媛県誌稿下巻(大正六年八月発行)の第五篇工産の、第三節東宇和郡の仙貨紙(一〇一二―一〇一四)に、四ページに要約している。宇和島藩の奨励保護で、泉貨方役所と半紙方役所を設け、本局を宇和島に、泉貨の支局を野村に、半紙の支局を魚成村に置いた。また楮方役所を近永と予子林に設けた。明治三四年から大正二年まで一〇年間の累年の製造戸数、男女の職工数の統計がある。大正二年には二六一七戸、四四七〇人(内女二八四八)もあった。
 ②宇和島吉田両藩誌(大正六年十月)愛媛教育協会北宇和部会発行の、第五章生業第九節紙材及抄紙をみると主として仙貨紙・畔地類吉紙について一九ページにわたり詳細に記事がある。また仙貨居士(兵頭太郎右衛門)の人物小伝は第十章の巻頭に西園寺源透が四ページにわたって詳述している。なお兵頭太郎左衛門と書いた文献があるが、彼は次男であるから右衛門が正しい。本書には仙貨居士の画像の賛文が詳しく記載されており、今は県製紙試験場にも写しがある。江戸時代の産額仙貨二万二四〇〇丸此の楮皮九万丸(仙貨一丸は四束)、半紙は千丸此の楮皮四千丸(半紙一丸は六〇束)とある。本書に大塩平八郎の乱(天保八年)に大阪の高家で仙貨紙の帳簿を井戸に投じたが、後日取り出しても聊かも毀損せず、泉貨紙が名声信用を得たという記事が書いてある。当時の仙貨紙の用途として京都では経本、染工の形紙、反物の包紙、張文庫、傘、五倍子袋、不良品は宇治茶のホイロに供したとある。
 ③宇和産紙同業組合発行(明治四三年)『泉貨紙』これに沿革など片仮名文であり、寿岳文章博士が専らこれを引用している。
 ④伊予史精義(大正一三年)景浦稚桃著の第十五章江戸時代の殖産興業に、(四)仙貨紙の節がある。一ページ余に要領よく纒めてある。              
 ⑤伊予紙見本帖(昭和三年六月)伊予紙同業組合発行愛媛県紙業一班の沿革には、永禄年間(一五五八―一五七二)の伊予人の中内馬之允や、土佐史料の日吉村出身の新之丞についても指摘している。本書には明治七年と廿七年の愛媛県の郡別、紙の種類別の統計があり、また明治三八年から大正一五年までの累年統計や町村別統計や工場名が載っている。もちろん紙の見本が八〇種綴(と)じてあり、愛媛県を六地区に区分して紙業の発達過程を記述している。
 ⑥紙碑(昭和三七年三月)成田潔英著(財団法人製紙博物館)「泉貨居士頌功碑」が現在野村町の安楽寺の構内に建っている。公爵伊達宗彰題書、西園寺源透撰文、水口寿夫書、米田重利刻、昭和八年七月建立であるが、長文の漢文体で(碑石は川石の砂岩で高さ二〇〇㎝、幅一一〇㎝。台石も川石で高さ一〇〇㎝、幅一七〇㎝)実物は読みにくい。幸にこの紙碑に全文が載っているので助かる。
 本書の挿話によれば、「世を捨てた道正(泉貨居士)は専ら仙道にはげみながら、修業の一つとして紙漉を研究し、一種の美しい厚紙を作りだした。楮の皮を原料とした大きさ四五㎝に三三㎝のもので、主として帳面・経文・折本・合羽などに用いた云々」とある。泉貨居士の画像は文政八年(一八二五)の作で、永年宇和島藩の紙役所に大切に保存されていた。
 終戦後「仙貨紙」と称する紙は、呼び方は同じでも、品質は似ても似つかぬ片面ツヤのザラ紙である。
 ⑦泉貨紙考(昭和四七年一月)河野健一著 現在僅か一軒残って泉貨紙を漉いている菊地定重が、昭和四七年一月一〇日愛媛新聞社賞を受賞された。これを記念に地元の河野健一中学校長が、泉貨紙の発祥から現今に至る概況及び泉貨紙製造の盛況だった明治大正時代の製造法を記録したものである。泉貨紙を二つ折りにし、筆で美しい文字で器具なども図解して二五ページによくまとめている。安政四年(一八五七)ころの手漉和紙者数を野村組八六四人、山奥組(魚成・横林・惣川・土居・遊子谷)五二四人、川原渕組(松丸・吉野生)三〇七人と記載している。
 ⑧泉貨今昔談(昭和五一年百万塔四一号)寿岳文章 八ページの論文であるが泉貨・仙貨・仙過・仙花の文字から、あらゆる泉貨に関する文献を検討し、論述している。次子だから泉貨居士は兵頭太郎左衛門は誤で、太郎右衛門が正しいと指摘している。明治四二年度の宇和産紙同業組合の組合員が一一九六人、製造戸数一一四四人で、殆ど全部が泉貨と泉仲(質の劣った夏季漉く中仙)を漉いていたとある。
 ⑨野村郷土誌(昭和三九年)野村町中央公民館発行 第十八章人物の項に、三ページにわたって泉貨居士について記述している。兵頭太郎左衛門通正は、慶長二年没し雲林山麓に葬られた。元禄一三年(一七〇〇)正月、宇和島の紙商塔屋作左衛門の請により、竜沢寺住職霊屋法師が法号を追贈して、「清浄院宝山泉貨居士」と称し厚く之を供養し、かつ「予州泉貨記」を作って作左衛門に与えた。本書に予州泉貨記という六五〇字の漢文の経歴文が誌してある。
 明治四二年当時の泉貨紙の産額は二〇万貫三五万円以上の収益をあげ、町内は活気を呈していたとある。
 ⑩愛媛新聞連載記事「泉貨紙をすく」(昭和五五年一一月三日より一〇回) 和紙の里・養子入り・結婚・花作り・初めての名刺・エビのシッポ・愛媛新聞賞・よき理解者(河野健一)・泉貨紙製造工程模型づくり・後継者誕生の一〇のトピックで、菊地定重(大正一五―)氏の家庭・家業を中心に苦難の道をとりあげた記事である。最近の写真も入れた貴重な資料である。