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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

七 野村町の街村


 野村組二十二か村の在町野村

 東宇和郡野村町は宇和川流域の野村盆地と、肱川支流船戸川流域の山間地を合せた地域であり、それは宇和島藩十組の一つ野村組二二か村・山奥組内三か村の領域とほとんど一致する。宝暦七年(一七五七)の『大成郡録』による各組の戸数は、野村二四五、河西二五、片川三五、阿下一一四、蔵良八〇、平野六五、次川三〇、四郎谷一一五、長谷五一、林乗二七、鳥鹿野五〇、広田一五、伊与地川一四六、蔵村九一、白髪九〇、高瀬一三六、中通川九一、釜川五五、鎌田四一、栗木六〇、西村五〇、前石五〇戸であり、山奥組の横林二三〇、坂石六〇、惣川三四五を合わせると二二七七戸であった(図4―16)。
 この野村組生活圏の中心となった在町は現在の野村町野村であり野村盆地の底部である宇和川河岸段丘面に立地し、宇和に至る代官道や、内子町に抜ける金比羅街道にそい、又山奥組(宝暦七年二三七三戸)を後背地として街村集落を発達させた。しかし宝暦七年の野村戸数は野村組総戸数の約一五%であり、昭和五五年(一九八〇)の旧野村組域戸数三二九一戸に対する野村戸数の割合が約五〇%を占めているのと比較すると、一八世紀中期の野村在町はさして規模の大きいものではなかったと想像される。
 この在町野村の発展にかかわっては野村庄屋緒方氏の果たした役割が大きい。緒方氏は戦国末期に豊後より来地し(緒方家譜)、野村殿宇都宮氏配下として、現在の野村市街地の北方にある白木城の城代として実力を養い後に在地領主となった。現在の後継者緒方真澄によると七代をさかのぼる惟春の文書に「徳城へ居を移す……」とあり、慶長、元和のころ、現在の徳城通り緒方屋敷へ移ったものと推察できるという。この緒方家の盛時には耕地宅地約四百町歩、山林一〇〇〇町歩を有し、宇和島藩庄屋中一、二を争う分限者といわれ、新田開発や水利事業を積極的に行なうと共に、明治以後地方産業革命のリーダーとして手広く事業活動を行なった。醸造(野村醸造)、精米(緒方精米)、運輸(宇和島自動車)、金融(野村銀行)、流通・通信(東宇和購買販売利用組合・野村郵便局)などを創設・主催し、現在の本町・徳城通りの北半分地区に、事業所、商店を設立し、又街並の形成にも力があった(図4―17)。

 在町野村の形成と地場産業

 手すき和紙「泉貨紙」は天正年間に開発に成功し、以後四百年にわたり野村地方の代表的物産として全国的に販路を広げたものであるが、野村地方で豪農・豪商といわれた人々はほとんどこの紙産業にかかわっていたといわれる。安政四年(一八五七)には野村組八六四人、山奥組五二四人の手すき業者があり(野村郷土誌)、元禄元年(一六八八)には宇和島藩直販となり(善兵衛文書)紙役所が本町筋の旧野村商事跡(現矢野歯科医院)に設けられた。大正一一年の町筋地図(野村町企画課復元製作)によると紙取扱業者としては東宇和購買販売利用組合、野村商事の外に、本町通りに三人の仲買人店舗が示されているが(図4―17)このころはもう泉貨紙が斜陽産業化した時期であり、盛時には町勢発展の原動力であったのである。この和紙産業と並行して製糸業も又在町の発展に影響するところが大きかった。明治末期から大正年間にかけて東宇和郡にあった十七社の製糸工場のうち、野村町内に六社があり、うち在町野村で三社が操業していた。又蚕種製造所も町内に四社があり、うち二社が大字野村にあった。現在は徳城通りの北づめに、愛媛蚕糸農業協同組合がある。
 次に野村町畜産との関係であるが、野村町は県下有数の畜産地であり、昭和五九年でも乳牛四一六〇頭、和牛二八八〇頭が飼育されているが、戦前は和牛を中心に月の六日、二一日に牛市が開かれ野村町はもとより、東宇和郡一帯に加えて宮崎・大分・高知・中国地方から牛と馬喰(くろう)が集まり盛大であった。この牛市場は町筋南部の本町通り・徳城通りにはさまれた場所にあり、大正一一年(一九二二)の本町筋商店街図をみると牛市場近くに獣医、飲食・料理店、馬車・荷馬車業者、旅館、芸者置家、芝居小屋など牛市に集まる人々の利用する店舗が集中していて、この家畜取引も市街地形成に大きく影響していることがわかる(図4―18・19)。
 ここで野村在町の一つの特色についてふれると、大正一一年の野村在町戸数(本町・徳城・丸山通り)は二七二であるが、昭和五九年までその街筋の同じ場所に直系家族が住み続けているのは七二戸で約二六%に過ぎない。そして野村の街筋からはなれた者の約九〇%は町外へ移っているという。在町としては極めて高い移動率といえるのであるが、これは前述の野村町の主要地場産業であった泉貨紙・蚕糸・和牛の生産・販売が明治以後それぞれの時期にはげしい盛衰の軌跡をたどった為に、それにかかわった人や関連企業が集散した現象ととらえることができる。

 野村の街筋と商店街の機能

 在町野村と道路交通との関係をみると宇和―野村郡道(現国道四四一号線の一部及び主要地方道宇和―野村線で旧代官道)が明治三五年(一九〇二)、荷刺―頭王道(現主要地方道大洲―野村線で、地方では金比羅街道ともいう。)が明治四二年(一九〇九)、野村―坂石(さかいし)郡道(現主要地方道宇和-野村線)が大正二年(一九一三)、野村―魚成道(現主要地方道野村―城川線)が大正三年(一九一四)にそれぞれ開通し、自動車運行も大正七年(一九一八)に野村―宇和間、定期バスが昭和二八年(一九四一)に大洲―坂石―野村―卯之町間を運行開始して、宇和・大洲・内子・城川に通ずる東宇和郡東部の交通要地となり繁栄の度を高めていった。
 野村街村の中心道筋は本町通りで、出合―本町通―坂石を結ぶ旧県道の一部であり、前述した地場産業に関係する商店が並び、旧紙役所・野村町役場・野村警察署、大洲商業銀行・伊予野村銀行もこの道筋に面していた(図4―20)。現在も一五五戸が市街地を形成しているが、商店・金融・サービス業店舗が約七五%を占め、官公庁関係家屋は全く姿を消した純商店街となっている。本町通りに次いで街筋形成の古い丸山通りは本町通りの西側に並行するものであるが、在来から表通りの本町通りに対し、裏街を形成するもので、現在も家屋六四戸で本町の約四〇%、民家機能だけの家屋も約五六%と高く、閑静な街筋なので法務局・保健所・簡易裁判所・公会堂などの官公舎が集まっている。
 本町通りの東側に並行する徳城通りは「徳城の森」と称された古墳や、緒方家屋敷、旧代官所跡があり、この通りの北部は野村在町の古い拠点であったと考えられるが、宇和川筋に最も近い段丘低部の水田地帯なので、現在の徳城通りとしての道路が整備され、商店街が形成されたのは昭和三〇年以後のことである。今の宇和島バスの市街地運行系路は宇和川を越える三島橋から徳城通りを上下し、国道バイパスに連なるもので宇和島バス営業所もあり、城川町方面からの顧客をあてこんで三島橋通り以南の徳城通りが次第に商店街化していったものである。戸数は九〇戸で商店率は約六三%で本町通りに次いでにぎわっている。新地としての特色は、新しい野村警察署や町立野村病院、愛媛県蚕糸農協などの所在で示されている。国道四四一号の中村―緑ヶ丘バイパスの完成は昭和四二年であり、野村街村四本目の道筋ができたわけである。この新道に面する家屋は五四戸、うち民家は八戸で一五%にすぎない。バイパス道の常としてガソリンスタンド(四)自動車販売、修理店(四)をはじめ、野村町役場、郵便局、消防署、電々公社、国鉄バス駅などの新官公庁舎やスーパーマーケットが並び、在来の野村商店街に「厚み」を加えると共に「新風」を吹き込むことになった(表4―27)。
 野村町野村の商店街の商圏人口は在来からの野村町(人口昭和五五年一万三七五一)、城川町(六二一二)に宇和町の一部明間、大洲市の一部舟原・宮野地区を加えて約二万人と推定される。野村盆地の旧野村組二二村(宝暦七年人口七三二一人)船戸川山間地旧山奥組一八村(宝暦七年人口一万一三〇三人)を背景に地場産業に支えられながら近世在町として発展してきた野村にも流通革命の影響はようしゃなくおとずれている。道路整備とモータリゼーションにより、城川町はもとより、地元野村町でも松山・宇和島商圏に直接吸引される傾向が生まれてこようし、逆にバイパスの完成により、卯之町ほどではないとしても通過地型商業活動も新しく立地がみられるようになった。商圏人口に対して商店街の面積の広がりすぎや商店核や専門店グループの問題・得意にたよる個人経営が強すぎて、共同活動が欠けるなどの経営診断がなされているが、伝統のある在町の保全と新たな発展がこの盆地、山間地生活圏の重要な課題であることは言うまでもない。









図4-16 野村組22村・山奥組3村の戸数分布図

図4-16 野村組22村・山奥組3村の戸数分布図


図4-17 大正11年の野村本町通り・徳城通りの集落

図4-17 大正11年の野村本町通り・徳城通りの集落


図4-18 大正11年の野村牛市場付近の本町通り集落、図4-19 昭和59年の野村旧牛市場付近の本町通り集落

図4-18 大正11年の野村牛市場付近の本町通り集落、図4-19 昭和59年の野村旧牛市場付近の本町通り集落


図4-20 昭和59年の野村本町通り・徳城通りの集落

図4-20 昭和59年の野村本町通り・徳城通りの集落


表4-27 野村徳城通り・本町通り・丸山通り・バイパス通り(国道441号)の集落機能

表4-27 野村徳城通り・本町通り・丸山通り・バイパス通り(国道441号)の集落機能