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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

九 肱川流域の集落


 集落立地の特色

 肱川中・上流域の肱川町・野村町・城川町には、谷底平野の発達は良好ではないが、河ぞいには河岸段丘の発達がよく、また山腹には緩斜面の発達も良好である。この地域の集落の多くは、これら河岸段丘上と、山腹緩斜面に立地する。一方、谷底の国道や県道ぞいに立地する街村状の集落もあるが、これらは大正年間以降、道路が開通してから形成された新しい集落である。
 城川町には河岸段丘上に立地する集落が多数存在する。旧役場の杉の瀬の付近には特に段丘の発達が良好であり、杭・関が平・今田・広田などは、いずれも段丘上に立地する集落である。河岸段丘は洪積世の河床面が土地の隆起によって現河床より一段と高い位置に残存している平坦面である。この地形は山がちな地形のなかにあっては、集落や耕地の立地する重要な平坦面であるが、現河床よりは高位の平坦面であるので、開田のための灌漑用水の取得や、飲料水の取得には困難をきたしたところが多かった。

 河岸段丘上の集落杭

 城川町の杭の集落は河岸段丘上に立地する典型的な集落である。段丘面は肱川の支流黒瀬川の河床からは約五〇mの段丘崖で隔てられ、その上に標高二〇〇mから一五〇mの間に約〇・五平方キロメートル程度の平坦面が展開している。この平坦面上に昭和五五年の農林業センサスによると三六戸の農家が点在している。
 昭和五五年の耕地面積をみると、水田二二・七ヘクタール、畑一・七ヘクタール、樹園地七・三ヘクタールとなっているが、このうち水田四~五ヘクタール程度は他集落への出作である。現在は畑面積に対して水田面積が広いが、第二次大戦前には、水田面積は現在の六〇%程度であった。明治・大正年間のこの集落の主作物は、段丘上の畑に栽培する夏作のとうもろこし・甘藷、冬作の麦などであったが、養蚕業も盛んであり、桑園面積もかなりあった。
 黒瀬川の河床から五〇mも高い段丘上に位置するこの集落では、灌漑用水の取得が困難であり、水田の開墾には苦労が多かった。水田の灌漑水源をみると、溜池と出水(でみず)といわれる湧水、それに段丘面を刻む小規模な河川の水などが利用されている。溜池の構築年代をみると、最大の面田(おもだ)池を除くと、いずれも明治以降であるので、この地区の水田の潅漑水源は、従来は山地を刻む谷川の水平、段丘面を刻む侵食谷の湧水に依存していた。したがって幕末の天保年間(一八三〇~四四)に面田池が構築されるまでは、水田面積は微々たるものであった(図4―23)。
 水田の開発は幕末以降溜池の構築によって推進される。溜池の構築年代をみると、江戸時代一、明治年間九、大正年間一〇、昭和年間四を数える。溜池は数戸の共同で構築されたものが多いが、中には個人所有の溜池もあり、その灌漑面積は数アールから数十アール程度のものが多い。水源は背後の山地の谷川の水と、天水に依存したが、干魃時にはしばしば干害をこうむった。
 水不足のこの集落では、田植前の耕起作業は入念をきわめ、水を入れて荒鋤したのち、荒代かきをし、さらに耕起と代かきを繰り返し、漏水の防止につとめた。田植は梅雨時の降雨を待ってなされたが、七月二日までに雨が降らないと、池の樋を抜いて田植をしたが、その場合は、四〇%程度の水田にしか田植はできなかったという。田植後の池の水の管理は、利用者の中から水番を出して、これに一任し、耕作者が灌漑水を自由に利用することはできなかった。このように厳重な灌漑水の管理をしても、大正末年以降で収穫皆無の干害を受けたことが三回もあったという。
 この集落が灌漑水の不足から解消されるようになったのは、昭和三四年段丘崖下を流れる黒瀬川の水を動力ポンプによって、面田池まで揚水するようになって以降である。この揚水事業は当初二四戸の農家によって補助金を得て実施された。揚水事業は水不足を解消し、小規模な個人所有の溜池五つを廃棄した。また八ヘクターの開田をも可能にした。続いて同四五年ころには、さらに二か所の地点で揚水ポンプが設置され、面田池系統以外の地区でも用水不足が解消されるようになった。
 杭の住民が悩んだのは、灌漑水の取得のみでなく、飲料水の取得にも悩まされた。段丘上の集落は数か所に分散立地するが、それは飲料水の取得と関連する。この集落の飲料水は、従来段丘面を刻む浅い侵食谷の崖に掘られた深さ一~二mの井戸水や山麓の湧水を利用していた。これらの飲料水の得られる地点は九か所あったが、集落はこの九つの水源を中心に、それを利用する数戸の家が集まって形成されている。これらの水源の水は乏しかったので、一戸当たりの一日の取水量には制限があった。これらの飲料水の利用グループ内には本・分家関係にある家が多く、この集落は飲料水の得やすい地点に立地した本家から、その付近に分家が創設されていくことによって、次第に発展していったことが推察される(図4―24)。
 水不足のこの集落では防火のために「小井戸(こいど)」といわれる一〇㎡程度の水槽が庭先にうがたれている家が多かった。この水源は屋根水を集めたものが多かった。風呂は一週間に一回程度、小井戸の水牛屋根水を利用してわかす程度で、もらい風呂が一般的な風習であった。この集落では、大正末年から昭和二〇年ころまでの間に、各戸八~一〇m程度の深井戸を掘削し、飲料水の確保をはかるようになる。この深井戸の掘削は飲料水の不足を緩和するものであったが、この集落の住民が自由に飲料水や生活用水を使用できるようになったのは、昭和四九年ころ、背後の山地の谷水(冬季)と黒瀬川のポンプアップした水(夏季)を水源とする簡易水道が敷設されて以降であった。 

 川舟と筏流しの起点河成

 肱川は河床勾配が緩やかな上に、水量が豊富であり、愛媛県では最も可航条件にすぐれていた川である。河ぞいには多くの河港が立地していたが、肱川の上流の宇和川に、舟戸川・黒瀬川の二つの支流が合流する坂石地区は、川舟と筏流しの起点として発展した肱川最上流の河港である。この地区には第二次大戦前に筏師の組が三つもあり、一〇〇人程度の筏師がたむろしていた。筏はここから三日の行程で河口の長浜に下り、川舟は二日の行程で同じく長浜に下ったという。
 坂石地区の一角には河成の集落がある。この集落は舟戸川と黒瀬川の合流点にあたり、筏の組場があった。集落は県道にそって街村状に並んでいるが、その形成は新しく、昭和元年に惣川から舟戸川左岸に馬車道が開通してきて以降に形成された。昭和三年には土着の家が三戸あったのみであるが、その後近隣の河岸段丘上の奈良野・松尾・横林などから筏師や馬車ひきなどが集まり、新集落が形成される。また、惣川・城川方面への交通の要衝にあたることから旅館を営むものも数軒あった(図4―25)。
 この集落は昭和三四年鹿野川ダムが完成すると水没の憂き目を見たが、集落は新たに形成された県道ぞいに従前の位置関係を保ったまま移動した。川舟は昭和になって次第に衰退し、筏流しも昭和二八年には終焉したので、この集落の生業は水没前とは異なり、日用雑貨店などを営むものが多くなっている。

 県道ぞいの集落三島

 野村町惣川支所のある三島は、旧惣川村のほぼ中心地に位置する。この集落の西方には広大な山腹緩斜面がみられ、そこに天神・稲谷・奈良野・寺などの集落が立地し、惣川地区最大の人口集積地となっている。役場も学校も天神に位置していたように、この山腹斜面は文字どおり惣川の中心地であった。旧惣川村は肱川の支流舟戸川の流域にひらけた村であったが、舟戸川は山地にするどくV字谷を刻んで流れているので、谷底に平地は皆無である。大小の集落はすべて山腹緩斜面に立地しており、旧来の徒歩の時代の道路も、これら山腹斜面の集落をぬって通じていた。舟戸川ぞいに県道が建設されたのは大正三年以降であるが、下流の中津と大窪西の間か急峻な地形であったので難工事となり、ようやく昭和九年に全線が開通した。舟戸川右岸の県道の開通が遅れたため、大正一四年にその代替線として舟戸川左岸に、台組と河成間を結ぶ馬車道が建設され、翌一五年に完成した。
 惣川地区の県道ぞいに集落が形成されたのは、大正中期以降の道路の開通後である。大正一五年(一九二六)舟戸川左岸に馬車道が通じ、台組から上手の県道と接続されると、自転車・客馬車・荷馬車の運行が盛んとなり、峠越えの旧道はさびれていく。これに反して県道ぞいには交通の便にひかれて新しい集落が形成されてくるが、三島はその典型的な集落であった(図4―26)。
 三島の県道ぞいに最初に人家が形成されたのは大正一三年であり、それ以前には一軒の人家も無かった。以後昭和になって、近隣の山腹斜面から住民が移動してきて、次第に商業集落が形成されてくる。昭和二四年には惣川村役場も天神から下りてくる。さらに郵便局・駐在所なども立地し、今日では新たな惣川地区の中心集落となっている。
 惣川地区は昭和三五年六九一世帯三一三一人であったのが、同五〇年には五〇〇世帯一五九三人となり、この間に世帯数が二七・六%、人口が四九・〇%も減少した。南予地方のなかでも最も過疎現象の著しい地区であり、山腹斜面に立地する交通不便な集落のなかには廃村寸前となっているものもある。例えば、伊予ノ地は土佐の檮原に通じる要路にあり、明治・大正年間には一六~一八戸程度の集落であった。第二次大戦後は挙家離村が相次ぎ、昭和五〇年にはわずか里戸の過疎集落になった。この伊予ノ地の住民の移住先として最も多いのが三島であり、ここに八戸も移住している。県道ぞいの新しい集落のなかには、このように山腹斜面の過疎集落の受け皿となっているものが多く、自動車道の開通が山腹斜面の住民を徐々に県道ぞいに移住させている点は注目される。













図4-23 城川町杭の土地利用と水田の灌漑水源

図4-23 城川町杭の土地利用と水田の灌漑水源


図4-24 城川町杭の共同井戸の利用関係と本・分家関係

図4-24 城川町杭の共同井戸の利用関係と本・分家関係


図4-25 水没前の河成の集落構成(見取り図)

図4-25 水没前の河成の集落構成(見取り図)


図4-26 野村町惣川地区三島の集落構成(見取り図)

図4-26 野村町惣川地区三島の集落構成(見取り図)