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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 宇和島市近辺の落葉果樹


 果樹栽培の概況と鬼北のくり

 北宇和郡の六町村を含めた宇和島市近辺の落葉果樹栽培は、宇和海沿岸の柑橘栽培に比べると低調である。吉田町は県内の代表的なみかんどころで、栽培面積や収穫量は第一位の地位を占め(「先進地立間を中心としたみかん」の項参照)、また宇和島市も上位にある。これに対し、鬼北地方のみかん栽培は、三間町に二二ヘクタールみられるだけで、広見・松野・日吉の町村にはない。これは鬼北盆地の年平均気温が宇和島市に比べ約一・五度低いためみかんが栽培できないからである。こうした状況のもとで昭和三二年に鬼北地方が県の落葉果樹試験地に指定され、三六年には広見町に愛媛県果樹試験場鬼北分場が設置された。これにより主にくりを中心としてかき・もも・ぶどう・すももなどの試験栽培が始められた。しかし年平均降水量が二〇〇〇㎜を越え、しかもその五〇%余りが六月~九月の四か月に集中すること、秋には特有の盆地霧が発生して毎朝一〇時すぎまで霧が晴れず、そのため日照時間が短いことなどの理由で、比較的有利な果樹としてはくり・もも・ゆずに限定される。
 宇和島市とその周辺の比較的知られた落葉果樹栽培地としては、宇和島市来村のぶどう、同柿原のかきがあり、新興の果樹栽培地として津島町のかき団地、松野町のもも団地がある。しかし最も代表的な落葉果樹はくりで、鬼北地方では果樹面積の九〇%以上を占めている。鬼北地方のくり栽培熱は三〇年代の落葉果樹試験地指定、果樹試験場設立とともに高まり、東宇和郡の中山性山間地帯へも拡大した。鬼北地方では広見町が最も盛んで、栽培面積三二〇ヘクタール、収穫量三五九トンをあげ、次いで松野町(一三三ヘクタール・一五二トン)や日吉村(一二三ヘクタール・一九六トン)が多い(五七年)。みかんの多い吉田町にはくり栽培はみられず、宇和島市もわずかに五ヘクタール・六トンで鬼北地方と対照的である。この鬼北地方の三町村で、栽培面積では県全体の一一・○%、収穫量で七・九%を占めており、新興くり産地としての地位を高めている。栽培されている主な品種は県内の他産地と同様に中生種の筑波が多く、三町村全体の栽培面積の四七・六%を占める。次いで、ち―7・銀寄・石鎚の順である。鬼北農協管内(広見町・松野町・日吉村)では組合員三九二六戸のうち二一四三戸でくりを栽培し、自家消費分五〇トンを除き、約六割余が県外の青果市場(東京・大阪・名古屋・東北・北海道)へ出荷される。県内加工用は約三割で、県内青果市場への出荷は約五〇トンほどである。
 くりは鬼北地方では最も適した果樹で、広見町では水稲に次ぐ基幹作物であるが、台風の影響による豊凶の差が大きい。また、急峻な傾斜地が多く標高も高いため経営が粗放的で、肥培管理も十分に行なわれていない。その結果、単に採取するだけの農家が多く、この地方がくりの主産地に成長していながら生産性の低い段階にとどまっている。玉太りも悪く虫栗率が比較的高いため、栽培方法の再検討が迫られている。また労働力の季節的な集中を避けるため、早生種(日向・ち―7)、中生種(筑波・銀寄・有馬)、晩生種(石鎚・岸根)の比率をこれまでの二・七・一から三・四・三へ切り替えるのが課題である。

 来村のぶどう

 来村は宇和島市南部の市街化が進行している近郊地域である。昭和三〇年ごろ、この地区で水稲に代わる換金作物を模索していた農家のうちの二〇戸ほどが約一五ヘクタールにぶどう栽培を始めた。主に甲州三尺や甲州系俵津ぶどうを植栽したが、三、四年後に来村ぶどう出荷組合をつくり、共同出荷をしやすくするため品種をデラウエアに統一した。デラウエアは収穫期が早いので夜蛾の被害をうけず、袋かけの手間がいらないという利点があった。また、稲の収益が反当たり一四万円に比べ、露地もので約三倍、ハウスぶどうでは七倍近い収益があったことから、四〇年代末にはハウス栽培が普及した。ハウスでも加温すると収穫期が梅雨と重なり、雨期には需要が伸びないため多くは無加温である。(図5―8)。また消費者の嗜好が糖度の高いものを求める傾向にあり、糖度一八以上のデラウエア、一七の巨峰、一六のキャンベルなどが好まれるが、巨峰は来村地区ではハウス栽培でないと皮のうすい上質のものができない。また種なしぶどうが一般化したため、ジベレリン処理を開花の前後に二回行なう。この作業が反当たり一五~二〇人役を要する重労働のため、肥大促進を目的とする二回目の処理は噴霧ですませる場合もある。
 五七年の宇和島市のぶどう栽培面積は三一ヘクタール、収穫量は二二三トンで、この年は八月の長雨のため収穫が減ったり裂果などの被害がでた。価格も平年価の六割にとどまり、来村農業協同組合扱いの出荷量も前年の五万二二三箱に比べ、一九%減の四万六八六箱であった。その内訳は、ハウスデラウエアが五一・○%、露地デラウエア二九・六%、ハウス巨峰一・六%であった。来村のぶどう栽培地は元は水田のため排水が悪く、木の寿命が短かい。また多雨地域のため、ぶどう栽培の適地とはいえず、みかんの好況も反映して水田からぶどうへの転作は拡大しなかった。最近はいちぢくに転換したり住宅地化するぶどう畑もある。

 柿原・津島のかき

 宇和島市柿原にかきが導入されたのは大正五年(一九一六)で、昭和初期の世界恐慌によって打撃をうけた養蚕にかわるものとして普及した。柿原は富有・次郎の優秀品産地として知られ、三一年・三三年には全国果実共進会で農林大臣賞を受賞した。三〇年当時は栽培面積二〇・四ヘクタール(富有一二ヘクタール、次郎七ヘクタール、平核無一・四ヘクタール)、収穫量二三〇トンであったが、その後は価格低迷とみかんの増殖によって減少した。五七年では一二・五ヘクタール(富有八・四ヘクタール、次郎三・〇ヘクタール、平核無〇・六ヘクタール)、二五〇トンである。これは宇和島市全体の栽培面積の六割余りにあたり、最近は前川次郎・刀根早生が増植されつつある。
 その他のかき産地としては広見町(一五ヘクタール)、三間町(一二ヘクタール)がある。広見町では富有、三間町では次郎が主に栽培され、収穫量は広見町一三八トン、三間町一三二トンである(五七年)。しかし鬼北地方は収穫期に霧のため日照時間が不足して着色が悪く、また病虫害の被害が多いことなどから増植の傾向はない。津島町では自然休養村整備事業として五四年に御内地区にかき団地が造成された。この団地は高冷地果樹栽培のモデルとして音無山の山麓に約六・四ヘクタール造成され、現在では富有三・七ヘクタール、前川次郎(二・一ヘクタール)、平核無(一・二ヘクタール)が栽培されている。栽培農家は七戸で、商品としては五八年秋に初出荷した。六五年には二一○トンの収穫が見込まれている。

 松野町のもも団地

 県内のももの主産地は松山市と越智郡で、北宇和郡はこれに次ぐ産地として注目される(図5―9)。北宇和郡のうち最も盛んなのは松野町で、同町のもも栽培は昭和五〇年に着手された県営農地開発事業による農地造成に始まる。それまでは広見町に約一ヘクタール植栽され、三~四トンの収穫量をあげていたにすぎない。松野町では五二年に一八ヘクタールに及ぶ延野々の五郎丸団地の開発が始まり、そのうち六・五ヘクタールにももが新植された。現在は延野々や緑ヶ丘を中心に三〇ヘクタールに達している。参加農家は約一〇〇戸であるが、その経営内容はもも栽培の専業は少なく、他の作目と複合している。また労働力の大部分を婦人や高齢者に依存している兼業農家もある。こうした農家の場合、若木の間は作業も比較的容易であるが、成木になるにつれて労働力確保の問題が生ずる。例えば消毒は四月下旬から一週間ずつ定期的に最低五回(一〇アール当たり一回約二時間)必要で、袋かけ作業は田植え時期と重なる(早生種は無袋)。収穫期も七月中旬から八月上旬に集中するので、品種の組み合わせが労働力配分の上から大切である。また家庭での個別選果や箱詰めでは品質が不ぞろいで有利な価格形成が困難なため、特用園芸経営近代化施設整備事業としてももの選果施設が建設された。
 鬼北地方のもも栽培は団地化しているため、白鳳を中心として大久保・小平早生の三品種に限られている。松野町では一五ヘクタールが白鳳で、六ヘクタールが大久保である。気温が高く出荷期が他産地より一週間ほど早い利点はあるが、ももの玉が小さく東北や九州の大産地との競合は困難で、宇和島・松山などの県内市場向けが多い(県内青果市場へは福島県から毎年約三〇〇〇トン移入されている)。しかし土地条件が同質化しているため品質が均一で加工用に適しており、宇和島に立地する加工企業への出荷が期待される。鬼北地方のもも栽培の問題点としては、多雨地域で特に四月から九月までの降水量が月二〇〇㎜以上に達すること、日照時間が短いため炭ソ病の発生が多いこと、七月下旬から蛾の発生が多く、袋の外から果汁を吸う被害をうけることなどがあり、もも栽培の最適地とはいえない。従って一般のもも栽培農家は生産の拡大に消極的で、五郎丸団地でも一戸当たり平均栽培面積は三〇~四〇アールである。今後は生産意欲の高い中核農家に土地利用権を集中させ、肥培管理の徹底、畜産農家との連携による土作り、無加温ビニルハウスによる早期栽培などに取り組むことなどが課題である。






図5-8 ぶどう出荷量と天候

図5-8 ぶどう出荷量と天候


図5-9 都市別もも栽培面積と収穫量

図5-9 都市別もも栽培面積と収穫量