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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 鬼ヶ城山系の林業


 林業の地位

 宇和島市街地の東方四㎞にそびえる鬼ヶ城(一一四二m)は南予の山岳の雄である。南予の山地は、この鬼ヶ城を中心に、南には高知県境にそびえる篠山(一〇六五m)、東には鬼北盆地を隔てて戸祇御前山(九四六m)・高研山が連なっている。この重畳として重なる山岳地帯が南予の林業地帯といえる。
 この地帯の林業は、鬼ヶ城から篠山にかけての製炭業と滑床国有林の用材生産から発達し、鬼北盆地以東の広見町から日吉村にかけての山岳地帯は、第二次大戦前には重要な林業地帯ではなかった。
 現在この地帯の林産物では、素材としいたけの生産がある。昭和五五年の宇和島市と北宇和郡の素材生産量は一〇・四万立方メートルで県の一二・九%を占める。このうち七九%が民有林材、二四%が国有林材であり、現在は民有林が素材生産の主体となっている。また同年のしいたけの生産量は一二・一万㎏(乾換算)であり、これは愛媛県の八・〇%を占める。素材生産の多いのは津島町・松野町・広見町であり、しいたけ生産の多いのは日吉村と広見町である。

 林野所有の特色

 宇和島市・北宇和郡の林野所有形態の特色は、国・公有林の比率が高く、私有林の比率が全体的に低いことである(表5―11)。
 国有林の広く見られるのは鬼ヶ城から篠山に至る愛媛・高知の県境地帯であり、市町村別では宇和島市・広見町・松野町・津島町に多い。これらの国有林は藩政時代には宇和島藩と吉田藩の藩有林であり、農民の利用が厳しく制約されていた山地である。国有林に編入されたのは、明治六年(一八七三)の官民有区分後である。明治以降は滑床国有林などでは、もみ・つがなどの用材の伐採が盛んに行なわれ、また天然広葉樹林を対象に製炭業が盛んに行なわれてきた。天然林の伐採後は滑床国有林にみるように、すぎの植栽がすすみ、見事な人工林になった山もあるが、昭和三〇年代まで、地元住民の製炭稼業のため、天然広葉樹林のまま放置されていた山も多い。
 現在の公有林は県有林・市町村有林・財産管理区有林などからなるが、それは藩政時代の農用入会林に起源するものが多い。これらの入会林は明治六年(一八七三)の官民有区分では、官にも民にも属さないものとして、従来の慣行によって村民が共同で利用してきた。この山は明治二三年(一八九〇)町村制が実施されると、その町村を構成する部落の所有林、すなわち部落有林となり、入会採草地や薪炭材の採取地として地元住民に利用される。
 北宇和郡の山間地には谷底平野の発達が良好であり、そこに広く水田が展開している。明治・大正年間には、水田に投入する肥料としては肥草が最も重要であったので、この地域には肥草採取用の入会採草地が広く見られた。明治四三年(一九一〇)の愛媛県の部落有林野は四万六四六八町歩(全林野の一六・四%)であったが、北宇和郡には八八一八町歩(全林野の二〇・一%)あり、県内でも特に部落有林野の比率の高い地区であった。
 この部落有林野は新町村のなかで部落意識を温存するものとして、国の政策によって明治四三年(一九一〇)以降整理統一の対象となる。北宇和郡においても前記の八八一八町歩の部落有林のうち、昭和一四年までに六二八〇町歩が整理される。整理された部落有林は個人に分割されたもの、市町村有林となったもの、旧来の利用者が財産管理区を組織し、その管理下になったものなどと姿を変えていった。市町村有林や財産管理区有林などの公有林は、昭和年間になってからは、金肥の普及によって採草地としての意義を失ない、立木地となっていくが、依然として旧来の部落が管理している山は多い。

 林野利用の特色

 宇和島市・北宇和郡の林野利用の特色は天然広葉樹林の面積が広く、人工林率が低いこと、人工林のなかでは、すぎの面積に比べて、ひのきの面積が広いことである(表5―12)。
 この地方の標高五〇〇m以下の山地の自然植生は、しい・かしを主体とした照葉樹林である。天然広葉樹が広く見られるのは、この自然植生がそのまま残存していることを示すものである。天然広葉樹が広く残存した要因は、宇和島市や津島町などの比較的海岸に近い山地では、製炭業と製薪業が盛んであり、天然広葉樹林がその原木として利用されたことに求められる。木炭の生産は大阪市場を対象に生産されたものであるが、薪材の生産は沿岸の漁村で煮干しの生産が盛んであり、その燃料としての需要にこたえるものであった。一方、鬼北盆地以東の内陸部に天然広葉樹が広く残存していたのは、この地方では、交通の未発達な明治・大正年間には林業は成立しえず、天然林がそのまま放置されていたことによる。
 昭和三〇年代になると、製炭業は燃料革命のあおりを受けて生産不振となり、製薪業も宇和海沿岸のいわし漁の不振のあおりを受けて衰退する。日吉村などの内陸の山地でも、第二次大戦後は天然広葉樹を原木とした製炭業が急激に発展するが、これまた昭和三〇年代に入ると急速に衰退する。ここに製炭・製薪の原木として利用されていた天然広葉樹林は人工林に更新されていく。昭和三五年の宇和島市・北宇和郡の人工林率が三七・六%であったものが、同五五年には五五・九%になったのは、この間の急速な人工林化を示すものである。
 人工林率を国有林・公有林・私有林の林野所有形態別にみると、国・公有林の人工林率が高く、私有林の人工林率が低いことがわかる。このことは、この地方の人工林化を主導したのが国・公有林であったことを意味する。私有林の人工林化をはばんだ要因は、民間における造林技術の遅れと資本不足に求められる。日吉村では、昭和五五年現在森林開発公団の分収造林が八四七ヘクタール(全林野の一〇・三%)もあるが、これは造林資本の不足に悩む地元住民が、人工林化を森林開発公団に依託したものといえる。
 この地方の人工林の樹種構成においては、すぎに比べて、ひのきが多いのが大きな特色である。ひのきの多い理由は、この地方にやせ地と乾燥した気候を好むひのきの適地が多かったことにもよるが、この地方の造林が全国的にひのきの造林が盛んになった時期に進展したという人工造林の時期と関連する点が大きいといえる。

 製炭業の発達

 宇和島市から南宇和郡にかけての山間地は、明治年間以降昭和四〇年代に製炭業が衰退するまで、愛媛県最大の製炭地域であった。南・北宇和郡の木炭生産量とそれが県内に占める比率を見ると、明治四四年には二六八万貫(県の四九・九%)、大正一〇年には二八四万貫(四三・六%)、昭和一〇年には二二四万貫(二〇・六%)、同三六年には二一二万貫(二四・四%)となっている。昭和年間にはいって肱川流域や上浮穴郡などの製炭業が発展して、県内における相対的地位は低下したが、明治末年以降昭和三六年ころまでは二〇〇~三〇〇万貫の安定した生産量を誇り、県内随一の製炭地域であった。
 この地方の木炭は、宇和島・岩松・深浦・宿毛などの港から海路大阪に出荷された。交通不便な時代に、この地域に製炭業が成立した一要因は、木炭の積出港である前記の港の背後五~一五㎞程度の山中に、国有林の木炭原木が豊富にあり、港までの木炭の搬出が容易であったことに求められる。

 製炭技術の特色

 この地域の製炭業の技術的な特色は、ざつ炭を主体とした劣悪炭の生産が多かったことからもわかるように、その技術が低位にあったことである。木炭はその種類によって分類すると、窯外消火によって生産する白炭と、窯内消火によって生産する黒炭に分けられる。さらにこれを樹種によって分けると、うばめがし・かし・くぬぎ・なら・ざつなどに細分することができる。この地方の木炭は明治・大正年間には白炭の生産が多かったが、昭和に入ってからは次第に黒炭の生産も増加する。樹種からみると、かし・ざつ炭が多く、くぬぎ炭はほとんど見られなかった。昭和九年の宇和島支所(北宇和郡以南)の炭種別木炭生産量をみると、かし一六・一%、くぬぎ五・二%、なら二二・一%、ざつ四八・〇%、くり〇・三%、まつ六・六%、うばめがし一・六%となっており、しい材を主体としたざつ炭の生産が圧倒的に多い。炭価の高いうばめがし・かし・くぬぎなどの木炭の生産比率が低く、炭価の安いざつ炭の生産比率が高いことは、木炭の原木がしいを主体とした天然林に依存し、その改良がほとんどほどこされなかったことよる。
 木炭原木に改良がほとんど施されなかったのは、この地方の林野所有形態とも関連する。この地方の林野所有形態は国・公有林が広いこと、私有林においては一部の山林地主に林野の集中が著しいことが特色である。製炭業に従事するものは、山林の所有規模が小さい下層農民や、まったく山林を所有しない移動製炭者などであり、その木炭原木を国有林や大山林地主の山林に依存した。製炭従事者と山林所有者が異なることは、製炭者による木炭原木の改良を不可能とし、しいを主体とした天然広葉樹に依存する製炭業からの脱却を困難にしたのである。

 製炭形態の特色

 この地方の製炭者の山林所有規模が小さいことは、製炭者の社会的地位を著しく低位なものにおしとどめ、この地方に前近代的な製炭形態を永らく温存させたといえる。製炭者をその原木調達形態から区分すると、自山に原木を依存する自営製炭者と、他山に原木を依存する買山製炭者に分けることができる。後者はさらに自己資本によって原木を調達し、商人に出荷強制を受けない独立した製炭者と、原木資金を商人から前借りし、木炭の出荷強制を受けるもの、さらには商人など企業的製炭者の購入した原木を賃焼きする焼子の製炭などに区分することができる。
 鬼ヶ城から篠山にかけての国有林地帯には、明治以降第二次大戦後まで焼子の製炭が多かった。焼子を支配するものは、木炭を大阪に出荷する宇和島・岩松・宿毛などの薪炭商であり、彼等は焼子から親方と呼ばれた。焼子はこれら薪炭商が払下げを受けた国有林に入山して製炭に従事した。山元で焼子を直接支配するものは、薪炭商につかえる山先であった。山先は払下げられた国有林を一人の製炭者が年間専業的に製炭できる程度に窯割りする。焼子は割り当てられた山のなかで原木を最も集材しやすい地点に炭窯を構築し、その横に木炭の貯蔵と休泊を兼ねた小屋をしつらえ、製炭業に従事する。木炭の焼賃(焼分)は炭一俵につきいくらと歩合で支払われたが、その支払いは盆と歳末の年二回であり、その焼賃も親方の恣意によって決定された。焼子のなかには、親方から日用雑貨品や食糧品を前借りしているものも多かったので、それらが清算されると、借金のみが翌年の山に繰り越される焼子もあった。
 焼子のなかで最も典型的なものは移動製炭に従事する焼子であった。彼等は山村の底辺を構成する住民であり、山林や耕地を所有しているものはほとんどなかった。彼等は製炭業を専業として、山から山へとさながらジプシーのごとく移動生活をくり返した。彼等は炭窯のそばの掘立小屋で妻子と共に不自由な生活をしいられた。食糧品から日用雑貨品まですべて親方に前借りしていたので、一つの山を焼きおえても借金のみが残り、また妻子をともなって次の山へと移動していくのが常であった。このような移動製炭者は、明治・大正年間には篠山山中などに多数存在していたというが、昭和三八年ころにも、津島町と高知県西土佐村の境界の大峠付近に数家族を散見することができた。

 明治・大正年間の滑床国有林の開発

 予土境域にそびえる鬼ヶ城山から篠山にかけては国有林が広く分布しているが、この国有林地帯は南予の林業の発祥地であったといえる。国有林は宇和島藩と吉田藩の藩有林が引き継がれたものであるが、宇和島市街地から展望できる若山や藤治駄場山には、藩政時代に植林された美事なすぎの人工林があった。藤治駄場山の人工林は大正年間に伐採されたが、若山には藩造林展示林として今日も保存されている。滑床山のもみ・つがなどの天然林の伐採は藩政時代からすでに始まっていたが、明治二九年その下手の目黒山で営林署の手によって、官行柝伐事業が開始されている。これは四国地方の国有林の伐採事業の嚆矢をなすものである。滑床山でも明治年間に天然林の伐採後順次すぎの造林がすすめられていった。
 滑床から宇和島への通路は、その最短コースをとって梅ヶ成峠(標高九八〇m)を経由するものであった。このコースに馬道が開通しだのは天保一一年(一八四〇)であったが、この道は営林署によって明治二三年(一八九〇)から二五年の間に改修された。その輸送路にインクラインが開通し、トロッコで木材が宇和島市街地まで搬出されるようになったのは、大正一三年(一九二四)であった(図5―10)。それまで駄馬や担夫による杣角や板材の搬出が、トロッコによって大量に搬出されるようになったわけであり、これは画期的な出来事であった。インクラインの動力は滑床の千畳敷付近に設置された三〇〇〇ボルトの水力発電であった。トロッコに満載された木材は高月山と梅ヶ成峠を結ぶ稜線の鞍部にまでインクラインで巻き上げられ、そこから軌道によって梅ヶ成峠に搬出され、梅ヶ成峠の下からは、トロッコに満載された木材が鉄索によって標高約四〇〇mの若山まで下された。そこからはまた軌道を通り、さらに手動式のインクラインを下り、野川の貯木場に木材は集積された。
 滑床山の木材は、大正一二年(一九二三)までは宇和島の四軒の木材問屋に払下げられ、彼等の手によって立木の伐採・搬出がなされた。これらの木材問屋は杣夫・木挽・運材夫などを大量に雇用していた。杣夫は立木の伐採・玉伐り・杣角(はつりによって生産した角材)の生産などに従事し、運材夫は玉伐りされた木材を修羅で谷間に落したり、木馬やトロッコで土場まで集材したりした。また木挽きは玉伐りされた木材を荒挽きし、一寸から一寸五分の板材にした。
 これらの山林労務者は、土佐の安芸郡・高岡郡・幡多郡などの者が多く、地元出身の者はほとんどいなかった。彼等は山中に長屋式の山小屋を造り、そこで起居を共にした。杣夫は運材夫や木挽きよりは格式が高かったので、杣小屋に住み、運材夫と木挽きは別に日雇小屋に住んでいた。小屋は又木に丸太をくくりつけた簡単なものであり、屋根や壁には杉皮やつがの皮などがはられていた。小屋の中には通路があり、その両側に簡単な板の仕切りをしたむしろ敷きの二畳敷程度の部屋が並んでいた。妻帯者も多くいたが、彼等には多少大きな部屋が与えられたという。山中で生活する彼等に食料や日用雑貨品を供給するものは宇和島の商人であり、その経営する供給店が杣小屋近くにあった。
 用材を伐採した後の下木は、宇和島などの炭問屋に払下げられ、彼等の雇用した焼子が原木の集材に都合のよい地点に炭窯を築き、そこで製炭した。焼子の多くは家族づれであり、炭窯のそばには起居を共にする粗末な小屋がしつらえられていた。木材や木炭の搬出に従事する者は、木材問屋や炭問屋が雇用する駄賃持ちであり、宇和島市近郊の川内や野川、鬼北盆地の毛田川の住民などがこれに従事する者が多かった。
 大正二一年(一九二三)以降、滑床国有林の伐採・搬出は営林署の直営事業となる。従来木材問屋の雇用していた杣夫・運材夫などは営林署が雇用し、請負によって木材の伐採・搬出に従事させた。前記のインクラインや鉄索による木材の搬出に従事するのは運材夫であった。大正一三年(一九二四)以降は輸送条件が改善されたので、従来、杣角や板にして搬出されていた木材の多くは丸太のままで宇和島に搬出されるようになった。
 明治・大正年間の滑床国有林には、もみ・つがなどの天然林がうっそうと繁茂していた。他に、けやき・みずめざくら・かや・くわなどが繁茂し、鬼ヶ城山や八面山の山頂付近には、ぶなの天然林もあった。もみは天井板に利用され、宇和島地方では天井板はもみと相場が含まっていた。つがは割柱に利用され、けやきは寺院の建材や造船材に利用された。かやは碁盤や将棋盤材として珍重され、くわは楽器や茶器に加工された。みずめざくらは敷居や框などの建築材あるいは、紡績工場の木管に需要が多かった。これらの木材の大半は宇和島港から船によって大阪市場に輸送されていった。

 国有林経営の現況

 現在の国有林は三種類の林地に区分して管理されている。第一種林地は保安林・自然公園・鳥獣保護区・レクリエーションの森などに指定された林地で、施業が厳しく制限されている。第二種林地は施業に特別の制限が加えられない林地で、国有林の林業活動の主要舞台となっている。第三種林地は地元住民の福祉向上のために設けられた林地であって、部分林が設定されている林地である。
 昭和三五年の宇和島営林署管内の林地は九〇九四ヘクタールに達するが、このうち第一種林地は六一〇ヘクタール(六・七%)、第二種林地は八四七〇ヘクタール(九三・一%)、第三種林地は一四ヘクタール(〇・二%)となっていた。これに対して昭和五五年には、林地面積八八〇二ヘクタールのうち、第一種林地三五四二ヘクタール(四〇・二%)、第二種林地五一五四ヘクタール(五八・六%)、第三種林地一〇六ヘクタール(一・二%)となり、第一種林地が著しく増加した。それは国有林地帯のなかに、滑床渓谷・成川渓谷・篠山山地・横吹渓谷などの景勝地があり、そこが国立公園や自然休養林に指定されていることによる(図5―11)。
 宇和島営林署が自然保護に力を入れだしたのは、大正一五年から昭和四年の間に宇和島営林署長に就任した長友緑の時代以降であるといわれるが、今日は国の自然公園法のもとで、その自然景観の保存がきびしく監視されている。宇和島営林署管内の林野は、現在自然景観を保存し、国民にレクリエーションの場を提供するという面で、きわめて高い公益的機能をはたしている。
 宇和島営林署管内の林野は、現在、宇和島・滑床・広見・目黒・岩淵・御内・上槇・宇和の八担当地区に分かれて管理運営されている。各担当区には担当主任がいて、地元の住民を年間雇用の基幹作業員として雇用し、造林・保育の作業に従事している。基幹作業員の数は昭和五九年度現在、滑床・目黒合わせて五人、岩淵四人、御内七人、上槇四人にすぎない。他は臨時作業員を雇用して作業を行なっているが、現在作業量の八五%は基幹作業員によってまかなわれている。一方、製品製造の事業所としては目黒と津島の両事業所があり、前者に一〇人、後者に一一人の基幹作業員が雇用され、木材の伐採や搬出の業務に従事している。
 宇和島営林署管内の事業量は、木材の伐採量・素材生産量ともに、近年著しく減少している(表5―13)。これは外材の輸入の増加にともなう国産材生産の不振というわが国林業界の姿を反映するものではあるが、一方では、施業にきびしい制約のある第一種林地が増加したことによる点が大きい。事業量の減少と、伐採・搬出作業における機械化の進展は、雇用作業員の数を著しく減少させている。昭和三九年に雇用作業員の延人数が八万三八五九人あったものが、同五五年にはその一五%の一万二三二八人にも減少している。営林署の林業労務者の雇用力の低下は奥地山村の過疎をひきおこす一因となったが、また反対に過疎の進行が営林署の労働力確保を困難にしたという面もあった。営林署の労務者の雇用形態が、昭和五三年までの日給の出来高制を主体とした雇用形態から月給制の基幹作業員となったのは、一つには、安定した労働力の確保の必要性がしからしめたものであった。

 津島町畑地地区の財産区有林の経営

 公有林面積の比率の高い北宇和郡のなかでも、津島町はその比率の最も高い町村である。林野面積一万八九一四ヘクタールのうち、旧部落有林に起源する財産区有林は一九一四ヘクタールにも達する。財産区有林は旧畑地村・旧御槇村・旧清満村の山間部にある三地区に多い。財産区有林の経営は、清満財産区のように県行造林になっている地区、御槇財産区のように直営林の多い地区、畑地財産区のように分収林や貸付地の多い地区など、財産区によってその経営は異なるが、地元集落の慣行的な入会権や用益権が多分に温存されている。
 畑地財産区有林は、三地区のなかで旧来の用益権が最もよく温存されている地区である。この財産区有林は、藩政時代の入会採草地が明治六年(一八七三)の官民有区分によって部落有林となり、明治二三年の町村制施行後二三年をへた大正二年(一九一三)畑地村有林となり、昭和三〇年畑地村など六か村が合併して津島町が成立するに際して、財産区有林となったものである。明治年間の部落有林は、藩政時代同様入会採草地であったが、谷底平野に水田の展開するこの地方では、水田に投入する採草地の必要性が大きく、林野の大部分は部落有の入会採草地となっていた。この部落有林は明治末年以降、旧来の部落意識を温存するものとして整理統一の対象となる。この間に多くの部落有林は地元住民に分割され私有林となり、残余が大正二年(一九一三)畑地村の村有林となったのである。この村有林のなかにも旧来の慣行が温存されていたが、昭和三〇年新しい津島町が成立するに際して、財産管理区有林としたのは、地元住民の権利を保留するためであった。
 昭和五八年現在、畑地財産管理区有林の面積は一〇三一ヘクタールであるが、その経営形態は直営林・営林地・貸付地・学校林の四つに区分される(表5―14)。直営林は財産管理会が直接経営する山林である。植林・保育は財産管理会が地元住民を雇用して行ない、収益は財産管理区に帰することになっている。一三ヘクタールの山林にはすべて植林が施されているが、昭和三〇年に財産管理会が結成されたときに新しく誕生した経営方式であるので、いまだ収穫はあがっていない。収益は畑地地区の公的支出に投資することを原則としているが、収益の二〇%は直営林の所在する四集落―大平・佐新田・上槇・保場川に還元することにしており、ここに旧来の慣行が温存されている姿を見ることができる。
 営林地は管理会と保護部落の分収林、県行造林に二分される。このうち前者は管理会と保護部落が共同で植林・保育をし、収益を分収するものである。植林・保育・伐出などの経費の負担と分収率は、管理会四〇%、保護部落六○%となっている。現在五〇%の山林が植林されている。従来、植林・保育などの労力は保護部落の出歩によってまかなわれていたが、昭和四五年ころからは、林業労務者を雇用して行なっている。保護部落とは旧来の部落有林を所有していた集落であり、おおむね財産管理区有林の所在する集落である。この経営形態は畑地村有林の時代から存在していたものであり、保護部落の権利が手厚く保護されている点に旧来の慣行の残存を見ることができる。県行造林地は昭和一二年以降行なわれている。これは植林・保育・伐出などの諸経費は県が負担し、収益を県六〇%と管理会四〇%に分収するものである。管理会の分収金のうち、半分は地元部落に還元されることになっている。
 貸付地は旧来の部落有林を所有していた集落に、五〇年の年限で無償貸与されている林野である。年限は継続を前提としているので、無期限の貸与といってもよい。旧来の部落有林が形を変えて保存されている姿であるといえる。貸付地を貸与されている集落は、上畑地、於泥・内田、保場川・鴨田、佐新田、上槇の五集落である。このうち上畑地、於泥・内田、上槇の三集落には、これら集落と県の間に分収契約によって、県行造林がなされている林野がある。収益の分収は県六〇%と地元四〇%である。県行造林以外の林野は各集落によって経営がなされているが、それらの林野の多くは天然広葉樹林として放置されているものが多い。
 貸付地は畑地村有林の時代には、村有林経営の主体となっていた。貸付地を受けるのは上畑地部落の九集落―上組・西組・東組・三島・大門・小祝・大平・横山・北組―と、下畑地部落の四集落―於泥・内田、保場川・鴨田、佐新田、上槇―であった。これらの貸付地は旧来の入会採草地であり、大正年間には肥草山として地元の集落によって利用されていた。その利用状況は、共同の入会採草地として利用されていたもの、用益権が分割され個人で利用されていたものなど、集落によって差異があった。個人に用益権が分割されていた集落では、古株(土着の家)と新株(分家・転入戸)で、その面積が異なっていたが、古株のなかでは「五反割」などと称して、均等に分割されていた。
 学校林は畑地小学校に五〇年の年限で貸付けられている林野である。植林・保育・伐出は学童をもつ父兄が行ない、収益は学校の費用として使用されることになっている。
 津島町など南予の農山漁村は、共同体的な色彩が濃厚なことが社会的特色となっているが、それを支える一つの物的基盤が共有林であった。畑地財産管理会は新しい時代に対応した山林管理の組織であるが、その経営形態をつぶさに検討すると、旧来の部落有林の時代の入会慣行が形態を変えて色濃く温存されている姿を見ることができる。そしてこれらの林野の管理・経営を通じて集落の共同体的な性格が維持されていることがわかるのである。

























表5-11 宇和島市・北宇和郡の林野所有区分別面積

表5-11 宇和島市・北宇和郡の林野所有区分別面積


表5-12 宇和島市・北宇和郡の樹種別面積

表5-12 宇和島市・北宇和郡の樹種別面積


図5-10 大正末年から昭和初期の滑床国有林の木材輸送路

図5-10 大正末年から昭和初期の滑床国有林の木材輸送路


図5-11 鬼ヶ城山系の国有林の林相と自然公園

図5-11 鬼ヶ城山系の国有林の林相と自然公園


表5-13 宇和島営林署管内の事業量の推移

表5-13 宇和島営林署管内の事業量の推移


表5-14 津島町畑地財産区有林の面積

表5-14 津島町畑地財産区有林の面積