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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 宇和島市の造船業


 工業の現況

 宇和島市は伊達一〇万石の城下町として栄え、安政六年(一八五九)に蒸気船が建造されるなど古くから造船業が発達し、又製ろう業が発達するなど文化的工業都市の側面をもって発達してきた。工業ではその後製糸業が盛んになり、明治二二年(一八八九)には手動から脱皮して原動力を利用した製糸法が導入され、昭和一〇年ころには全市の工業の七〇%程度を占めるに至った。しかし製糸業も太平洋戦争と戦後の化学繊維の発達で衰退し、今では全く面影を残していない。つまり戦時下で宇和島市の工業は繊維から鉄工、製材、造船へ移行していった。
 表5―40からみて戦後宇和島の工業が立ち直りはじめたのは二五年ころからであるが、本格的に伸びるのは四〇年代に入ってからである。表5―41からその現況をみると、事業所数と従業員数では食料品工業が第一位であり、製造品出荷額では輸送機械(造船)が第一位を占めている。輸送機械が一位を占めるようになったのは四〇年代後半からで、出荷額が五〇〇億円を超えたが、大資本が存在するのではなく、地域性に立脚した工業が現在も中心である。本市の工業の核をなす食料品工業は水産練り製品を中心に別項で分析されるので、本項では輸送機械の中心をなす造船業について述べる。

 造船業の発展と構造

 南予の造船所の分布は表5―42の通りであるが、八幡浜と宇和島の二地区に分けられる。宇和島地区の造船所は、現在、(株)宇和島造船所と三好造船(株)の二社が中心である。二社は共に第二次大戦中(宇和島造船所は一八年、三好造船は一七年)に創業したもので、戦時中、市内の三和船舶と三社で合併し、政府の計画造船による二五〇トン級木造船の建造にあたっていた。二一年、計画造船の中止と共に現在の二社に分離独立し漁船建造を中心にしていたが、三〇年代初期から本格的に鋼船建造に進出した。しかし経営基盤の弱体などで経営が行き詰まり、宇和島造船所は三六年に(株)来島どっくに経営が引継がれ、三好造船も同様に五五年に八幡浜の栗之浦ドックと関連四社の資本支配下に入った。現在、両社共受注、原材料の購入などを親会社に依存しており、下請生産工場としての性格が強い。建造能力は、宇和島造船所は最大一万三五〇〇総卜ン、三好造船は五〇〇〇総トンであるが、宇和島造船所は九〇〇〇トン~一万トン級のタンカー、冷凍船などを年間六~八隻集中的に生産し、年間売上高は一七〇~一八〇億円程度といわれている。一方三好造船は二〇〇〇~三〇〇〇総トン級の貨物船、タンカーを中心に、年間三、四隻、二五~三〇億円程度の生産をあげている。五三年の造船業の生産額は一四六億円で宇和島市の製造業における比率は三五・九%と大きいが、これが五七年には四〇・三%とさらに大きくなっている。
 次にその投入構造をみると、中間投入率は六〇・八%で原動機、ボイラー、鉄鋼のウェイトが高い。移輸出率(七四・一%)、移輸入率(六八・三%)と共に高い。移輸出額は松山圏が最も多く、県外、今治圏がこれに続いている。主要な中間投入である原動機、ボイラー、鉄鋼のほとんどが宇和島外からの移輸入に依存しているために生産誘発効果が小さく、地元の他産業との相互依存関係も大きくない。言いかえれば、機械中心に木工、塗装、電装など下請け関連工業の未発達である。下請け企業は両社共ブロック組立を中心に宇和島造船所は構内下請けが約二〇社、二五〇名、社外下請けは四社あるが、市内がほとんどで、宇和島以外では三間町などにも分布する。更に冷凍船の場合の特殊な冷凍施設などの技術は、スポットとして建造に参加する場合もある。三好造船にも本社工、六〇名以外に八社、六五~七〇名の下請があるが、この内、約半数は親会社である栗之浦ドックの下請会社でもある。
 以上の現況の中で製造業の中に占める比率は高いが、近年従業者数が大きく減少している。五二年の従業者七八五名二九・八%)が五七年には四六八名(一二・七%)に減少している。下請の未発達の上、アジア中進国との競争が激化する中で、合理化により雇用面でも今後これ以上の発展は望めない。今後付加価値の高い船をつくって生き残るための造船所を目ざさなければならない。

 その他の工業

 出荷額からみると輸送機械に次いで食料品工業が多い。別項で述べられる水産練り製品以外では北宇和島にある宇和島罐詰(従業員一六〇名)が注目される。戦後の創業であるが、明治製菓と資本提携し、地元原料を用いた各種罐詰、びん詰めを生産している。
 次に衣服・縫製関係が多い。比較的大きいものは、大阪や岡山(倉敷市)からの進出が多く、地元資本は少ない。その中に多くの内職者集団を構成するため分散立地する。大手の電機メーカー系列の下請工場が不振になり撤退したが、約一〇〇名の従業員は八幡浜から進出した四国ソーイング系の四国アパレルに再雇用され、再出発した。その他宇和島市の周辺部では、津島町の津島ダイキ(FRP船、浄化槽)、城辺町の共進電器と武久通商(共に松下寿電子工業の下請)、御荘町と一本松村に進出した鎌田利(香川県白鳥からで各種スポーツ用手袋)などが特色あるものとして注目される。いずれも女子労働力に依存した労働集約型農村工業が多い。






表5-40 宇和島市の戦後の工業(事業所、従業者、製造品出荷額)

表5-40 宇和島市の戦後の工業(事業所、従業者、製造品出荷額)


表5-41 宇和島市工業の現況

表5-41 宇和島市工業の現況


表5-42 愛媛県造船工場の現況

表5-42 愛媛県造船工場の現況