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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 南予の鉄道建設


 宇和島鉄道

 宇和島地方に初めて鉄道敷設運動が起こったのは明治二〇年(一八八七)代であった。その草分けをなしたものは三間村の岡本景光、日吉村の井谷正命、好藤村の今西幹一郎などであった。最初、運動の目的は四国循環鉄道の開通にあったが、とても実現不可能と知って、まず宇和島―近永間の鉄道促進に全力をつくすことになった。それは明治三五年(一九〇二)ころで、この運動の中心人物は今西幹一郎・玉井安蔵・渡辺雅太郎・石崎忠八・河野虎尾などであった。彼らは中央財界の大御所ともいうべき根津嘉一郎・井上角五郎・大橋新太郎などを口説き、初めて明治四四年(一九一一)資本金四〇万円の宇和島軽便鉄道を創立した。当時の重役陣の顔ぶれは社長井上角五郎、副社長今西幹一郎、取締役井上要・玉井安蔵・石崎忠八・小西荘三郎などであった。会社創立以来三年一〇か月の歳月を費やして大正三年(一九一四)一〇月に宇和島―近永間の鉄道が開通した。これが南予地方における軽便鉄道の始まりで、宇和島駅は和霊神社の北東、国道五六号を宇和島市内から北に出、須賀川を渡って突き当たる山すそ付近にあった。これは、将来線路を宇和島港にまで延ばし、臨港鉄道として海陸の貨物輸送をより強力にしようという計画によるためだった。その後、宇和島駅付近に紡績会社が進出する計画があった。このため、線路を南へ延長、須賀川を渡り現在の位置付近に移転した。田圃の中で乗客が呼び止めると汽車は途中で停車してくれたという逸話を生んだのもこの時代である。なお、明治四四年に鉄道敷設の免許を受けた時には宇和島軽便鉄道と称していたが、大正元年(一九一二)に「軽便」を社名からはずしている。
 開業当時の車両は機関車三両、客車五両、貨車一五両だった。宇和島駅から今の国道五六号線に沿って北上、光満川を渡ると高串駅、続いて光満・務田・宮野下・中野・大内・深田の各駅があり、近永で終点となっていた。始発は近永発の上りが午前五時九分、宇和島発の下りが同四時五五分で、中間の宮野下駅ですれ違い、上りが一時間三二分、三間盆地への上り坂となる下りが一時間三七分で運転していた。午後一〇時過ぎまで一日九往復で、料金は宇和島―近永間が二七銭だった。
 大正九年(一九二〇)八月、さらに近永―吉野(現吉野生)間の延長免許を得て、同一二年一二月に開業した。途中、出目・松丸の二駅を設置した。このころ井上・今西といった重役陣が去って、後を継いだのが堀部彦次郎であった。彼は一方で宇和島運輸を経営して腕をふるいながら、この宇和島鉄道でも業績をあげて宇和島鉄道の黄金時代を築いたものである。しかし、いつまでも私鉄の利得に甘んじていたのでは地方の発展はのぞめない。国鉄を誘致し、四国循環鉄道を促進して大局的発展をはからなければ立ち遅れるばかりだと、堀部社長亡きあと、自ら宇和島鉄道の社長となり、宇和島鉄道の国鉄買収を政府に働きかけ、ついに昭和八年(一九三三)八月八八万円で実現させたのが、宇和島地方の育成の慈父といわれた山村豊次郎であった。彼は初代および三代の宇和島市長を務めた人物であった。
 国有後も七六二㎜軌間のまま宇和島線(宇和島-吉野生間二五・六㎞)として営業を続けたが、昭和一六年七月二日に一〇六七㎜軌間に改築を完了し、かつ宇和島から北上して卯之町にいたる新線(二〇・二㎞)を同じ宇和島線の名称で同日付で開業した。

 予讃本線の西進

 県下に私鉄の営業が相次ぎ、しかしそれらが好成績をおさめる中で、県内への国有鉄道の敷設は大幅におくれた。国鉄の敷設が進まなかった理由としては、次のような点が考えられる。これは同時に南予への国鉄の敷設の遅れの理由とも一致する。その第一は、地形上の問題があげられる。県内の地形は複雑で、山地が約四分の三を占めている。このような山がちな地形は鉄道敷設工事に際して多大の困難を伴うこととなった。第二に、全国でも四番目に長い海岸線を持つ沿岸地方では、明治時代から比較的よく海運が発達していたことである。前述のような地形的な条件から人々の生活舞台は、狭小な海岸部の平野や山間の小盆地に孤立しがちであったが、不自由な相互の交通・連絡のためには八幡浜・宇和島を中心として沿岸航路による海上輸送が早くから利用されていた。第三には、明治~大正期の国家体制の中で四国は国土防衛の見地よりみて、さほど重要地域と考えられていなかったことである。鉄道が軍事上きわめて重要視されていた当時にあって、このことも県下への鉄道敷設をおくらせることとなった要因の一つであろう。
 明治四四年(一九一一)、多度津―松山間の鉄道敷設に関する建議案が帝国議会で可決され、鉄道院多度津建設事務所の手によって多度津以西への工事が始められた。その結果、川之江まで開業したのは大正五年(一九一六)である。大正一〇年(一九二一)に西条まで、昭和二年に至ってようやく県都松山までの開業が実現した。当時、県庁所在都市で国鉄の通じていなかったのは沖繩を除けば松山のみであったといわれている。
 前述のように、このころすでに南予では肱川に沿って喜多郡を走る愛媛鉄道と、宇和島と鬼北盆地を結んだ宇和島鉄道があり、それぞれの地方の発展に貢献していた(表5―45)。しかし、それにも限度があった。元来、鉄道というものは、長距離を走ってはじめて威力を発揮する、その点、南予の両私鉄が走っていた距離はあまりにも短い。運ぶ乗客の数も、貨物の量も限られていた。両者の経営者たちは、松山、長浜、大洲、宇和島、さらに高知へと結ばれなければ南予の鉄道建設が完結しないことを知っていた。だが、小さな資本ではどうしようもなかった。
 一方、昭和二年に松山まで通じた国鉄は、その後今西へ延び続けた。同五年二月松山―南郡中(現伊予市)間を開業、同七年一二月南郡中―上灘間を開業。いよいよ同八年愛媛鉄道と宇和島鉄道が国鉄に買収されることになった。明治期から「南予に鉄道を」と努力してきた先人たちの苦労が、やっと報われることになった。二つの軽便鉄道が幅の広い国鉄線に生まれ変わり、やがて高松にまで直結しようというのだ。同一〇年六月開業の上灘―下灘間、同年一〇月開業の下灘―長浜間に、八年一〇月買収の愛媛鉄道の長浜―大洲間一五・八㎞を加えてついに大洲まで到達した。大洲以南については、大正後期から昭和初期にかけて、一〇三号線(郡中―中山―内子―坂石―日吉―近永)、一〇四号線(郡中―長浜―大洲―八幡浜―三瓶―卯之町―吉田―宇和島)の意見が対立し、当時の政党間の対立ともからんで政治家や関係者の間に論議をまきおこした。このように路線を政争の具にして路線決定がおくれたことも南予に鉄道伸展の遅かった理由の一つであろう。時の政友会は一〇三号線を、民政党は一〇四号線をそれぞれ主張した。内閣の変わるたびに一喜一憂し陳情団が上京したといわれる。結局は海岸回りの一〇四号線の勝利に帰し、一〇三号線は国鉄バスの開通で落ち着いた。なお、昭和八年八月に国鉄に買収された宇和島鉄道は、国有後も狭軌間のまま宇和島線として一六年八月まで営業を続けた。そして、一六年七月の宇和島―卯之町間二〇・二㎞の開業に合わせて旧宇和島鉄道の宇和島―吉野生間二五・六㎞は一〇六七㎜軌間となった。この両線を合わせた四五・八㎞を宇和島線と呼んでいた。
 いよいよ最後に残された八幡浜―卯之町間一四・六㎞については、一七年から敷設工事が始められたが、第二次大戦下にあって工事は進展しなかった。しかし、本土決戦を決意していた軍部が豊後水道沿岸の防衛力増強という要請をしたため、二〇年六月に至って、東・西・北宇和郡や宇和島市などの地元の勤労奉仕隊員五万人が動員されて急きょ開通した。この時の最大の悩みは物資不足時代のレールの確保であった。そのため伊予鉄道の松山―高浜間の複線を単線として、そのレールの供出方を当時の知事のあっせんを得て会社に懇請し、これを実現することができたのである。
 ここに予讃本線は高松―宇和島間二九七・五㎞は全通したが、県の東端川之江に列車が入ってから約三〇年の歳月を要してようやく宇和島まで到達したことになる。
 戦後の動きは表5―45にみられるように、準急→急行→特急の出現にみられるスピードアップと宇和島線の延長による予土線の開通(宇和島―窪川間八二・一㎞)、国鉄の合理化による無人駅化と貨物取扱いの廃止、および内山線(向井原―五十崎間二五・五㎞)の建設推進などに特色がみられる。

 運行の近代化と営業係数の悪化

 鉄道の近代化への主な努力は高速化と無煙化であった。画期的だったのは、昭和三三年に高松―松山間の準急「やしま」の登場であった。それまで石炭による蒸気機関車であったのに対し、「やしま」はディーゼル機関による四国で最初の気動車準急であった。この気動車による無煙化は急速に進行し、三三年に内子線が気動車化され、三五年には宇和島線(現予土線)に気動車準急が運行されて、四〇年までにはほぼ完全な無煙化の達成をみた。
 経済の高度成長にともなう自動車化の影響を最も強く受けたのが国鉄である。県内の移動旅客数のうち、国鉄のシェアは四〇年の一五・九%から五五年にはわずか四・一%へと減少した。県内における国鉄の衰退を、輸送人員、取扱貨物量の推移からみると、昭和三〇年代には予讃線・予土線・内子線とも順調に輸送人員をのばしてきたが、各線とも四〇年を境に急激に減少し、五六年には最高を記録した四〇年のそれぞれ五三%、二四%、二九%にまで減少し、内子線にいたっては、五六年の一日当たりの輸送人員はわずか五一三人にまで減少した。このような急激な輸送人員の減少のうちで、とくに定期客の減少が目立っている。このことは、国鉄が短距離の通勤・通学手段としての機能を失いつつあること示している。
 輸送人員の急激な減少は、当然のように営業係数の悪化となって表れる。営業係数とは、一〇〇円の収入を得るのにどれだけの費用が必要かを示す係数である。これによると、輸送人員が最高を記録した四〇年において、すでに各線とも営業係数が一〇〇を超えて赤字であったが、それ以降さらに状態は悪くなって、五五年には予讃線は二三一、予土線は六一一、内子線に至っては一三四四と大幅な赤字である。五〇年から五五年にかけて各路線とも営業係数は多少改善されたが、これは数次におよぶ運賃の値上げと貨物取扱駅を減少させたことによる。しかし、このことはますます国鉄離れを助長させる恐れがあり、建設途上の内山線をも含めて予土線・内子線はその存続すら危ぶまれている。なお、五八年一月で松山以南での貨物取り扱い駅は皆無となった。











表5-45 南予地方の鉄道建設の歩み

表5-45 南予地方の鉄道建設の歩み