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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 港湾


 宇和島港の生成と発展の過程

 宇和島港は四国の南西部、豊予海峡をのぞむ位置にあり、天然の良港として知られてきた。港口には唯波鼻があり、また、中央には周囲約一〇㎞の九島が横たわっており、自然の防波堤を形成している。古来、南予地域の産業、経済、文化などの進歩発展は宇和島の港から導入された。陸上交通に恵まれないこの地方にとっては港の果たす役割は大きいものがあった。
 宇和島港の生成については、元和元年(一六一五)に初代宇和島藩主伊達秀宗により、現在の樺崎に台場を築造したのが始まりであるとされている。その後藩政時代には特にとりあげるべきものはないが、安政六年(一八五九)には宇和島藩か西洋型蒸気船を建造し、慶応二年(一八六六)にはイギリス軍艦の入港が記録されるなど、港に対する関心は非常に高かった。
 宇和島港の改修工事は明治後期になってからである。明治に入り旧藩時代の城濠は一部を残して内港の一部となっていたが、須賀川・辰野川・神田川・来村川が運搬する土砂の堆積により、次第に港内を浅くしており、干潮時には舟の出入さえも不自由になっていた。宇和島町(中原渉町長)の要望に対して、県は明治四二年(一九〇九)から宇和島港改修工事を行なった。事業の中心は旧外濠の一部である内港を浚渫し、これによって得た土砂で栄町及び港町の地先及び丸之内地先のお浜外濠付近の埋め立てを行なうものであった。桝形町はこれによってできたものである。この工事は明治四三年(一九一〇)に竣工した。これにより内港での船舶の航行は自由となり、出入船舶数も増加し、経済界の振興にも貢献した。
 大正期に入ると、土砂堆積により再び機能の低下が著しくなった。このため大正一一年(一九二二)から三年四か月を費やし、内港浚渫及び泉屋新田の埋め立てを行なった。これによって二万一〇一七坪の土地を得たが、これが後に朝日町・弁天町・寿町一帯の市街地となった。内港浚渫と併行して朝日運河の築造工事(大正一〇年起工)が行なわれた。この工事は、市の西北部にある低湿地帯を開削し、外界に通ずる運河を築造するものであった。運河の規模は幅五五m、延長二四〇m、水深一・五mであり、築地入口から朝日町に入り込む運河として、各種貨物の荷役を便利にしたばかりか、避難場所としても利用されてきた。
 明治~大正期の港湾改修は浚渫が中心であったが、昭和期になると根本的な改修が強く要望されるようになった。昭和三年には「宇和島港港湾改修促進会」が結成され、その動きに拍車をかけた。市では根本的な港湾改修には須賀川の付け替えが前提であるとして、同四年から用地買収を行ない同五年に付け替え工事を起工した。この工事は同七年一〇月に竣工し(図5―23)、廃河川敷は道路及び宅地として埋め立てられた。八年から港湾改修第一期工事である新内港修築工事が始まった。旧須賀川地先水際を幅一八mにわたって埋め立て、岸壁水深を干潮面以下三mとし、またその前面に浮桟橋を設置するなど多くの面から新内港の改修を行なった。七か年を費やし昭和一四年に竣工したが、これと併行して旧須賀川裾から朝日町南側の地先一帯を浚渫し岸壁を築造するとともに、浚渫土砂で泉屋新田及び日振新田の埋め立ても完成させた。同二八年から第二期工事に着手したが、これは固定桟橋の増築や陸上施設の充実に重点をおいたもので、同一九年に竣工した。港湾施設がほぼでき上がった時に太平洋戦争は激しさを増し、同二〇年七月一三日の空襲により市街地の大半とともに港湾施設も焼失してしまった。
 戦後、第一期整備事業が昭和二三年~三三年、第二期整備事業が同四〇年~五〇年に施行された。第一期整備事業は二三年~二四年に新内港を浚渫し、その土砂で旧内港六九三〇㎡を埋め立てた。これにより旧内港は姿を消し、城山をめぐらした濠もなくなった。二五年には新内港及び築地泊地を浚渫し、また別府航路ふ頭を従来の樺崎から築地に移し、港務所、待合所、浮桟橋も新設した。二六年~三〇年にかけて明倫町物揚場、築地物揚場を築造するとともに、明倫町泊地および朝日運河の浚渫も行なった。
 昭和三五年に「重要港湾」となった宇和島港は、同三六年から護岸、物揚場、桟橋の築造や浚渫など基本的な改修工事に着手した。同四〇年から第二期整備事業に入り、坂下津岸壁(マイナス五・五m)や築地フェリー桟橋の築造を行なった。これにより、フェリー接岸施設として固定桟橋と可動橋が完成し、一〇〇〇トン級の船舶が二隻繋船することも可能となった。昭和四六年には関税法による開港に指定されるとともに植物防疫法による港湾指定も受けた。また、同五二年には出入国管理令による出入国港にも指定された。ゆとりと美しさにあふれた港湾づくりを基本として既存機能を強化するとともに流通の中心的機能を有する港湾となるよう整備が進められている。

 入港船舶及び内外貿易

 入港船舶数は昭和二〇年の一万五一四九隻(二七万四〇七九トン)から増加し、同三〇年には二万一〇六〇隻となり、総トン数は一〇〇万トンを超え、四〇年には三万六二九四隻(二〇三万三六五四トン)に達した(表5―46)。その後は船舶の大型化の影響もあり、入港船舶数は減少しており、同五八年には一万三三八二隻となったが、総トン数は一七〇万~一八〇万トンで推移している。
 昭和五五年の輸出品目はすべて韓国向けの水産品(一一〇二トン)であり、輸入は砂糖(フィリッピンとタイ)が六七%、原木(ニュージランドとマレーシア)が二二%、水産品(韓国とソ連)が一一%となっている。移出は木材関係が全体の六〇%を占め、次いで金属くずが多い。自航(自動車航送)による移出はすべて輸送機械である。移入は砂利・砂・石材などが三七%を占め、次いで石油製品、セメント、動植物製造飼肥料となっている。移入の場合も自航によるものはすべて輸送機械である。

 乗降人員

 宇和島港に発着する航路は昭和三三年には宇和島―別府航路など一三航路であったが、同四六年には一〇航路となり、同五七年には七航路に減少している(いずれも季節航路を含める)。戦後、増加し続けてきた船舶乗降人員は昭和四〇年には一二二万人となった。しかし、道路をはじめ陸上交通網が整備されるに伴い、乗降人員は減少しており、同五五年には六五万人でピーク時の二分の一になった。昭和五七年現在、最も利用人員の多い航路は宇和島―九島航路であり、宇和島港の年間乗降人員(六一万一八〇一人)の六七%を占め、次いで宇和島―日振航路が一五%を占めている。

 港湾施設

 泊地及び船だまりには坂下津・新内港・弁天・築地・大浦第一・大浦第二泊地があり水面積は合計二八万九三九七㎡である。けい留施設にはマイナス四・〇m岸壁一バース、マイナス四・五m岸壁四バース、マイナス五・五m岸壁四バース、桟橋ニバース、浮桟橋二バースであり、合計一三バースを保有しており、これ以外に小型船けい船岸もある。陸上施設には上屋(市営)二か所、待合所二か所、貯木場二か所のほか倉庫、野積場も整備されている。









図5-23 明治以後の港湾改修と城濠の埋立

図5-23 明治以後の港湾改修と城濠の埋立


表5-46 宇和島港統計表

表5-46 宇和島港統計表