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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

六 陣屋町吉田の形成と発展


 陣屋町の形態

 吉田町の中心市街地は吉田三万石の陣屋町に起源する。明暦三年(一六五七)宇和島初代藩主伊達秀宗の五男宗純が一〇万石のうち三万石を分知され、吉田藩を創立し、居館を吉田の地に定めたことが、市街地形成の契機である。陣屋町の形成は、河内川下流一帯の葭の群生する湿地を埋め立ててなされ、吉田の地名はそれに由来すると伝えられている。
 藩主の居館である陣屋は町の北西部にあった。この地は北に戦国期の土居氏の居城であった石城山をひかえ、南を河内川、東を立間川に囲まれた要害の地であった。陣屋は廃藩後解体されてしまったので、御殿内と呼ばれる地名と長屋門の礎石の一部、藩政時代に使用されたという井戸などに、わずかに往時の面影をしのぶのみである。
 家中町は陣屋の東方に立間川を隔ててあった。陣屋の前方が御殿前、それにT字型にまじわる大通が本丁であり、この両町には家老などの上級家臣が居住し、屋敷割も広荘であった。家中町には、ほかに桜丁・御弓之丁・裏之丁・鷹匠町などがあった。御弓之丁は旗組や持弓組の屋敷のあったところであり、鷹匠町には猟師の住宅があり、猟に使われる鷹が飼養されていた。河内川の右岸には煙硝蔵の地名があるが、ここは火薬の原料となる硝石を造る場所であった(図5―37)。
 市街地の中央部を東西に横切る横堀から南は町人町である。その中心の本町は家中町から桜橋を渡って御船手に至る主要道路で、藩主参勤の行列も通行した。その中央部の二丁目には町人町取締の中心機関之しての町会所がおかれていた。商業の中心地であるだけに大店が軒を並べていた。一丁目の御掛屋、二丁目の鳥羽・叶高月などがその代表的な商家であった。御掛屋は領内の各村・各浦方、および町方から藩に提出させる上納銀の受入業務を中心とする金銭の出納業務を担当していた。鳥羽は酒造業で、叶高月は紙の取引でそれぞれ栄えていた御用商人である。
 本町の西の魚之棚は鮮魚を扱う御用商人の店があったり、魚問屋が軒を並べていたことに由来する町名である。港に近かったので、運漕業をはじめ上方との取引をする問屋も多かった。その筆頭は吉田藩随一の豪商三引(法花津屋高月甚十郎)であった。三引は御用商人として紙の取引で栄えた問屋であったが、自らも帆船を所有し、運漕業を兼ね大阪方面との取引を盛んにした。本町の東の裏町は職人町であり、紺屋・鍛冶屋・鋳掛屋・樽屋・千把屋・石屋などの店舗が軒を連ねていた。裏町の北東すみの大工町は、その名のように大工職人の居住する職人町であった。町の南端は御船手で、水主組の居住する港湾地区であった。藩主の参勤交替もこの港から船出した。
 戦災をあまり受けなかった吉田の市街地は、藩政時代の名残を色濃くとどめている。その第一は街路網にみられる。文久年間の市街図と現在の市街図を比較してみると、現在の街路網はほとんど藩政時代のものを踏襲している。特に家中町の部分にはT字型やカギ型になった街路が多く、外敵の防御に備えた陣屋町の特色をよく保存している。第二は古い屋並みに往時の姿をしのぶことができる。本丁や御弓之丁には武家屋敷の原型をとどめる家があり、本町の御掛屋や鳥羽家は藩政時代以降今日に至るまで営業を続けている。魚棚町の豪商三引の跡にある松月旅館には伏見家の遺構と伝える床柱や欄間があり、その隣の朝岡家の庭園には三引と親交のあった堺の豪商淀屋辰五郎遺愛のものといわれる石灯籠がみられる。また裏町には職人長屋の面影をとどめる棟割長屋もいくつか姿をとどめている。

 吉田市街地の機能

 昭和五五年の吉田町の人口集中地区は、面積一・一平方㎞、人口五一八四人であり、この区画を吉田町の市街地と見なすことができる。吉田市街地は吉田湾を埋めたてた立間川と河内川の形成したデルタの上に立地する。東西を山に囲まれた市街地は地形の制約をうけ、東西の幅三〇〇m、南北の長さ一五〇〇mと、細長い市街地を形成する。
 吉田市街地の第一の都市機能は商業である。商業機能は藩政時代の陣屋町の形成時にさかのぼる。現在の商業機能はほとんど小売業であり、卸売業はほとんどみられず、商品は宇和島市の問屋から仕入れられるものが多い(図5―38)。小売業の構成では飲・食料品など最寄り品の比率が圧倒的に高く、衣服・身のまわり品などの買回り品はあまり見られない。最寄り品の商圏は吉田町全域に及ぶが、近年は交通の発達に伴って、圏域内の顧客が、宇和島市や松山市へ流出することが多い。買回り品の購買では、宇和島市と松山市に依存するものが多い。
 第二の都市機能は行政機能である。昭和三〇年吉田町と近隣の五か村が合併して吉田町が形成されると、吉田市街地には吉田町域を管轄する官公庁や各種団体の事務所が集中してくる。その主なものは吉田町役場・吉田町中央公民館・吉田町商工会・宇和青果農協・吉田町農協などである。
 第三の都市機能は教育・厚生機能である。教育機関としては、大正六年(一九一七)山下亀三郎の創立した私立山下実科高等女学校(大正一三年私立山下高等女学校と改称)、大正一二年(一九二三)に設立された吉田中学校(昭和一三年県立吉田工業学校となる)が主要なものであった。昭和二四年学制改革にともなって誕生した吉田高校は、この両校を前身とする。吉田高校の通学生は工業科においては宇和島市と南・北宇和郡にまで及ぶが、普通科の生徒は、吉田町を主体に宇和島市の一部から通学してくる。一方、新生の吉田中学校は、従来町域に五つの中学校があったのが、昭和四三年吉田中学校として統合されたものである。厚生機関としては、大正一一年(一九二三)開設された吉田病院がある。ベッド数一四六のこの病院には、町内各地からの通院・入院患者が多い。
 第四の機能は工業機能である。吉田町の工業は大正年間には周辺部の養蚕業の活況に刺激され、製糸業が盛んであった。しかし製糸業は昭和五年以降衰退し、昭和三三年の程野製糸の閉鎖をもって終焉する。代わってみかん栽培が盛んになるにつれて、それを原料とするかんづめ工業が勃興する。現在のかんづめ生産の主体は宇和青果の加工プラントであるが、これは昭和四五年に南予農業経済圏整備事業として建設されたものであり、県下有数のかんづめ・ジュースの生産工場となっている。食品加工以外では、昭和三二年開設された佐川印刷(従業員七六人)、昭和四八年に設立された縫製工場のボブソン(従業員一一八人)、同五八年誘致された真鍋電機(従業員六〇人)などがあるが、特筆すべきものではない。
 第五の機能は交通・運輸機能である。吉田港は吉田藩の創設によって開かれ、明治一五年(一八八二)以降は宇和島~大阪間の航路の寄港地となり、同四三年(一九一〇)には宇和島への沿岸航路が開かれ、その発着地としても賑わう。大正六年(一九一七)の乗船人員は、別府行五二一九人、大阪行四四七八人となっている。またこの間に、みかん、生糸、鮮魚、木綿縞の移出港としても繁栄する。このように貨客の出入で賑わった吉田港も、昭和一六年卯之町・吉田間の鉄道が開通し、次いで同二〇年予讃線が開通すると、貨物・旅客とも鉄道輸送にとって変わられ、吉田港の機能は急速に低下する。現在の吉田港は魚市場に水揚する漁船が入港する程度で、ほとんど港湾機能を果たしていない。
 水運にかわって発展した鉄道輸送も、昭和四七年三月国道五六号が全面改良舗装を終ると、旅客・貨物ともにトラックとバス輸送にとって代わられる。昭和三七年に完成した宇和青果のマンモス選果場と国鉄立間駅を連絡していたベルトコンベアも、昭和五九年立間駅が貨物の取扱を停止すると共に無用の長物となってしまった。国鉄の旅客輸送もまた減少が著しい。昭和五八年の吉田駅の一日平均の乗降客数は、定期客三二四人を含めてわずか四四九人にすぎない。現在、輸送機関の主体となっているトラック・バス輸送も、そのターミナル性には乏しく、吉田町は単なる通過地点にすぎず、吉田市街地の交通運輸機能はあまり強いとはいえない。

 吉田市街地の構造

 吉田市街地は、商業地区、行政地区、交通・運輸地区、工業地区、文教地区、住宅地区などから構成されている。このうち市街地の中心地を占めるのは商業地区と行政地区であり、それをとりかこんで住宅地区がある。市街の周辺部には交通・運輸地区、工業地区、文教地区などが分散立地している。
 商業地区は本町・桜丁・本丁にかけて南北一五〇〇mにもわたって細長く分布する。このうち本町は藩政時代の町人町に起源する商業地区であり、第二次大戦前には吉田の小売商業の中心地であった。現在は北部ほど商店密度が高く、吉田市街地のなかでは買回り品店の占める比率が最も高い地区である。その西側には、同じく藩政時代の町人町であった魚棚町の商業地区があるが、商店密度は本町に比べると低い(図5―39)。
 本町の北側の桜丁とそれに続く本丁は藩政時代の家中町に起源する市街で商業地区の形成は新しい。桜町は寛政五年(一七九三)に創設された安藤神社の門前町として、商業地区への変貌の端緒が開かれた。一方、本丁は大正一一年(一九二二)吉田病院の開設、翌一二年の町立吉田中学校の開設が商業地区発展の契機をなす。両町が商業地区として発展しだしたのは、桜丁が大正年間、本丁が昭和二七年以降である。
 南北に長い吉田の商業地区の中では、その重心は次第に北方の桜丁・本丁の方向へと移動している。その第一の要因は、本丁・桜丁周辺には町役場、吉田病院、吉田高校、電報電話局、郵便局、中央公民館などの公共施設が集中していることである。これらの中枢機能のなかには、町役場、郵便局、電報電話局、中央公民館のごとく、本町方面から移動してきたものや、新たに新設されたものが多い。第二の要因は交通機関が船舶や鉄道からバスにその主役が変ったことによる。吉田港と国鉄吉田駅は市街地の南端にあったが、宇和島自動車のバス停留所は桜丁の西方の国道ぞいに昭和四七年に設立された。交通機関の変遷は南方の本町を衰退させ、北方の桜丁・本丁を繁栄させるようになった。第三の要因は顧客の吸引力に富む量販店が北方にあることである。量販店としては、昭和三七年本丁に大見屋が開店し、同四七年桜丁の西方の国道ぞいにフジ吉田店が開店した。現在顧客の流れはこの二つの量販店を中心に流動している。第四の要因は道路の幅員が北方で広く、南方で狭いことである。道路の幅員は本丁で七m、桜丁で八mあるのに対して、本町は五・五mにすぎず、乗用車の離合が困難であり、買物客に不便を与えている。
 行政地区は本丁を中心とした地区にみられる。この地区は藩政時代の家中町であったところで、明治以降は空屋なども多かったが、そこに明治から大正年間にかけて吉田小学校・吉田中学校(現吉田高校)・吉田病院などが進出してくる。さらに第二次大戦後は本町方面から郵便局、役場、警察官派出所などが移動してきたうえに、電報電話局、吉田変電所、中央公民館、吉田町商工会などが設立され、行政地区としての性格を強めてくる。中央公民館や吉田町商工会は市街地南端に移動していった小学校跡に進出してきたものである。
 交通・運輸地区は市街地南端の吉田港と吉田駅付近、立間駅付近などにみられたが、交通の主役が自動車に代わるにつれて、活況の失なわれた地区となっている。
 文教地区は市街の北部にみられる。吉田高校は既成市街地の北端にあるが、昭和四四年に新築落成した吉田中学校は市街の北西部の水田の中に広い用地を求めて立地した。工業地区もまた市街地の周辺部。にみられる。第二次大戦後進出した工場は用地に恵まれた市街地北方の立間地区に立地しているが、この地区は昭和五六年国道五六号が改良舗装されてのも、交通の便がよくなった地区でもある(図5―40)。
 住宅地区は、旧市街地の商業地区と行政地区をとりかこんでみられるが、新しい住宅街は市街地北方の立間地区や沖村地区、あるいは市街地南部の鶴間地区などに形成されている。新興の住宅街には、用地不足に悩む宇和島市の住民が入居している住宅も数多くある。
















図5-37 文久年間の吉田市街図

図5-37 文久年間の吉田市街図


図5-38 吉田町商店街の店舗構成

図5-38 吉田町商店街の店舗構成


図5-39 吉田町の都市構造

図5-39 吉田町の都市構造


図5-40 吉田町の市街地の発展と公共施設の新設・移動

図5-40 吉田町の市街地の発展と公共施設の新設・移動