データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)
八 宇和海沿岸の漁業集落
漁村の特色
リアス海岸の続く宇和海沿岸は、海岸線に沿って大小の集落が点在する。その集落の多くは漁村であり、東予・中予地方にみられるように臨海にありながら海に背を向けて生活する非漁業集落はほとんど見られない。これは宇和海が古来いわしの好漁場として知られ、今日も愛媛県随一の漁場であるという漁業資源の豊かさを反映するものである。
漁村の立地点をみると、いずれも湾奥に集村の形態をとって立地する。それは漁業を生業とした集落にとっては、水深が深く、かつ波静かな湾奥が漁船の停泊に好適であったことによるものである。また湾奥には小河川が流入するところから、集落立地を可能とする小平坦地が得られたこと、地下水の集まるところから荘戸水を得る上に便利であったことも、集落立地上の利点としてあげられる。
小河川の流入する湾奥は、他の地点と比較して地下水の取得に便利であったとはいえ、それはあくまで相対的なものであり、集落の人口の多さに比べては、地下水は乏しかった。特に半島部や離島ではその傾向が強く、井戸はいずれも中井戸といわれる共同井戸であり、その井戸をとり囲んで集落は形成されていた。これらの集落で住民が水不足から解放されたのは、ごく最近のことであった。宇和島湾に浮ぶ九島では、昭和四八年に本土から海底送水が開始され、離島の嘉島では昭和四七年に海水淡水化装置が設置され、同じく日振島でも昭和五三年に日産二〇〇トンの海水淡水化装置が設置されてから、それぞれ水不足から解放された。また由良半島では昭和五五年完成した津島町の山財ダムから送水管が敷設され、同五六年から送水が開始され水不足が克服できた。蒋淵半島でも昭和六〇年には山財ダムからの送水が開始される予定という。
宇和海沿岸の漁業集落の特色は、第一に住民の多くが半農半漁の生活を営み、燧灘沿岸漁村のように、一つの漁業集落内に住む住民が農民と漁民にはっきり分化していないことである。これは宇和海沿岸の漁業集落が新浦の形成と同時に食糧確保のために段畑開墾を推進してきたという漁村形成の特色を反映するものと考えられる。第二の特色は漁村内に網主―網子の社会階層がはっきりしていたことである。これは漁業形態が多くの従業者を必要とするいわし網漁業であったこと、そのいわし網が庄屋・組頭などの村役人層に許可されたことに起源する。網主―網子からなる封建的な漁業制度は明治以降も温存され、大網主の屋敷跡を各所にみることができる。日振島明海の清家令津島町鼠鳴の赤松などは屋敷跡を残すのみであるが、戸島本浦の田中や由良半島網代の浦和などは、豪壮な屋敷の一部をいまにとどめている。第三の特色は漁村が共同体的な性格を強くもち、閉鎖社会であったことである。社会の解放度を示すという通婚圏をみると、第二次大戦前にはほとんどの集落で集落内で通婚していた。一つの集落は姻戚関係を通じて強固な親族集団を形成し、これが共同操業を必要とするいわし網漁業と相まって、集落の共同体的性格を強めたといえる。
由良半島の漁村後浦
津島町の後浦は由良半島の先端近くに立地する集落で、天保年間(一八三〇~四四)に成立した新浦である。湾入部が少なく風波の強い由良半島は集落の立地条件には恵まれず、須下・成・平井・曲烏といずれも藩政時代に成立した新浦であった。明治四三年(一九一〇)編集の『下灘村誌』に「是等の部落は下人と称して別に組頭を置かず庄屋赤松忠兵衛より頭人というものを命じて差配せしめたり」と記載されている。後浦の耕地と山林は、明治年間にはすべて赤松家の所有地であり、これが住民の所有地になったのは明治末年から大正中期にかけてであった。
永らく中世的な村落支配の遺制のみられた後浦は村落共同体的な性格のきわめて強い集落であった。集落内には本家・分家関係と姻戚の関係が網の目のようにはりめぐらされ、集落は一つの親族集団の観を呈した(図5―43)。この集落にはいくつかの草分け農家があり、明治以降それらの家から分家が多数派生していった。通婚は昭和三〇年ころまではほとんど部落内婚であり、図5―43に示す四二戸のうち実に三三戸(七九%)は、この狭い集落内から嫁を迎えている。第二次大戦前のこの集落には青年宿があり、小学校を卒業した青年男子は兵役検査までは、その青年宿で起居を共にした。兵役を終えた長男や分家の認められた次・三男は嫁を迎えたわけであるが、この場合仲人になるのは青年宿の主人であり、ころあいの娘で紡績工場などに出稼している者を呼びもどし結婚さすのが通例であった。部落内婚の利点としては、気心が知れていて安心して嫁にもらえること、集落内に親戚が多いと相互扶助に便利であること、などがあげられている。農作業や漁船のひき揚げなどは、本家・分家間や姻戚間の手伝で行なわれることが多かった。
共同体的な性格の強さは、集落の物理的な構成にもよく反映されている。後浦の集落は三つの小集落より成るが、その一つ出尻についてみると、集落はラグーン背後の山麓線上に帯状に並び、その中に二つの共同井戸があった。住民はこの二つの共同井戸によって飲料水を確保したが、井戸の利用範囲はおのずと区分されており、その利用者によって井戸は管理されていた。海岸の浜堤上には防風石垣があり、その付近には各農家の干し場と小屋があった。干し場は切干しいもや麦などの農産物、スルメやてんぐさなどの海産物の干し場として利用され、小屋はその格納庫であった。干し場のない家は中地(共有地)の干し場を利用した。集落の北端にはスペリといわれる石畳を敷きつめた傾斜地があるが、これは漁船の船あげ場であった。漁港のない後浦には漁船の繋留地はなく、漁船はすべてスベリやその奥の中地に引き揚げざるを得なかった。水田は浜堤の後のラグーンのなかにひらけていたが、その中にはがま田があった。がま田は三〇余戸の集落の全戸に一筆づつ所有され、そこで各戸がむしろを織るがまを栽培していた(図5―44)。
この集落の共同体を支える物的基盤には磯物と山林の共有があった。これらの共有物は、この集落が須下の枝浦であるところから、須下との共同管理下にあった。磯物の代表はてんぐさである。六月初旬の大潮のとき採取が解禁になったてんぐさは、解禁日には各戸総出で採取したものが、各戸の収入になったが、解禁日以降の採取権は須下・後浦の村落共同体に帰し、収益は集落の公共投資に使用された。共有林は由良半島の先端部に魚付林としての面積三七ヘクタールの由良山共有林があり、薪炭商に売却された立木代金は、共有権のある集落住民に平等配分された。
共同体のもとで営まれる生業には、後浦で経営する大敷網とふかし網があった。大敷網は由良半島の先端近くに敷設され、春から夏にかけて回遊してくるかつお・めじか・はつなどを漁獲した。後浦の住民のうち組入りを認められている家は各戸一株づつの権利を持ち、漁期の間には出漁の義務があった。大敷網の曳子は二隻の網船に各六~七人、やぐら船に一人、山見(魚見やぐら)に三人程度を要したので、半数の家の戸主が一週間交替で操業した。漁獲物の収益は株に応じて平等配分された。この大敷網は回遊魚が減少するにつれて衰退し、大正末期に廃止された。
ふかし網は昭和一四年ころから一八年ころまで操業された。この網も原則として各戸一株ずつ権利を持っていたが、労力の多い家は二株所有していた家もあった。曳子は二〇~三〇人程度を要し、株の所有者に出役の義務があった。操業期間は冬期を除いた春から秋にかけてであり、いわし・きびなご・じゃこなどを漁獲した。収益はこれまた株に応じて平等分配した。
共同体のもとで営まれる網漁業以外で住民の営む漁業には、いか・いさぎ・たい・はまちなどの一本釣漁業があった。大敷網やふかし網のない時代には、この一本釣漁業が主要な生業であった。
後浦の住民の生業では、漁業以外には集落背後の斜面を耕作する段畑耕作が重要であった。甘藷と麦は住民の重要な主食であり、第二次大戦前にはツメといわれる甘藷のご飯が最も重要な主食で、各月の一日と一五日に麦と甘藷をまぜたご飯を、正月にのみ米のはいったご飯を食べた。米食が住民に普及したのは昭和三五年以降であった。
後浦の戸数は明治四三年には四三戸を数えた時もあったが、本戸三二戸といわれるように、昭和になっては三二戸前後を上下することが多かった。この集落は昭和三五年以降の高度経済成長期になると、挙家離村が続出し、今や廃村寸前となっている。昭和三〇年三〇戸二二七人であった集落は、同四〇年には二〇戸一二〇人、同五〇年には七戸二〇人、同五八年には五戸一六人となってしまった。高度経済成長期になだれ的な挙家離村がひきおこされた地域的要因は、①この集落が由良半島の岬端近くにあり、交通が不便で住民の日常生活が不便であったこと、②風波の強い宇和海の外洋に面したこの集落には、天然の良港たる湾入部がなく、漁船漁業の基地としても、養殖漁業を営む海域としても、その条件が悪く、住民の経済活動が不便であったこと、③社会的な側面としては共同体的な性格が強く、数戸の離村が住民の挙家離村の連鎖反応をひきおこしやすかったこと、などの諸点が指摘できる。
宇和海の離島竹ヶ島の漁村
津島町の竹ヶ島は宇和海に浮ぶ面積〇・三平方キロメートルの小島で、定期船も通わない離島である。この集落も後浦同様、藩政時代の元禄一三年(一七〇〇)下灘村の庄屋赤松家の下人の集落として成立した新浦である。大正七年(一九一八)島民が一万余円で宅地・耕地を買いとるまで、山林をのぞく全地所は赤松家の所有であった。戸数は明治二二年(一八八九)で二六戸であったと考えられるが、以後今日に至るまで戸数の変動はほとんどなく、昭和五八年現在二三戸(教員世帯を除く)の規模を保っている。
竹ヶ島もまた共同体的な性格の強い漁村であった。共同体を支えるものは、①後浦同様集落内に本家・分家の関係と姻戚関係が多く、集落が一つの親族集団の観を呈していたこと、②めのり(黒のり)・てんぐさ・青のりなどの磯物が共同体の管轄下にあったこと、③いわし網漁業が一時期共同体のもとに営まれたこと、④定期船も通わぬ孤立した環境であったこと、などの諸点に求められる。
住民の生活は段畑耕作と漁業の半農半漁の生活であった。漁業は明治以降船びき網や沖取網のいわし網を地先で行なっていたが、その経営主体は地元の第一人者や対岸漁村の有力者、竹ヶ島の共同体など幾変遷したが、第二次大戦の激化と共に労力不足からいわし網漁業は解体してしまった。第二次大戦後の漁業の主体となったのは、建網・こずな網、それに一本釣であったが、昭和三八年以降真珠母貝養殖が導入されると、これら個人単位で行なっていた漁業や段畑は放棄され、現在では真珠養殖一色の島となっている。
真珠母貝養殖は北西の季節風をさけ得る島の東岸の地先で行なわれているが、その養殖が共同体的規制を強くうけている点を特色とする。昭和四六年現在の真珠筏は一六ヶ所にわたって設置されていた。その設置にあたっては、住民が資材を共同購入し、共同作業によって敷設した。筏の用益権はくじ引によって割当てられたが、真珠母貝の成育は筏の場所によって異なるので、各戸の平等をはかるために、各ブロックごとに用益権が配分されるように配慮されている。一戸当たりの筏の持分は八〇mポリ筏にて一二・五本であった。転出戸のあったことや労力の多少から、当初から比べて持分が多少移動しているが、その差異は二~三本にすぎない(図5―45)。このような筏の利用状況は現在もほぼ踏襲されている。真珠母貝養殖は元来個人単位で行なわれるものであるが、その筏の管理・運営に共同体規制を強くうけている点に、漁村の共同体的な性格の強い宇和海の特色がよく示されているといえる。