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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

八 日吉村の過疎集落


 日吉村の過疎の進行

 日吉村は北宇和郡の東端、高知県境に接する山村である。村は高知県中村市に注ぐ四万十川の支流広見川の源流地帯にあり、標高七〇〇mから一〇〇〇m程度の山地が重畳として重なる。昭和三五年現在の産業別就業人口の構成は、第一次産業六〇・一%、第二次産業七・四%、第三次産業三二・四%である。第一次産業のうちでは農業六〇・六%に対して、林業三九・四%であり、林業就業者の比率の高いことが注目される。
 住民の生活は広見川流域の谷底平野で米作を営むかたわら、広大な林野を利用して製炭業・しいたけ生産・育成林業などにいそしんできた。また集落をとりまく緩斜面を利用して栗栽培や、桑畑を開いて養蚕を営み現金収入を得る農家も多かった。集落は主として谷底平野に立地していたが、その谷底平野は狭長なものが断続するところから、集落規模は小さかった。昭和三五年の集落数は三〇にも達したが、五〇戸を超える集落は役場のある下鍵山を含んでもわずか二つしかなく、大部分の集落は一〇~三〇戸程度の小規模なものであった。
 日吉村の人口・世帯数は昭和三五年の四四四四人、八九三世帯から、同五五年の二五二八人、八三一世帯に減少し、二〇年間の人口減少率は四三・一%にも達した。北宇和郡のなかでは人口減少率の最も著しい村であり、昭和四五年過疎地域に指定された(表6―6)。人口減少は交通不便な僻遠の小集落ほど著しかったが、高度経済成長期の間に広見川の源流地帯に位置する節安と奥藤川の二集落は廃村になった。ここではこの二集落の廃村化の過程をたどり、廃村が地域社会に何をもたらしたかをさぐってみた。

 節安の集落の特性

 節安は広見川の谷頭近くの山腹斜面に立地する日吉村最奥の集落である。節安は古来一六戸といわれるように、集落住民から「いつか」といわれた一人前の農家と認められた家は明治以来一六戸であった。住民は谷底平野での水田耕作、集落周辺の常畑耕作のかたわら、山林に焼畑を造成し、自給生活を営んできた。明治・大正年間の林野には経済価値は認められず、害虫防除と名うって林野に火をつけ、草山として利用するものが多かった。
 明治二一年(一八八八)の節安の山林は、台帳面積で三六八ヘクタール、うち四一%の一五〇ヘクタール(実面積では五二一ヘクタール)が節安組有林であった。ほかに林野のなかには一四ヘクタールの切替畑もあった。組有林はその半分の七五ヘクタールが草山として利用され、他の半分は立木地として集落住民の薪や用材の採取林として利用されていた。総有的に利用されていたこの林野は大正初期の部落有林統一の際、四九ヘクタールが村に移管され、残りは昭和初期に村外地主に売却され、のち国有林に転売されたものもある。
 この集落は共有林が広大であったことに加えて、集落住民間の冠婚葬祭、相互扶助の組織が強固であり、また部落内婚も多く、きわめて共同体的な色彩の強い集落であった。相互扶助の組織としては、共同田植や萱講が注目された。この集落では昭和一〇年ころまでは、各戸の水田の田植は集落住民総出の共同作業で行なわれていた。萱講は萱屋根を葺きかえる組織であり、これに属する農家の屋根が共同作業で順次葺きかえられていった。

 節安の集落移転

 この節安が急激な変貌をとげはじめたのは第二次大戦後である。昭和一六年林道が通じたことから林野に経済価値が生じる。昭和二五年から同三一年の松ブームと時を同じくして製炭業も盛んになり、外部から製炭者や林業労務者が多数流入した。しかし彼等は組入りはしなかったので、旧来の集落組織に大きな変革はみられなかった。集落組織の抜本的な変革は昭和三八年からのなだれ的な挙家離村によってひき起こされた。その契機は、この年の一月から三月の間西日本一帯をおそった豪雪と、同年八月一〇日この集落を襲った集中豪雨であった。豪雪期間中には交通が途絶し、腸捻転のため一人の死者さえ出した。加えて八月の集中豪雨は谷底平野にあった集落の水田の大半を流出させてしまった。この二重の災害は、折からの高度経済成長期に伴う山村からの挙家離村の続出という社会風潮とも相まって、住民を災害復興に向かわせるのではなく、この奥地集落からの離村を決意させたのであった。
 昭和三五年に集落組織に加入していたものは、二五戸一九五人であったが、同四八年には七戸二二人に激減した。挙家離村はさみだれ式に続出したが、この間挙家離村した一九戸のうち、実に一四戸は二〇~四〇㎞下流の広見町への離村であった。離村先が広見町に集中した理由は、比較的谷底平野の広い広見町では水田が得やすかったこと、離村距離からして節安に残している山林の管理も併せてできたという経済的理由にもよるが、それ以外に、共同体的な性格の強いこの集落では、離村先発隊が後発隊に順次情報を提供し、同一地区への離村を誘導するという社会的理由による点も大きい。
 昭和四六年七戸に戸数の減少した節安では、集落の再編成は必至の情勢となっていた。折しも同年四月、この地区の中学生が通学していた富母里中学校が、役場のある下鍵山の日吉中学校に統合されることになった。残存戸はスクールバスの導入か、さもなくば移転住宅の建設を村当局に迫ったところ、村当局は残存戸のための公営住宅の建設に応じた。公営住宅は過疎債の起債によって、役場のある下鍵山地区に建設された。残存していた七戸のうち、すでに広見町に離村の決定していた一戸を除き六戸が世帯分離し、八世帯となってこの住宅団地に集団移転したのは、昭和四八年の一二月であった。
 新しい住宅団地は大字下鍵山の四組に属するが、この四組は、土着農民、国鉄バス職員、学校の教員などの寄合世帯であり、組入りしていない者もあり、社会的連帯感の稀薄な集落であった。一方、節安は共同体的な色彩の濃厚な集落であり、住民意識はまったく対称的であった。共同体的色彩の強い節安は、集団移転には容易に応じたが、共同体的色彩の強さゆえに、新集落にはとけ込めず、新集落には組入りしなかった。

 節安の生業と土地利用の変化

 節安では、住民が離村することによって、住民の就業状態はどのように変化したのであろうか。挙家離村の始まる以前の昭和三五年現在の住民の生活は、節安の集落内での田畑耕作のかたわら、製炭業によって現金収入を得るものが大部分であった。林野や耕地などの土地所有面積にもさしたる格差はみられなかった。それに対して移転後の住民の土地所有にはかなりの格差がみられるようになった(表6―7)。それは節安の耕地は耕作放棄されたが、広見町に移転した者のなかには、その地で水田を買い求めたものが多いことと、山林を離村資金を得るために売却した人もいることによる。しかしながら離村後も山林の大部分は節安に残されているので、離村者の生業は節安の林野を利用した育成林業やしいたけ栽培であるものが多い。通勤林業をするものは、自家用車・バイク・バス・タクシーなどの交通機関を利用しているが、広見町への離村者は日帰りは困難なので、夫婦あるいは世帯主のみが一~二週間泊りがけで働く場合が多い。
 台帳面積三八〇ヘクタールの節安の林野は、実面積ではその三・六倍に達する一三六〇ヘクタールにも及ぶ。国有林を除いても八四〇ヘクタール、元来の一六戸で割ると一戸平均五二ヘクタールにも達する。昭和四九年現在、私有林の三〇%が離村に伴って外部地主に売却されているとはいえ、この広大な林野は依然として旧集落住民を支える経済的基盤となっている。
 節安の林野は第二次大戦後人工林化が急速に推進されてきた。人工林率は昭和四九年現在国有林五八%、村有林一〇〇%であるのに対して、私有林は五〇%程度である。私有林の人工林化は、節安の住民が自己の山林に自家労力で植林してきたものが多いが、一方では森林開発公団の分収造林も多い。森林公団との分収契約は旧節安の住民も結んでいるが、主として旧節安の住民から林野を購入した集落外の地主、特に村外地主との間に結ばれているものが多い(図6―11)。
 しかしその公団造林も日吉村では停滞傾向をみせてきた。その一半の理由は林業労働力の不足にある。公団造林の林業労働は日吉村森林組合の林業労務班が担っているが、奥地集落の廃村化はその林業労働を枯渇化させたのである。公団造林が停滞している以上に大きな問題点は、旧集落住民の私有林の人工林化が停滞し、その保育作業がおろそかになっていることである。それは通勤林業をしていた離村者が、離村後年を追って、山元での宿泊をともなう通勤林業をきらい、それに出向く回数が減少してきたことによる。

 奥藤川の集落の性格

 奥藤川は節安の隣接集落であり、日吉村を貫流する広見川の源流地帯の谷底平野に立地する集落である。明治中期の戸数は七戸であったと推定され、住民は谷底平野の水田耕作と山麓の緩斜面の常畑の耕作、さらには集落背後の林野を利用しての焼畑耕作によって生業を維持してきた。焼畑に利用される林野は集落住民の記名共有林であり、焼畑耕作地以外では、節安同様山焼の対象地であるにすぎなかった。この記名共有林は、明治末年から昭和初期にかけて、順次集落の住民の私有林に解体されていった。
 わが国の経済が高度経済成長期に突入した当初の昭和三五年の奥藤川の経済状態並びに社会状態を復元してみると以下のごとくである。戸数は分家の家を含めて八戸であったが、一戸当たりの経営耕地面積は水田二〇~三〇アール、普通畑三〇~四〇アール、山林二〇~六〇ヘクタール程度であり、土地所有にはさしたる格差はみられなかった。当時の住民は、水田に米・麦の二毛作を営み、畑にとうもろこし・甘藷・麦を栽培し、食糧の自給をはかるかたわら、自己の山林を対象に製炭業にいそしみ現金収入を得ていた。
 この集落の社会生活面で特筆される組織は萱講であり、これがこの集落の共同体的結合の中核をなした。萱講には全戸加入し、萱葺き屋根を順次葺きかえていった。各農家の母屋の屋根は二五年ごとに片側ずつ葺きかえられるのが慣例であったので、この集落ではほぼ隔年ごとに屋根葺き作業が繰り返された。アタリの家(屋根葺きに該当する家)が決定すると、各戸は萱場から、たば萱四荷を刈りとり、それをアタリの家に提供する。屋根葺き作業は各戸の戸主一人が二日間労力を提供して葺きかえるのを常とした。
 萱講は第二次大戦後瓦屋根が普及するにつれて昭和二五年解消するが、萱講でつちかわれた共同体的精神は各方面に生かされた。萱講にかわって昭和二九年結成されたのが瓦講である。これは瓦屋根を共同作業で葺きかえる組織であり、集落の全戸が加入した。また昭和三二年には奥藤栗組合が結成され、同四〇年ころには一〇ヘクタールの共同栗園が経営されていた。そのほか、この集落では籾摺機・脱穀機・精米機などの農機具を共同購入し、共同使用した。また住民間では労力交換も盛んに行なわれた。田植、炭窯の構築、三椏や楮の皮はぎなどすべて手間替えで行なわれ、開田作業は夫役無尽といわれる長期の労力交換で行なわれてきた。このように昭和三五年当時の奥藤川は共同体的な性格のきわめて強い集落であったが、その集落運営は一人の強力な指導者のもとに行なわれていたのが特徴であった。

 奥藤川の集団離村

 その奥藤川の集落は昭和四二年集団離村によってはかなくも消滅してしまった。この集落の挙家離村は昭和四一年一戸の農家が個人的な理由から広見町に離村したことに始まる。離村に際しては、集落住民が誰一人撤去作業を手伝わないほど、大きな心理的圧迫を加えたが、その離村をくい止めることができなかったことは、他の集落住民に大きな衝撃を与えた。翌年リーダーの農家が、社会生活上の不便や、共同栗園に病虫害が発生し事業に挫折したことなどを理由に、挙家離村を決意すると、他の農家も協議の結果、挙家離村にふみ切らざるを得なかった。かくしてこの集落は集団離村によって、一気に廃村にたち至ったのである。住民の挙家離村先は一戸を除き、すべて広見町であるが、その理由は節安の集落で述べたのと類似する。
 奥藤川の集落から挙家離村した農家は、それぞれ離村先の広見町で農地を購入し農業を営んでいる。離村当初は旧来の集落住民間で田植の手間替えを行なったり、冬季一緒に出稼に行くほどの緊密な関係を保っていた。奥藤川の山林は、離村にあたって一部の者が離村資金を得るために売却したものもあるが、大部分は保留しているので、離村者は山林経営のため、奥藤川に通勤林業している。しかしながら通勤距離が三〇~四〇㎞もあるところから、日帰り通勤には制約が大きく、多くの住民は一週間程度宿泊をして育林作業に従事するものが多かった。しかしながら、これらの通勤林業は離村から年をへるにつれて、次第に減少していった。
 この集落の人工林率は昭和四六年現在六三%にも達し、日吉村の中では特に人工林率の高い集落であった(図6―12)。人工林化は森林開発公団によって行なわれるもの、集落住民によって行なわれるものの両形態があったが、集落の消滅後は極端に人工林化か停滞していった。それは、離村戸が通勤林業に通う回数を次第に減少させてきたのと軌を一にする。住民を失った林野は、その管理が次第に粗放化され、林野は離村戸にとって次第に資産として保持されるという傾向を強めている。さらに憂慮されることは、住民を失った集落に野生動物がはびこり、その獣害が著しいことである。奥藤川では野兎の繁殖によって一~二年生の人工林がくい荒され、住民はその対策に苦慮している。
 交通不便な奥地山村の集落が廃村となることは、地域社会に何をもたらすのであろうか。奥地集落が消滅することは、離村住民には日常生活上の便利を与え、村当局にはそれら集落への行政サービスの軽減をもたらすであろう。しかしながら一方では、山村が住民を失うことは、必然的に耕地利用の放棄と林野利用の粗放化をまねき、さらには豪雨・豪雪にともなう災害防止や山火事などの人災を未然に防止することを困難にするものである。奥地集落の撤去は、このように国土利用・国土保全の観点からみるならばマイナス面もまた大きいのである。













表6-6 宇和島市・北宇和郡の市町村別世帯数・人口の推移

表6-6 宇和島市・北宇和郡の市町村別世帯数・人口の推移


表6-7 日吉村節安住民の土地経営状況の変化と離村後の生業

表6-7 日吉村節安住民の土地経営状況の変化と離村後の生業


図6-11 日吉村節安の林野所有形態と林野利用区分

図6-11 日吉村節安の林野所有形態と林野利用区分


図6-12 日吉村奥藤川の林野所有区分と林相

図6-12 日吉村奥藤川の林野所有区分と林相