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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第一節 概説


 自然環境と歴史的背景

 愛媛県の最南端に位置し、北東部にそびえる篠山(一〇六五m)から観音岳(七八二m)にのびた四国山脈の支脈は由良半島へとつながり、北宇和郡との境界をなしている。東部の山岳地帯では篠川をはさんで、高知県の宿毛市と接している。南部・西部は複雑なリアス海岸となり、宇和海・宿毛湾に面している。黒潮の進入する海域で、その影響を受けて気候は温暖である。領域を占める町村は内海村・御荘町・城辺町・一本松町・西海町の五か町村である。
 県の最南端に位置する辺地性と地形的制約は、地域の交通整備計画を遅らし、他地域からは、「陸の孤島」的イメージでとらえられてきた。しかし一方では、文化の隔絶性から独自の経済・社会地域を形成しているともいえる。大正一二年(一九二三)の鉄道期成運動以来、再三再四、郡を挙げて運動を展開するも鉄道建設の実現には至らなかった。したがって、郡外との交通は御荘町の長崎港、城辺町の深浦港を中心とした海上交通に依存してきた。そして国道五六号の整備と自動車交通の発達は、より一層地域の発達に深いかかわりをもつようになった。
 古くは南宇和郡一円を「御荘」と称したのは『宇和旧記』『郡鑑』などでも明らかである。青蓮院門跡の荘園であった当地域を尊称して、御荘と呼んだものである。戦国時代には、御荘勧修寺家が、常盤城を現在の城辺に構え、土佐の長宗我部と対峙していた。
 幕藩体制下には、宇和島藩一〇組の一つ御荘組として組織され、緑(城辺町)に代官所が設置された。宇和島藩は藩の財源確保のため、いわし網漁業を奨励し、宇和海沿岸では段畑開拓を伴う新浦開拓が盛んにすすめられた。中泊・樽見・麦ヶ浦・外泊・大成川など新浦開拓は現在の西海町に多く見られる。
 明治一一年(一八七八)宇和郡が東西南北、四郡に分割され、南宇和郡ができたが明治一四年(一八八一)から同三〇年(一八九七)までは南北宇和郡で一つの行政区となっていた時代もあった。明治二二年(一八八九)の市町村制実施により、内海・御荘・城辺・緑僧都・東外海・西外海・一本松の七か村が成立した。
 郡内の中心は、御荘の平城地区と城辺町の城辺商店街である。平城は四〇番札所観自在寺の門前町として成立、明治三〇年郡役所が平城の永の岡に設置されるなど、官公署の立地が目立つ。城辺は僧都川流域を中心として付近の在町的性格をもった商業地区として発達してきた。特に明治一二年(一八七九)蓮乗寺川の改修を行なってから、中町・矢野町が成立し、商業が盛んとなった。城辺は隣接する平城よりも呉服店、飲食店などの数がはるかに多い。この二地区は僧都川を挾んで補完的役割を果たしながら独自の発展をしてきたが合併の気運は熟さない。
 南宇和では、全産業に占める水産業の比重が大きい。昭和三〇年ごろまではいわし漁業やかつお一本釣が盛んで、それが鰹節、煮干し、素干しなどの水産加工を発展させ、現在は特に真珠および母貝養殖と、はまちに代表される魚類養殖がその中心である。藩政期に内海浦と呼ばれていたところに主に真珠養殖が、外海浦と呼ばれていたところに、はまち養殖が卓越するなど内湾性の地域と外湾性の地域に分けることができよう。もっとも御荘湾の中浦のように日本一のまき網漁業が経営され、外洋への進出の著しい企業も一方では存在している。真珠は、戦前より御荘町の平山・菊川を中心に行なわれてきた。袋状の御荘湾は、漁場の老化が問題とされるところである。内海地区では数年来、母貝養殖を中心とした養殖が急成長しており、御荘との間に新・旧の好対照を見ることができる。外洋的性格の強い西海町(もと西外海)城辺町(もと東外海)では真珠養殖は今一歩のびがなく、昭和四〇年代後半からははまち養殖が中心となった。特に西海町の福浦や城辺町久良では大規模で、企業的はまち養殖業経営がみられる。飼料購入から、出荷までほとんど個人で行なわれており、従業員を雇用している場合も多く、北宇和郡の家族労働主体のはまち経営と対照的である。
 こうした水産業の発達と対応して、宇和海沿岸では段畑の果樹への転換、次いで農作地の耕作放棄が急速におこなわれ、かつて南予の風物詩であった段畑は見るかげもなく減少してしまった。その中で平山・菊川・銭坪地区の甘夏かんは、昭和三八年の農業構造改善事業として経営が開始された。当時の金額にして、一億四〇〇〇万円の事業費が投ぜられ、約八〇ヘクタールの樹園地が造成されている。これらの地区では真珠ならびに母貝養殖が行なわれてきたが、真珠不況とも重なることとなり、甘夏栽培へと専業化していき、マルエムの銘柄のもと出荷されることになった。
 この地域の水産業では、宿毛湾から太平洋にかけての外洋に面して出漁性の強いかつお一本釣漁業とまき網漁業に特色がある。特に宿毛湾沿岸では、沿岸膠着性の強い高知の一本釣漁業に対して、愛媛からの室まき網の出漁が積年の宿毛湾入漁問題である。入漁統数が制限され、入漁料を支払っての操業が続いている。昭和五九年、契約が更新されたが、根本的解決とはなっておらず、早い機会の根本的解決が望まれるところである。
 国道五六号が整備され、外からの観光客が訪れるようになり、南レク都市開発が推し進められるようになった。漁業が生業であった西海町では鹿島周辺の海が海中公園の指定を受け、さらに磯釣ブームで民宿が経営され、観光の町というイメージをもつようになった。なかでも外泊は石垣集落として有名であり、石垣の保存に腐心している。
 南宇和郡における経済の活性化は、第二次産業にあまり見るべきものがない昨今、真珠養殖及びはまち養殖といったように海を対象としたものによってなされてきた。一方一本松町全域や城辺町の緑、僧都地区など農山村地域では、高度経済時代以降の人口流出のなかで飛躍的生産性の拡大が実現されたとは言い難い。柑橘栽培の好調もそれは過去のものであり、何に活路が見出されるのか、それは手さぐりの状態であろう。こうした中で注目されるのは、一本松町北縁台地上に、昭和五九年度操業を一部開始した松下寿電子工業の工場進出であり、地域発展の期待を大きくになっている。