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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 南宇和郡の農畜産業

 農業の概観

 南宇和郡は黒潮の影響を受けているため、年平均気温は一六・六度であり、年降水量も二〇〇〇㎜に達する温暖多雨な気候を呈している。このため、農業も温暖多雨な気候を利用して果樹・野菜・花木栽培が盛んである。しかし、農家戸数は全国的な傾向と同じく減少しており、五五年には郡全体で二四六五戸となった。これは四五年の六七%であり、県全体が四五年の八六%であるのに対して減少率は大きい。農業人口も他地域や他産業への流出が激しく、四五年には郡全体で約一万七〇〇〇人であったが、五五年には約一万人に減少した。町村別にみると、最も減少率が高いのは内海村で四五年のわずか三六%になっており、次いで城辺町四九%、西海町五九%、御荘町七三%、一本松町八七%となっている(表7―6)。農地面積については、普通畑の減少が著しいのに対し樹園地は増加傾向にある。

 稲作

 四〇年の米の作付面積・収穫量は御荘町三三四ヘクタール・一〇三〇トン、城辺町三一二ヘクタール・九八四トン、西海町一ヘクタール・三トン、一本松町三七一ヘクタール・一一七〇トン、内海村三二ヘクタール・九一トンであった。同年の南宇和郡全体の作付面積は一〇五〇ヘクタール、収穫量は三二八〇トンでいずれも県全体に占める割合は二%~三%であった。しかし、昭和四五年から始まった米生産調整及び同五三年から始まった第二次水田利用再編対策の影響で作付面積・収穫量とも減少した。五五年の作付面積・収穫量は御荘町二〇〇ヘクタール・六〇〇トン、城辺町二〇四ヘクタール・六六五トン、西海町〇ヘクタール・一トン、一本松町三三〇ヘクタール・一〇七〇トン、内海村九ヘクタール・三〇トンである。単位面積当たりの収穫量は、同五四年以後台風・冷夏等の異常気象や最近の米価事情を反映して減少傾向にある。水稲の品種別作付面積は、御荘町や城辺町では「日本晴」が約三〇%で最も多く、次いで「ミネ二シキ」・「黄金マサリ」となっており、一本松町では「黄金錦」が約二五%で最も多く、次いで「ミネ二シキ」・「黄金マサリ」となっている。

 畑作

 かつては畑作の代表作物であった麦は、昭和五五年現在南宇和郡全体でもわずか五ヘクタールの栽培面積しかなく、収穫量は一二トンにすぎない。昭和四五年の栽培面積、収穫量と比較するといずれも当時の三%に激減している。
 野菜栽培は、御荘町ではきゅうり・すいか・キャベツが中心作目であり、いずれも年間出荷量は三〇トンを超え、じゃがいもも一〇トン程度を維持している。近年は一寸そらまめ・ブロッコリーが販売用として栽培されるようになった。城辺町の場合も、主要野菜はきゅうり・だいこん・すいか・キャベツなどである。きゅうりは五〇年ころまではハウス栽培が盛んに行なわれ、作付面積は一二ヘクタールに達していた。しかし、連作障害や他産地との競合による価格の低迷もあり、現在は約六ヘクタールに減少している。一本松町も五〇年ころは約一〇ヘクタールあったが、現在は約四ヘクタールに減少している。南宇和郡の場合、大消費地に遠いことや出荷機構が十分に整備されていないこともあって、生産野菜のほとんどが郡内の青果市場への個人出荷でまかなわれている。しかし、最近は地域重点作目に選定したにんじん・一寸そらまめ・ブロッコリーを中心に団地が形成されつつある。
 花木についてはストックとジャンブーの栽培が軌道にのっている。切花用のストックは四七年に導入され、施設栽培が行なわれており、一部に菊も導入されている。一本松町広見、御荘町和口、内海村須の川などに団地が形成されている。出荷は松山が七割、宇和島が三割である。香辛料植物ジャンブー(ブラジル原産、菊科)は昭和五〇年に導入され試験栽培が行なわれていたが、同五二年より城辺町長野地区で栽培農家と高砂香料植物センターとの間で本格的な契約栽培が始まった。当初は二・五ヘクタールを一八戸が栽培していたが、同五九年度から大幅に面積が拡大され六ヘクタールとなり、栽培農家は二八戸となった。生産物は歯磨用香料に使用されている。収穫作業は以前は全草抜き取りであったが、現在では動力茶刈り取り機を使用して花だけを年間に四回刈り取り、主成分のスピラントールの含有率を高めることに成功している。城辺町では特産銘柄育成事業で定着化を図っている。

 畜産業の概観

 南宇和郡の畜産はブロイラーと養豚が中心であり、農業粗生産額に占める割合は高くなっている(表7―7)。しかし、全体的には食肉の周期的価格変動や乳量の生産調整及び飼料費の高騰などによって経営が圧迫されることも多い。粗飼料の生産基盤を確保することが経営安定のために必要であるとして、養豚ではしゃくちりそば、肉用牛や酪農では年間自給飼料の確保が計画的に進められてきた。また、畜産環境問題は有機物循環の面から土地還元がみなおされてきている。

 肉用牛と乳用牛

 南宇和郡の温暖な気候は和牛飼養に適していると言われてきた。この自然を背景として、明治一〇年(一八七七)城辺町深浦に小幡牧場が小幡進一によって開かれた。最初は八〇町歩の原野に和牛二九頭を放牧していたが、最盛期には三〇〇頭にも達したと伝えられている。小幡牧場は明治三〇年(一八九七)に閉鎖されたが、城辺町の住民の畜産に対する関心は今でも強い。
 昭和四〇年代の初めまで、牛は役肉兼用家畜として六割以上の農家で飼養されており、郡全体では一四〇〇戸が肉用牛を飼養していた。しかし、動力農業機械の普及に伴い飼養戸数・頭数とも激減し、五五年にはわずか五二戸(約四二〇頭)になった(表7―8)。多くは多頭飼養を行なっているが、「高齢者生きがい対策肉牛貸付事業」による一頭飼いや、闘牛用の牛を飼養しているものも含まれている。
 乳用牛は四〇年ごろまでは城辺町を中心に約五〇戸が飼養していたが、市場や乳価などの関係から飼養戸数は減少しており、五八年現在わずかに三戸となっている。

 豚

 養豚業は、三〇年代後半から急速に農家の間にひろまり、南宇和郡においても四〇年には七一〇戸が飼養していた。その後、豚価変動やし尿処理問題の影響を強くうけ、小規模飼養は姿を消した。五五年現在、御荘町・城辺町・一本松町で約一五〇戸が多頭飼養を行なっている。一戸当たり飼養頭数は御荘町六四頭、城辺町一五二頭、一本松町二三頭となっている。

 採卵鶏とブロイラー

 採卵鶏の飼養は一本松町が最も多く約一万五〇〇〇羽であるが、他はいずれも一万羽以下で小規模である。これに対しブロイラーは養豚とともに重要な地位を占めており、農業粗生産に占める割合も西海町を除いて一位~三位に位置している。昭和五五年現在、南宇和郡全体で六三戸がブロイラー飼養を行なっており、飼養総羽数は三四万羽に達している。一本松町が全体の二分の一を占めており、町内の農業粗生産額に占める割合も三七%に達している。

 南宇和郡の闘牛

 宝暦~明和年間(一七五一~七一)に豊後水道を航行中のオランダ帆船が、折からの暴風雨にあい西外海村(現西海町)の沖を漂流中、同村福浦の漁民がこれを救助した。このお礼として二頭のオランダ牛が贈られたが、この牛は飼っている間にしばしば角を突き合わせて格闘していた。オランダ牛はやがて地元の牛と交配し、福浦牛とよばれるようになり、御荘一円にひろがった。このようにして、伊予牛の代表とされ、また南予闘牛の草分けとして知られる御荘牛が誕生した。
 農夫たちの間で牛の突き合わせ(闘牛の意)は農閑期の娯楽の一つとして行なわれていたが、最初に突き合わせの土俵ができたのは明治七年(一八七四)~八年ころのことであり、場所は御荘の唐峠であった。入場料を取り始めたのは明治二六年(一八九三)津島町御損の土俵からである。これは牛主の負担を少なくし、闘牛を盛んにすることも目的としていた。闘牛熱が盛んになるにつれて、明治三〇年代より「横綱」の称号も出るようになった。大正二年(一九一三)には、名牛として知られていた「小幡牛」をはじめ南宇和郡の名だたる闘牛牛一〇頭が、東京で越後牛との試合も行なった。なお、闘牛最盛期には三〇〇頭を越える闘牛牛がいたとされている。闘牛の禁止令は藩政時代~大正時代まで何回もあり、戦後も昭和二三年に闘牛禁止令が出された(解禁は二五年)。しかし、そのたびに南予の人々は常に闘牛の復興を求めて運動してきた。
 現在、南宇和郡では本場所が年間七回開催されており、これ以外にも観光闘牛がサンパール闘牛場で開かれている。闘牛牛として登録されている牛は約一〇〇頭であり、一場所に三〇頭が出場している。周知のごとく宇和島も闘牛が盛んである。

表7-6 南宇和郡の農業

表7-6 南宇和郡の農業


表7-7 作物別粗生産額の順位

表7-7 作物別粗生産額の順位


表7-8 南宇和郡の畜産業

表7-8 南宇和郡の畜産業