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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 南宇和郡の遠洋漁業と漁業出稼


 南宇和の漁業の概況

 表7―9の階層別経営体数から愛媛県における南宇和郡の漁業の姿をさぐると、従来の“とる漁業”から“つくる漁業”への転換が読みとれるが、太平洋南区の中ではなお他の地域に比べて漁船漁業の傾向が強く残っている。特に大型漁船の比重が大きいことが、表7―10の「一経営体平均従事者数」からもわかる。中でも特に御荘町・城辺町の平均従事者数がきわだって大きい。これは御荘町の大中型まき網と中型まき網、城辺町の中型まき綱(垣内など)とかつお一本釣(久良・深浦など)があるのが大きな理由と考えられる。五三年の統計から漁業別生産額のシェアをみると、大中型まき網は七・一%、中型まき網(あぐり網)五・三%を占めるのに対し、かつお一本釣は〇・九%にすぎない。しかもかつお一本釣はその漁業の性格から季節性がきわめて強く、安定性と地域への影響もまき網にはおとる。以上のような理由から、南宇和の漁業についてはまき網を中心に考察をすすめる。

 まき網漁業と南宇和

 五七年に刊行された愛媛県まき網漁業協議会編『愛媛旋網漁業史』を主たる資料として以下、述べる。
 まき網漁業は回遊魚を網で漁獲する漁船漁業で、あぐり巾着網、縫切り網漁業などの総称である。昭和三七年に四○トン以上の船舶を使用する場合は「大中型まき網漁業」として農林水産大臣の許可を要し、五~四〇トンの場合は「中型まき網」として農林水産大臣の枠付けを要する知事許可漁業となった。
 宇和海におけるまき網の歴史は、宇和島藩・吉田藩の漁業政策により発達し、船曳網から明治に入って火光利用の刺網へ推移し、明治二九年(一八九六)に米式巾着網の導入で、明治中期以後の本県の巾着網の隆盛に大きな刺激となった。実用化されたのは明治三六年(一九〇三)で、南宇和では明治三八年(一九〇五)に二八統が新設され、改良揚繰網と称した。ここでは巾着網も含めてまき網と呼ぶ。両者の相違は分銅使用の有無で、分銅使用のまき網を巾着網と言う。南宇和の改良揚繰網は明治末期に千葉県より高知県宿毛方面を経由して導入されたことは『内海村史』に記載されている。また、明治四〇年代の初めには西宇和郡穴井で本県初の機械製網が始まり、麻から綿へ漁業資材の転換、革新が進んだ。
 これに対し大正時代は漁船の動力化・大型化・漁網の大型化、これに伴う漁場の沖合化、操業方式の改良などがめだった。このため他の漁業との対立、紛争が増えた。
 大正二年(一九一三)の『水産要覧』によると、まき網は県内で六七統、内、南宇和郡は二一統となっている。さらに大正八年(一九一九)の『愛媛水産要覧』では揚繰網と巾着網とが区別して記載されており、両者合わせて県全体で六八統中二七統が南宇和郡となっている。このころ御荘町中浦の浜田祐太郎は、漁場の沖合化に伴い往復に多くの時間を要するため動力船の使用を考え、網船と灯船の曳航を考えついた。これにより揚繰網に機動性を付与した。これが本県におけるまき網船の動力化第一号で、飛躍の第一歩となった。
 昭和に入って、五年以後集魚方式が石油ガス・アセチレンガスの方式から蓄電池の集魚灯になってまき網の一大革新となり、漁獲も著しく増大した。これが現在の発電機方式に移行したのは二二、二三年ころからである。戦時中の激動をへて二四年には県下のまき網九三統中、南宇和郡が過半の五三統を占めるに至った。しかし三〇年を頂点として豊後水道、宿毛湾のいわし類の水揚は激減した。三〇年の水揚四万六〇〇〇トンが三五年には一万八〇〇〇トンになった。
 現在の宇和海のまき網は、西宇和郡が中型一三統、小型七統、北宇和郡が中型七統、小型五〇統と大中型三統、南宇和郡は中型一四統、小型三統と大中型一〇統となっている。特に御荘町の大中型八統が注目され、漁獲高も五三年にいわし類合計約六万トンに回復している。

 まき網漁業の基地 中浦

 本県まき網漁業の発展は県外出漁によってもたらされたものとも言える。沿岸漁業不振の打開策として昭和二五年以来県外出漁の気運が強まり、御荘町中浦の大浜水産(株)が同二七年に島根県浜田市に進出、これがまき網の県外進出の第一号となった。続いて山口県、さらに二九年にはまき網の本場、長崎県に進出し対島・五島沖へ出漁してその技術の優秀さを示した。宇和海いわし漁業不振の三〇年代に南宇和郡を中心にまき網船は競って日本海沿岸各地へ出漁したが、種々の制約から多数のまき網船が引揚げて帰った。その中で大浜漁業は三五年には東シナ海のあじ、さば漁場に進出し、これとの競争に敗れたさばはね釣船(三瓶町など)は消滅した。さらに三九年に新潟県に進出して北部日本海及び中部日本海に出漁した。この年大中型まき網六統となり、西日本第一位の船団となった。四二年には岩手県久慈市に小袖漁業(株)を設立、北部太平洋で操業を始めた(図7―3)。四六年以後グループ全体で大中型一〇統、中型八統、いか釣三隻を所有、所有船量八〇〇〇トンに達している。さらに五六年には海外まき網漁業をミクロネシア・パプアニューギニア方面で二月~六月の四か月間操業し、かつお及びきはだの水揚を行ない、まき網の海外出漁の先鞭をつけた。又、太平洋中央海区では四九九トン型大型まき網でかつお・まぐろの周年操業を行ない焼津に水揚している。
 以上のまき網の基地として発達した中浦港は御荘湾南岸にある人口約一七〇〇人の第三種漁港である。大浜漁業関係は現在、大浜漁業・大祐漁業・小袖漁業・浜田産業の四社より成り、従業員四三〇人で、この内、中浦出身者は約二〇〇人いる。その他には長崎県の五島や高知・山口県出身者も多い。中浦にはこの他、丸武水産の九九トン型いか釣船二隻があり、日本海、三陸沿岸に出漁しているため、遠洋漁業の基地といえる。大浜グループの四社は、国内の各海域へ進出するため別会社組織にしたもので、グループ全体の水揚高は約年産八〇億円前後といわれている。造船所から網の修理工場、冷凍倉庫、保冷車までそろえた県下最大の水産企業のグループ基地である。しかし水揚は中浦港へはほとんどしない。現在主力の一一六トン型まき網は、網船一隻(二八名乗組)、灯船(七名乗組)二隻、運搬船 (九名乗組)三隻で構成される場合が多い。九州西部海区や東海・黄海海区などへ出漁すると、毎月一回の一斉休漁日(旧暦一五日の満月で集魚灯の効果が少ない不漁日)に休養や修理のため帰るのみで、水揚は市場の動向をみながら、博多(福岡)や唐津(佐賀)・松山などへ水揚する。又、漁船の操業効率を上げるため、同一漁区で周年操業しない場合もある。例えば一~三月は南部太平洋海区でいわし・あじ・さば類を、四~八月は北部太平洋海区でまぐろ、かつおを、九~一二月は同じ漁区でいわし、さばの操業を行なう場合もある。この場合、かつお・まぐろは塩釜へ、いわし・さばは八戸や銚子などへ水揚される。従って、統計にあらわれた中浦港の実態は本当の姿からはかけ離れたものというべきである。

 豪州真珠貝採取漁業と南宇和

 愛媛県人の漁業出稼の例は朝鮮への出稼など多いが、技術の優秀さが決定的要因になったものはオーストラリア真珠貝採取漁業の他に例をみない。それだけに当時の漁民には魅力ある出稼であったが、反面厳しい労働環境で犠牲者も多かった。
 オーストラリアの真珠貝採取がいつごろから始まったか明確ではないが、クィーンズランド州北部のヨーク岬半島北端にあるサースデーアイランド(以下木曜島と呼ぶ)では明治三年(一八七〇)に真珠貝(シロチョウ貝)が発見されて以来急速に採貝業の中心に発展した。木曜島の他、ブルーム・ダーウィンなどであるが最も遅れて始まったオーストラリアの真珠貝採取漁業が、今世紀初頭(明治三〇年代)には他の採貝地を圧倒するに至ったのは、全く日本人のダイバー(潜水夫)、ことに和歌山県南部と本県南予地方のダイバーの優秀さに負う所が大である。明治一二、一三年ころから急増し、明治二五年ころの木曜島への出稼者は約五〇〇人、明治三〇年(一八九七)には一〇〇〇人を超えた。主要出稼先は木曜島方面と、本県人が多い北西部のブルーム方面であるが、以下南予人を中心に述べる。その資料は、オーストラリア国立大学のシソンズ、元国際協力事欝団の押本直正、新宮商業の久原脩司らによるオーストラリア現地に残る日本人の墓碑名の分析であり、その内、ブルームの本県関係分が表7―11である。本県は和歌山に次いで多くの人を送ったが、それだけに死亡者も多い。出身地は西宇和郡と南宇和郡が多い。これは三瀬ハウス(ブルーム)の経営者三瀬豊三郎(三瓶町出身)と、弟の地元での紹介活動のように地縁や血縁による紹介、呼寄せなどが多かった為と考えられる。ブルームの最盛期は明治四〇年代で、死亡者も又この時期に多い。原因は潜水病が最も多く、次いで水不足による雨水利用からくる赤痢が多発し、又野菜不足と重労働による脚気も多く、二〇歳台中心に若くしてその生命を失った人が多い。
 もう一つの資料が、表7―12の「ヘイ収容所名簿」である。これは第二次大戦の当初(昭和一七年)の生存者名簿である。木曜島とブルームの二方面の日本人を、開戦のため併せて収容した為、名簿ではいずれの方面にいたかが不明であるが、出身地が明確に示されており、今後の生存者の確認作業により第二次大戦前後の真珠貝採取漁業の実態解明に役立つと考える。木曜島へはホンコン経由で行くのが一般的であったが、ブルームへはシンガポール経由でイギリス定期船で行った。シンガポールにはブルームの労働者斡旋所ができ、船待ちの宿泊所もあった。又、ブルームでは三瀬ハウスが本県人進出の大きな足がかりとなった。
 出稼を考える場合、その原因として産業構造や所得を通じて地域の貧困を考えるのが一般的である。過去のデーターに乏しいが、相対的に貧困である事が実証されたとしても、これが即オーストラリア真珠貝採取漁業への進出の主たる原因と言えるだろうか。それよりも、閉ざされた南予の世界であっただけに、なおさら外の世界への進出の意欲を強めた南予人の隠れた半面を思うのである。第二次世界大戦という政治的中断により真珠貝採取漁業は幕を閉じたかに見られるが、現在も四名の本県人がブルームで灯を消さずに活躍している。その内三名が南予人である。







表7-9 経営体階層別経営体数

表7-9 経営体階層別経営体数


表7-10 1経営体平均従事者数

表7-10 1経営体平均従事者数


図7-3 中浦港 大中型まき網の操業区域

図7-3 中浦港 大中型まき網の操業区域


表7-11 ブルームの日本人墓碑名(本県関係)(№1)

表7-11 ブルームの日本人墓碑名(本県関係)(№1)


表7-11 ブルームの日本人墓碑名(本県関係)(№2)

表7-11 ブルームの日本人墓碑名(本県関係)(№2)


表7-12 ヘイ収容所収容者名簿

表7-12 ヘイ収容所収容者名簿