データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 篠山


 自然景観

 篠山は愛媛・高知の県境にそびえる標高一〇六四mの山地で、南予随一の名山といえる。篠山が名山たるゆえんは、その自然景観にすぐれていること、また人文景観にも富むことによる。
 篠山の自然景観として、まず第一にあげられるのは、山頂からの眺望にすぐれている点である。四周を圧してドーム状にそびえる篠山からは、その視野をさえぎるものがなく、眼下に宇和海のリアス海岸が手にとるように見下ろされる。晴天時には遠く佐田岬半島はおろか、九州の山並みも望むことができる。目を南に転ずれば、足摺岬からさらに南方に太平洋の水平線がどこまでも続いているのが眺望できる。
 第二にすぐれている点は、その豊かな植物景観である。特にその景観に富むのは天然林の保存されている山頂付近である。頂上付近の一段と高い地点を連華座というが、ここには、みやこざさが一面に地肌をおおう。篠山の地名はここに由来するものと考えられている。山頂から南西にドーム状に伸びる尾根は「入らずの森」である。千古劣の入っていないこの森には、こうやまき・あけぼのつつじの大群落がある。四月の下旬から五月上旬にかけては、あけぼのつつじがピンクの花を咲かせ、こうやまき・はりもみの濃緑と、地面をおおうみやこざさの淡い緑に映え、山上に極楽浄土を現出する。中腹から山頂付近まで、かし・しいなどの照葉樹林帯のおおう篠山は、いのしし・さる・しかなど野生動物の生息密度の高い山地でもある。山頂の北側、瀬戸黒森との分岐点付近には、「ししの踊り場」と呼ばれる地名もある。
 第三にすぐれている点は、原生林の中をぬって流れる渓谷美である。南斜面に流れ下る篠川の渓谷、北斜面を流れ下る祓川渓谷は、ともに急流で随所に滝と早瀬をみせる。これは篠山の隆起運動の激しさを物語っているものといえる。篠川流域には、松ヶ滝・虹ヶ滝・白滝などの滝がみられる。篠山からその南斜面の地質は中生代四万十層群の砂岩と頁岩よりなるが、これらの滝はいずれも砂岩の硬岩の部分に形成されている。これに対して篠山の北斜面はホルンフェルスと花崗岩よりなる。花崗岩は新生代第三紀に、中生代四万十層群をつらぬいて貫入したものであるが、その熱変成によって硬岩のホルンフェルスが形成された。祓川渓谷の本・支流ぞいには、三輪の滝・九段の滝・やけ滝などがあるが、このうち三輪の滝は約一三〇mの花崗岩の岩肌を落下するナメリ滝であり、九段の滝とやけ滝はホルンフェルスの硬岩にかかる高さ二五m程度の滝である。篠川・祓川の両渓谷ともに、川ぞいには天然広葉樹が保存されており、秋の紅葉は美しい。

 人文景観

 篠山は地元住民から、「おささ」と尊称され、山岳信仰の山として知られる。頂上には篠山権現社がある。その起源は社伝によれば、「篠山は用命天皇の勅願所にして、開基は果古念日也」とある。これによると遠く大和朝時代に開山したことになるが、これには確証はない。しかしおそくとも室町時代に盛大に祀られていたことは、山麓の正木歓喜光寺に残る鰐口の銘に寛正の年号があることによって明らかである。
 予土境域にそびえる篠山は、その西南方に浮ぶ沖ノ島とともに、しばしば伊予・土佐の両国間で境界争いが繰り返された。史上最も有名な紛争は、明暦・万治(一六五五~六一)のころの騒動であった。当時正木村庄屋助之丞らは宇和島藩の態度が煮えきらないので業をにやし、一二か条にわたる訴状を携えて江戸表に出頭、幕府に上訴した。これに対して土佐側では傑物野中兼山が先頭にたち、これまた膨大な訴状を持って訴え出た。時の老中松平伊豆守もさすがに裁定に苦慮し、三年後の万治二年(一六五九)一一月にようやく民事の訴訟として結着した。その結果、篠山権現は両国共同で奉祀することをはじめ、境界についても一応の線をひき、ようやく紛争はおさまった。山頂には明治六年(一八七三)建立の「南伊予国・北土佐国」の国境の碑があり、そのかたわらには、古歌に国境の目印としてうたわれた直径二mたらずの矢筈の池がある。
 篠山南麓の正木の蕨岡家は、古くから篠山権現の加護によって富み栄え、「戸たてずの庄屋」として知られている。暴風雨以外の夜は戸を閉めないが、かつて盗難にあったためしがない。その敷居は盗難除けの護符として、篠山権現の参詣者が削りとって持ち帰るのをならわしとした。その蕨岡家はすっかり没落しているが、すり減った敷居と、屋敷内にみられる楠の巨木に、往時の繁栄の跡がしのばれる。

 観光開発と観光客の入込

 自然景観と人文景観に富む篠山は、昭和三九年三月篠山県立自然公園に指定され、さらに同四七年一一月には足摺宇和海国立公園の一角に指定された。また山頂付近二七六ヘクタールは営林署から昭和四八年に風景林にも指定されている。
 篠山への登山道は南方の一本松町正木から登るものと、北方の津島町の大本から登るもの、それに高知県宿毛市の日平から登るものがあり、共に標高差は九〇〇~一〇〇〇m程度で徒歩にて三時間前後を要した。しかし現在は南方の正木側と東方の日平側からは自動車道が通じ、この両道は標高八〇〇mの地点で結合し、ここから山頂までは徒歩で四〇分程度で達することができるようになった。正木側からの道路は営林署の手によって昭和四五年正木林道として着工され、同五二年完成した。日平側からの南郷林道は昭和三七年に着工され、同四三年に完成した。両林道は昭和五四年県道に昇格したが、その会合点が旧登山道との接点であり、ここに二か所の駐車場と昭和四六年に建設された宿泊施設の篠山荘がある。北側の祓川渓谷ぞいにも営林署の手によって、標高六五〇mの地点まで林道が建設されている。
 篠山の登山者数は、一本松町役場の推計では、昭和五七年度で約七〇〇〇人、うち九八人が宿泊している。登山者数の最も多いのは四月と五月のあけぼのつつじの開花期であり、この時期に約七〇%のものが登山している (表7―23)。



表7-23 昭和57年度の篠山の登山者数

表7-23 昭和57年度の篠山の登山者数