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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 足摺宇和海国立公園


 国立公園

 わが国で国立公園が設定されたのは、昭和六年のことである。昭和二五年には、国立公園法の一部を準用して国定公園を設け、さらに三二年には国立公園法を廃止して新たに自然公園法をつくった。同法の目的は、いうまでもなく美しい自然、雄大な風景を永久に保護するとともに、国民の休養・観光・保健などに役立てるのが目的である。
 その過程の中で、南予宇和海沿岸地域の一部は、昭和三〇年四月に足摺国定公園に指定され、さらに三九年三月には指定地域が拡張され、四七年一一月一〇日には足摺宇和海国立公園に昇格した。高知県西部から続く地域で、面積は海域を除いて一万九〇六ヘクタールであるが、愛媛県分には二四九・八ヘクタールの特別保護地区と四七八一・三ヘクタールの特別地域とがある。市町村では北から東宇和郡宇和町、北宇和郡吉田町、宇和島市、北宇和郡広見町・松野町・津島町、南宇和郡内海村・御荘町・城辺町・西海町・一本松町が含まれる。海岸線の延長は約四五〇㎞に及び、典型的なリアス海岸で、九〇余の島々が散在する。かつてこの地域には「耕して天に至る」といわれた段々畑景観が見られたが、現在では段畑の大部分は荒廃し、それに変わって波静かな入江に真珠とはまちの養殖が盛んである。海岸には太平洋の波濤による美事な海食地形と暖地性常緑樹の自然林が見られ、蒋淵半島・由良半島・西海半島・日振島・御五神島・鹿島などが主な景勝地である。一方、内陸にも滑床渓谷、篠山をはじめ渓谷と森林の美が景勝の地として点在している(図7―10)。

 海岸の景観

 由良半島から南は、南が海に面する海岸部はもちろん、日振島・御五神島・鹿島・横島などの島々も、南及び西が崖になっているのが著しい特色である。崖の高さは普通七〇mぐらいであるが、鹿島では一四〇mに達し見事である。西海町の高茂岬と城辺町の天嶬の鼻(近くに高野長英ゆかりの砲台跡がある)は、このような断崖と奇岩・怪岩の雄大さが観光資源となっている。
 由良半島の西端には海老洞がある。深さは一五〇m、高さ三mから五m、幅は五mから一〇mである。石灰分か沈澱し、砂岩頁岩の天井に鐘乳石が垂れ下っているところもある。鹿島の穴は入口が大きく、深さ一二〇m、高さ二〇m、幅三〇mあり、漁船で入って行け、中には珍らしい魚族もいる。
 砂浜や潟の地形も多い。この地域で砂嘴の最も見事なのは、内海村の須の川のバベの砂嘴である。マハマ(真浜)と称し、また池沼ともいう。砂丘の上に弁天様を祭っている。もとは北の方に口があいていて船溜りにしていたが、後になって水路変更し、今は南があいている。海岸に群生するウバメガシの林と、それに続く沼地の周辺を利用して、昭和四八年度以降、県によるレクリエーション基地としての開発が進められてきた。

 宇和海海中公園

 鹿島を中心とした宇和海は、昭和四五年七月一日に、わが国最初の海中公園として指定を受けた。全国七県一〇か所のうちの一つである。昭和四七年一一月一〇日には足摺宇和海国立公園に昇格した。
 海中の観光開発に対する世界的な関心の高まりの中で、わが国においても、昭和三七年以来海中公園がにわかにクローズアップされた。海中公園は、これまで陸地に限られていた国定、国立公園を海域にまで広げ、海中の動植物や資源を保護しながら新しいレクリエーション・ゾーンとして海域の利用増進を図ろうとするものであり、昭和四五年五月、自然公園法の一部改正により新たに制度化されたものである。
 「周辺がすでに自然公園で観光施設を持ち、海中透明度一〇m以上、水深二〇m以内の浅海で、そのうえ海中動植物が豊富で変化している海底地形」このような変化に富んだ美しい海中景観を永久に保存し、それを国民の観光意欲を満たし、保健に役立てたりしようというのが厚生省による海中公園設定のねらいであった。全国二〇数か所が名のりをあげた中で、最初の段階から最有力候補地としてランクされてきたのが南宇和海であり、南宇和郡西海町鹿島・横島周辺の「海のお花畑」である。
 海中公園指定地区は一号から六号まであり(図7―11)、一号は一の碆・打留碆、二号は横島・中崎、三号は鹿島・ビシャゴ鼻、四号は鹿島穴・利兵衛鼻、五号は黒碆、六号は赤碆である。日本屈指のお花畑として全国的に知られ、透明度二〇数m、すきとおるように明るい海中に、面白く形づくられた岩礁がつらなり、テーブルサンゴやウミトサカの類が一面に群棲し、その間を色鮮やかな熱帯魚が乱舞する。あたかも竜宮城のような景観をみせる海中資源の自然景観は世界一といわれ、あたりの海中は「宇和海特殊海中資源群」として県の天然記念物に指定されている。
 西海町では、黒碆付近を中心に、グラスボート(ガラス底船)で海中探勝が試みられる。鹿島を基地に一巡三〇分の航程で、鹿島渡航の定期船と連絡して四隻が就航している。なお、周辺の海中探訪コースとしては、不定期便(五人以上で出航)であるが、御荘町長崎から約一時間三〇分の三ッ畑田島を巡るコースもある。

 西海町と観光

 西海町が観光を町是としたのは昭和三〇年であり、その目玉となったのが鹿島である。
 鹿島は、西海町内泊から海上三㎞のところにあり、周囲約六㎞、最高二一三mの比較的険しい起伏の島である。旧伊達藩の狩猟地であったので、天然林の保存が良好であり、浜辺にははまゆうが咲き、ビロー樹が緑の葉をそよがせている。禁猟地区であったので野生の鹿や猿の生息地となっており、現在では餌付けがなされ重要な観光資源になっている。そのほか、荒波によって形成された海崖・海食洞の地形が目を楽しませてくれる。また、近海はいしだいで代表される著名な磯釣りの好漁場で、鹿島はその一つの中心でもある。
 鹿島には、昭和二八年すでに宿泊施設として「海の家」(公立学校共済組合)が出来ていたが、昭和三四年になると、休憩所、船着き場が整備され、三七年には国民宿舎「西海荘」も店開きした。海中公園構想が持ちあがると、町は四〇年夏に初めてグラスボートを、高知県土佐清水市竜串から借り受けて就航させ、翌四一年にはグラスボート「第一あおぎり」を建造した。さらに四三年には一隻を新造して観光客へのサービスに努めた。そのほか、四三年には島一周の「自然研究路」も建設されている(表7―30)。
 宿泊施設も四二年には中泊・外泊に民宿一〇軒が誕生し、新鮮な魚料理と家族的なサービスで大受けした。また、四四年中には国民宿舎「西海荘」が拡充され、西海半島一周の産業道路も完成した。
 その後もひきつづいて観光船及びグラスボートの建造、桟橋の建設・整備、鹿島露天水族館の建設などを行なう一方、昭和四八年四月七日からオ二ヒトデ一掃作戦の開始、同八月から海中公園祭を始めるなど、環境整備や観光宣伝にも力が入れられた。
 西海町の中心集落である船越が鹿島観光の基地になっており、鹿島行の定期船はここを起点として一一便ある。昭和四九年には西之浜駐車場が完成し、現在二〇〇台駐車可能であるが、定期船は鹿島の対岸にある中泊にも寄港し、中泊が公園口の観があって、民宿も多い。集団施設地区は鹿島にあり、桟橋・苑地・宿舎・野営場・船着場・グラスボート乗り場などが東岸一帯に設置されている。宿泊施設としては、鹿島に定員一二〇名の国民宿舎、外泊に共済組合保養所(定員四〇名)があるほか、船越に四軒、中泊に一軒の旅館がある。民宿は最近減少してきたが、内泊に四軒、中泊に二二軒、外泊に七軒が営業している。
 昭和四二年の集団施設地区利用者数は一二万人で、季節別にみると七・八・九月の三か月にその八〇%余りが集中しており、観光客の三分の二が団体利用者であった。昭和五七年における施設利用状況は、国民宿舎五八七五(うち宿泊四九一〇)名、定期船「かしま」六万一三九九名、グラスボート「あおぎり」五万一二三六名、船越駐車場一万二二二一台である。季節別にはやはり夏の三か月が多いが、三月から五月にもかなりの利用がある。
 鹿島及び海中公園は、松山や高知からの時間的遠隔性が開発の障害の一つであったが、現在では南予における諸交通路の整備に併せて、昭和五〇年三月三〇日に開通した西海有料道路によって時間的距離は急速に短縮され、今後の開発に期待が寄せられることになった(表7―31)。

 民宿

 西海町中泊に民宿が発生したのは昭和三七・八年頃のことである。当時、すでに海岸ばたには、行商人やお遍路さんを臨時に宿泊させていた家が四軒ばかりあって、そのうち三軒が民宿をはじめるようになった。
 その後、高度経済成長にともなって観光客が増加したのと、三八年四月完成の国民宿舎の規模が小さかった(宿泊人員五〇人)こともあって、役場のあっせんがあったこと、四〇年の組合の結成を通じて急速に増加していった。
 釣り客の利用のほか、海水浴客や民宿のよさを求める観光客の間で、低料金(四八〇〇円)とあたたかいもてなしが人気を呼んだが、安定成長下における観光旅行の伸び悩みと、交通の発達にともなう日帰り観光の増加により減少し、昭和五八年八月現在西海町全体で四六軒(中泊二四、外泊七、内泊五、福浦三、武者泊七)である。
 釣り客相手の渡船をもつものと宿泊だけのものと両方があり、福浦、武者泊はほとんどが渡船をもっているが、中泊・外泊・内泊では宿泊のみのものが多い。専業はわずかで、ほとんどが稚貝作業の手伝いなどとの兼業である。
 フィッシングセンター内にある民宿組合の配客明細表(昭和五六年度)によると(ほかに、直接申し込みの者も多い)、中・外・内泊地区の年間利用者数は二七七四人であり、月別では八月一三七一人、七月六二〇人、五月二九二人、三月一三四人の順となっている。

 外泊の成立

 外泊は前面に豊後水道をのぞみ、東は女呂岬、西は道越の鼻によって囲まれている。隣接する中泊が開発され集落が形成されたのは元禄九年(一六九六)であり、江戸末期には人口増加のため、各家々は大家族となった。このため、何らかの方法で分家しなければならない状況であった。集落のリーダーである吉田本家によって隣の谷である外泊への分家移住が計画され実行された。集団移住が行なわれたのは慶応二年(一八六六)であり、吉田本家も自ら三男の喜三郎を分家移住させた。全戸の家屋ができ上がり、移住が完了したのは明治一〇年(一八七七)ころである。戸主の生年は、文化年間(一八〇四~一七) 一人、文政年間(一八一八~二九)二人、天保年間(一八三〇~四三)二五人、弘化年間(一八四四~四七)四人、安政年間(一八五四~五九)二人、文久年間(一八六一~六三)二人、慶応年間(一八六五~六七) 一人、不明七人とされている。戸主の多くは三〇才~四〇才代の壮年であり、体力的にも精神的にも意欲的に開発の仕事に従事したものと推定されるが、中には一〇代のものもいた。
 明治一二年(一八七九)の戸籍によれば、外泊には四六戸があり、人口は一九八人(男一〇六人、女九二人)である。同戸籍によれば、妻はほとんどが中泊からであり、これ以外はわずか九人である。昭和四〇年は四九戸で二一一人、五八年は五一戸で一八〇人となっており、開発移住の当時とほとんど同じである。移住を四〇戸程度に制限した理由には、集落の人口を養い得る力に限度があったことや主業であった「おもだか網」の操業には約四○人の漁労員が必要であったことなどをあげることができる。
 外泊の人びとの生活は開発当初から昭和にいたるまで漁業中心であった。戦前までは吉田春太郎(喜三郎の子)が網元として「おもだか網」や「沖取りあぐり網」を行なっており、人びとは必ず網元の船に乗り込み協働性の中に生活を営んで来た。女性も貴重な労働力であり、海苔やてんぐさの採取をはじめ、段々畑を耕し食糧をほぼ自給自足することが強いられていた。この段々畑も現在では雑草が生い茂り外観上拡姿を消しつつある。

 外泊の石垣集落

 集落としての外泊の開発は、当時としては一大事業であり、全体的計画が立案されていなければ実施できなかったものである。外泊の石垣集落は、中泊の傾斜地にある石垣集落を模してはいるが、中泊の場合は各戸が独自に石垣を構築したのに対し、外泊の場合は土地造成の段階から計画的に工事を行ない、また猛烈な季節風と潮風(冬季の猛烈な潮風を「しまき」という)を防ぐ石垣を各戸に配置した点では、きわめて特異なケースと言うことができる(図7―12、口絵写真参照)。
 移住当初は吉田本家の分家(喜三郎家)だけが平地に建ち、他の家屋はいずれも傾斜地に土地を造成した。移住から一〇〇年以上たった今日では、海岸は埋め立てられ、新しい家屋も建築されるなど変化は著しい。移住当初は家族構成も単純であり、しかも開発地であったから家屋は生活並びに漁業・農作業ができる最小限度のものであったと考えられている。各家のもつ基本的な形態は、一戸一戸の家が台風や冬季の季節風及び「しまき」を防ぐために石垣で囲まれ、中央に中庭を設けている。家屋は石畳の道に面している中庭を中心として各部屋が配置されており、道の反対側に母屋、北側に炊事場をとっている。炊事場の部分の石垣は一部を開いて窓の用に供しており、ここから海を見ることができるようにしてある。この窓を「海賊窓」と言う。集落の人びとは、南の山側を指して「ソラ」と呼び、北の海側を指して「オキ」と言う。オキを眺め、湾内に出入する漁船を見、また常に沖の様相や磯の波の状態によって天気を案ずるための窓であるとされているが、その言葉の由来は不明である。
 石垣や土留石積は現地より豊富に出る自然石を使用している。石垣の根元には約一トンの石を使っている場合もあるが、大部分は容易に持ち運びができる程度のものである。防風壁としての石積は幅約六〇㎝に積上げている。各家の敷地は六〇坪~七〇坪に分割しており、三戸に一区画の共同畑が設けられている。建物は約二〇坪を標準としており、棟はすべて海に面して直角である。屋根は切妻造技瓦葺が一般的であり、屋根の勾配は五寸勾配である。建物の建ち上がりはきわめて低く、軒先は石垣からわずかに出る程度であり、防災に重点をおいた造りとなっている。柱や天井の見掛りの部分は紅柄を塗っている。また、建物に使用している木材は種類が多く、周辺の山地にあった木を伐出して使用したものとされている。








図7-10 足摺宇和海国立公園

図7-10 足摺宇和海国立公園


図7-11 宇和海海中公園地区

図7-11 宇和海海中公園地区


表7-30 西海町における観光施設・設備の拡充(№1)

表7-30 西海町における観光施設・設備の拡充(№1)


表7-30 西海町における観光施設・設備の拡充(№2)

表7-30 西海町における観光施設・設備の拡充(№2)


表7-31 西海町観光施設利用状況

表7-31 西海町観光施設利用状況


図7-12 外泊集落の敷地配置図

図7-12 外泊集落の敷地配置図