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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

まえがき


―愛媛の地誌の系譜―

 古代中世の地誌

 奈良時代の官撰地誌に『風土記』がある。常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の風土記は残っているが、『伊予風土記』は鎌倉時代までは残っていたらしいが、今は逸文として、大山積神・天山・熊野峰・湯郡・伊佐爾波之岡・熟田津など八項目が残っているに過ぎない。「延喜式」や『和名抄』によれば、伊予国には次の一四郡があり、その下に七二郷があった。郷はもと里と称し、一里とは民戸約五〇の集落を称した。一郡は二〇里を限度とし、若し六〇戸に満つると一〇戸を割いて一里を置き、一〇戸に足らないものは大里に入れ余戸とした。当時の伊予の郡と郷を参考までに列挙する。
 ①宇摩郡―山田・山口・津根・近井・余戸 ②新居郡―新居・島山・井上・加茂・立花・神戸 ③周敷郡―田野・池田・井出・吉田・石井・神戸・余戸 ④桑村郡―寵田・御井・津宮 ⑤越智郡―給理・高橋・鴨部・立花・日吉・桜井・新屋・高市・拝志・朝倉 ⑥野間郡―宅万・英多・大井・賞多・神戸⑦風早郡―粟井・河野・高田・難波・那賀 ⑧和気郡―高尾・吉原・姫原・大内 ⑨温泉郡―桑原・垣生・立花・井上・味酒 ⑩久米郡―天山・吉井・石井・神戸・余戸 ⑪浮穴郡―井門・拝志・荏原・出部 ⑫伊予郡―神前・吾川・石田・岡田・神戸・余戸 ⑬喜多郡―矢野・久米・新屋 ⑭宇和郡―石野・石城・三間・立間
 この郷名をみると、今の愛媛県の市制の地名が全くない。これは延喜・延長・承平の時代には集落がまだ発達していなかったためと思われる。また浮穴郡に久万や小田の地名がなく、宇和郡に津島・御荘の郷名がなく、喜多郡に内子方面の地名もない。
 中世の『吾妻鏡』や『太平記』には東予地方の地名がかなり出てくるし、『源氏物語』や『枕草紙』には伊予すだれがとりあげられている。


 江戸時代の地誌

 藩政時代に地誌的なものが出ている。伊予国全域にわたるものには、慶安元年(一六四八)の知行高郷村数帳と元禄一三年(一七〇〇)の伊予国村浦記があり、各藩各村の石高がわかる。『伊予二名集』は文化年間(一八〇四―一八)、新居郡新須賀村の岡田通載が伊予国全域にわたって、城砦・社寺・名所・旧跡を述べている。新居郡は詳しいが、他地域は粗略である。『伊予古蹟志』は文政年間(一八一八―三〇)、松山藩の野田石陽が編集したもので、伊予国の一四郡の郷村の社寺・城砦・旧跡について記している。
 『愛媛面影』五巻は幕末(序文慶応二年)に今治藩の半井梧庵が実地調査して纏めた今までにない立派な地誌である。東予から郡毎に、城下町陣屋町・在郷町、社寺・名勝旧跡の由来・伝承・現状を記述している。有名な石鎚山や岩屋寺や松山城などを見事にスケッチし、カットが三七も載っており、引用書が一一四種もある。
 江戸時代の中予地方の地誌は南予や東予に比して少ない。『忽那島開発記』は慶長年間(一五九六―一六一五)の記録である。松山藩では宝永七年(一七一〇)領内の村吏に命じて編集させた『予陽郡郷俚諺集』がある。郡別に各郷村の沿革、社寺・旧跡を詳述している。
 『予州大洲御替地古今集』は寛政一二年(一八〇〇)に、菊沢与八が大洲藩領の郡中代官管内の各村(中予地方)について記述した地誌的な文書である。庄屋の由来・神社・寺院・古跡・古城址・伝説を記録している。
 『松山叢談』二七冊は歴代の松山藩主ごとに編年体に藩の古文書を採録したものである。史実は江戸時代のことであるが編集は明治一一年(一八七八)である。当時の大川文蔵の石手川改修のことや、吉田蔵沢家老が士族屋敷に蜜柑など栽植することを禁じた文章など、地誌的資料も少なくない。


 明治時代の地誌

 県全域にわたるものとしては、明治六年(一八七三)に石鉄県が編集した『伊予国地理図誌稿』一五冊がある。宇摩・新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉郡の伊予国の東半分の地誌が残っている。各町村別に境域・田畑面積・戸口・舟車数・牛馬数・物産・山川池・社寺などを記載し、所々に詳細な景観図が挿入されている。
 『伊予国各郡地誌』は明治一一年(一八七八)から一九年(一八八六)に亘って愛媛県庶務課が編さんした地誌で、明治八年(一八七五)太政官令により内務省地理局に納めた副本が残っている。内容は彊域・幅員・管轄沿革・里程・地勢・気候・風俗・地味・町村数・官有地・税地・貢祖・戸数・人数・牛馬・舟車・山林・道路・社寺・学校・病院・郵便所・物産・民業につき記し、各村別に右項目を記している。明治一一年に温泉郡、同一三年(一八八〇)に風早郡、同一四年に野間郡と和気郡、同一七年に越智・周布・桑村・久米郡、同一九年に新居・宇摩郡が納付されており、浮穴・伊予・宇和郡は未定稿となっている。
 『愛媛県農事概要』は明治二四年(一八九一)に、勝間田稔知事時代に、山本亀三農学士が主任で編集した農業地誌といえる。土地、九三品目の物産の生産量と価格などを郡市別にまとめた五年間の統計がある。また主たる農産物の詳細な由来が記述されている。県の累年統計は明治三八年(一九〇五)からでないと揃っていない愛媛県にとって、明治中期の貴重な農事概要書である。
 『伊予温故録』は明治二七年(一八九四)、新谷藩士の宮脇通赫撰の愛媛県全域を纒めた地誌的文献である。地図や表や写真はないが、内容は伊予の地勢、租税額と戸口、学校社寺数、国史に載っている伊予国の故事・地名考、伊予親王系図・越智系図・河野系図・伊予国の沿革略。市郡部は地勢沿革、田畑宅地の反別地価、戸口、名山河川、島嶼、官庁・学校・社寺、国史に載っている故事・物産・石高、明治二二年(一八八九)町村制、名所古跡・温泉・鉱石・名木等が詳細に記述してある。松山市以下一八郡を東から列挙している。
 『大日本地誌』第七巻四国篇は、山崎直方・佐藤伝蔵共編、明治四一年(一九〇八)博文館発行の双書である。第一篇地文・第二篇人文・第三篇地方誌の構成である。市と町の解説があり、当時の地図や写真に貴重なものがある。
 山下直平著『愛媛県地誌』A5判二一八頁は明治四三年(一九一〇)松山市港町、土肥文泉堂発行である。第一篇自然地理・第二篇人文地理・第三篇処誌で、一市一二郡について記述している。


 明治末期の郷土誌案内地誌ブーム

 明治四三年に愛媛県は町村に郷土誌の編集を命じ、目次を指示している。第一篇自然誌は 位置・面積・地勢・池滝・地質・気候・生物・変災の八章、第二篇人文誌は沿革・大字区域・戸口・官衙・経済財政・生業・教育・軍事・神社・宗教・民俗・衛生・交通・各種団体・名所旧跡・古墳・人物小伝の一七章よりなる。町村郷土誌は二~三年の間に大部分が作成されており、大半が残っている。北宇和郡の町村郷土誌は現在愛媛県宇和島地方局に揃えて保管されている。
 明治三七年(一九〇四)高浜虚子の編集兼発行の『松山道後案内―附伊予鉄道の栞』はB6判一一二頁で、それに貴重な広告や地図や口絵の写真がある。内容は地図・口絵・総説・海路・陸路・松山市・道後・伊予鉄道・本線・高浜駅・梅津寺・三津駅等々である。陸路は大洲宇和島街道・土佐街道・讃岐街道・今治街道など解説がある。地誌的案内書で読みやすい。
 明治四一年(一九〇八)松山市勧業協会発行東俊造編『松山案内』B6判三五〇頁(うち付録広告二〇〇頁)の内容は、松山市街全図・口絵・序説・海路・陸路・松山市・外側・古町・市の設備・交通機関・産業・財政・教育・官衙会社・社寺・名所・道後・高浜・三津浜・郡中・伊予鉄道(付録)・商工人名録・松山紳士紳商よりなる。広告や表に貴重な地誌的資料がある。
 小川薫水編『上浮穴郡案内』B6判一二六頁は、明治四三年久万町船田右文堂発行である。内容は郡の産業・人物・名所旧跡、各町村の顔役・人口・物産・交通・団体・出身人物を記し、特に久万町は詳細な職業と氏名があり、当時の商業形態の研究に貴重な資料である。
 小川薫水編『伊予郡の花』B6判一〇〇頁は、明治四四年(一九一一)郡中港町平井彩洋軒発行である。当時の写真や広告や商店の氏名や産業の説明で、伊予郡の経済状態が分かる。出合の渡船の写真など貴重なものがある。


 温泉郡誌

 愛媛県で郡誌のない郡もあるのに、『温泉郡誌』は三回出版されている。明治四二年(一九〇九)に愛媛県教育協会温泉部会編『温泉郡誌』A5判四〇二頁向陽社発行がある。内容は(一)沿革 (二)自然 (三)人文 (四)町村誌よりなる。大正五年(一九一六)には松田卯太郎編『新編温泉郡誌』A5判七五四頁松山石版印刷所発行がある。内容は(一)総論 (二)各論は五三章で町村誌である。大正一二年(一九二三)には温泉郡役所が『温泉郡勢』B5判五五五頁を発行している。内容は第一篇総論 第一章土地 二気候 三戸口 四職業 五住宅及建物 第二篇産業 第一章農業 二漁業 三工業 四会社組合農業倉庫 五交通運輸 第三篇教育 第四篇保健及道路 第一章出産 二死亡 三法定伝染病 四飲料水 五衛生機関 六道徳(私生子婚姻離婚) 第五篇財政 第一章税 二町村費歳出 三郡費 四租税滞納となっている。松山地方の元禄以来の米価の累年価格表(第一二二)などもあり、特色ある郡地誌である。
 『伊予郡の現勢』B6判二二七頁は大正一四年(一九二五)愛媛タイムス社発行の郡誌である。内容は総説・位置地勢・沿革・交通・産業・金融商業・財政・教育・歴代郡長・各種団体・人物・名物・景勝旧跡・歴史上人物・町村めぐり・拾遺よりなる。


 大正・昭和戦前の地誌

 大正三年(一九一四)に大和屋書店発行の『愛媛県案内』B6判二〇〇頁が出ており、当時の竹細工・木臘・和紙などの製造戸数・産額統計や広告などに貴重な地誌的資料がある。大正五年(一九一六)世界公論社発行の『愛媛県勢誌』A5判四六〇頁は安藤音三郎編である。内容は産業交通など統計が多く、図表や写真の参考になるものがある。
 『愛媛県誌稿』上下二巻は、愛媛県が明治四二年(一九〇九)に着手し、大正六年(一九一七)発行である。編さんは陶山斌二郎・羽田又永・景浦直孝の三氏で、貴重な統計資料も記載されている。上巻は第一部地理 第一篇概説第一章位置 二地勢 三海岸島嶼 四地質 五鉱泉 六動植物 七気象 八戸口 九交通。第二篇市部 第一章松山市 第一節地文 第二節人文 二温泉郡 三越智郡 四周桑郡 五新居郡 六宇摩郡 七上浮穴郡 八伊予郡 九喜多郡 十西宇和郡 十一東宇和郡 十二北宇和郡 十三南宇和郡。第二部沿革(上) 第一篇王朝時代第二篇武家時代 第三篇藩政時代 第一章伊予八藩の沿革 二伊予各藩の財政 三各藩の文芸。下巻第二部沿革(下) 第四篇県治時代 第三部神社及宗教 第四部教育 第五部産業 第一篇農産 第二篇畜産 第三林産四水産 五工産 六鉱産 附録一県治年表 二国宝及特別保護建造物 三著名人物伝よりなる。上巻九三四頁下巻一三二九頁の浩瀚な書物であるが、誌稿のため仮綴で地図や写真などカットは皆無である。しかし紙漉の原価計算なども入れてあり、内容は立派な地誌である。
 昭和戦前・戦時中は愛媛県の地誌に関する書物は出版されていない。昭和七年頃郷土教育や郷土調査は盛んで研究論文は出ているが、戦争に突入し、写真や地形図の利用も制限され、単行本出版の機会を逸した。


 戦後の地誌

 全県的なものに、田中啓再監修村上節太郎著、昭和二八年日本書院発行の双書『愛媛県新誌』B6判二〇〇頁がある。内容は(一)四国の雄県愛媛 (二)美しい海と山 (三)二つの気候タイプ (四)各地の生活様式(一六地域) (五)産業の地域性 (六)交通商業に恵まれぬ愛媛 (七)地域色のある民家と集落 (八)人口の分布と移動 (九)行政区と地理区 (十)結び の小冊子である。これより先、昭和二四年に実業出版社も清水書院も各県地誌の双書を出した。しかし小冊子である。
 『愛媛県史概説』上下二巻は、昭和三四・三五年に県が発行している。上巻五九〇頁、下巻六二〇頁のA5判の手頃な書物で、短期間に編集した。県史のうち地誌的な項目は、第一章地域社会の概観―(一)四国の雄県愛媛 (二)愛媛の自然環境と資源 (三)産業と交通 (四)都市と人口増加 第一二章工業地帯の形成 第一三章交通運輸通信の発達 第二四章戦後の産業交通と総合開発。外篇第四章風水害 第五章移民などである。目下刊行中の愛媛県史四〇巻は、このとき果たせなかった出版が二〇年後に結実したのである。
 『愛媛県産業地誌』は昭和四〇年にA5判五七八頁で次の四名が分担執筆している。「愛媛の漁村と水産業」武智利博、「愛媛の林業と山村」相馬正胤、「愛媛の農村と農業畜産業」村上節太郎、「愛媛の都市と工業」石水照雄。村上が編集し、県企画部企画調整課発行である。
 『愛媛県町村合併誌上巻』は別名『愛媛県町村沿革史』とも称し、昭和三九年発行のA5判四一八頁で、編集者は三宅千代二である。地理と地図は村上節太郎が、通史の古代中世近世は伊藤義一が、明治以後は三宅千代二が分担した。また町村の動きについては東予を三宅、中予を伊藤、南予を村上が分担執筆している。
  『愛媛郷土双書』全二四巻を松菊堂から発行の計画を立てたのは昭和三六年である。『愛媛の山村』相馬正胤著、『愛媛の地質』永井浩三著、『愛媛の植物』八木繁一著、『愛媛の動物』清水栄盛著、『愛媛の山岳』北川淳一郎著、は出したが、あと地誌的なものは中絶し、残念であった。
 愛大紀要には地誌の論文が多数載っている。また愛媛大学の地域社会総合研究所から研究報告が出ている。地誌的なものに、昭和五〇年発行のAシリーズー四号に「別子銅山と鉱山集落に関する総合研究」横山昭市・宮三千年編著をはじめ数編ある。愛大法文学部地理学教室の愛媛地理学会から「愛媛の地理」が一九六七年の創刊号以来一〇巻出ており、地誌的論文が多数載っている。また愛大教育学部地理学教室からも機関紙を出している。
 愛媛県の高等学校では、教育研究会社会部会地理部門から『愛媛の地域調査報告集』B5判六八三頁が、一九八〇年に石丸博部門長により出版された。これは野沢浩初代会長時代の一九五八年青島の共同地理調査以来の二〇余年にわたる集大成である。県内十余か所の高校教師による実地調査の報告書を印刷にしたもので、当時の資料が今では貴重である。
 近年は地名研究のブームで、周知の如く、平凡社から『愛媛県の地名』B5判七六五頁が、一九八〇年に発行された。角川書店は昭和五六年に『角川日本地名大辞典38愛媛県』A5判一一六六頁を出している。
 『日本地誌18巻四国篇』は昭和四四年青野寿郎・尾留川正平編集で二宮書店から発行された。山崎直方・佐藤伝蔵監修の大日本地誌第七巻の博文館発行以来六一年目である。B5判五五三頁のうち愛媛県の部は一二三~二九八頁で、内容は愛媛県総説(担当村上)(1)地理的性格 (2)歴史的背景 (3)自然―地形気候 (4)人文―農牧林業・水産業・鉱工業・交通通信・商業貿易・観光・地域開発・人口・集落・政治・文化。愛媛県内地域誌 (一)松山(横山)地域の性格、松山平野の開発と変容、農林水産業の開発、観光地の開発、主な都市。(二)東予(石水)地域の性格、東予地域の近代工業、地場産業とその展開、農水産業の展開、東予の地域開発、主な都市 (三)南予(相馬)地域の性格、段畑の形成と現況、果樹と酪農の発展、宇和海漁業の推移、観光地の開発、主な都市より成る。
 本書では大洲盆地を松山地区(中予)に入れている。本書はカットが多く図表の作成者と資料を明記し、写真は撮影者と撮影年月を記している。
 戦後の科学的地誌は、単なる記述でなく、地域の性格を究明することにある。それには他域と比較しなければならない。歴史が時代的対比をするに対して、地理は地域的対比をする。歴史の過渡期が地理では漸移地帯である。項目も内容を具体的に適確に表し、分布現象や地域差の要因も、根拠をもって解明することである。


 戦後の市町村地誌ブーム

 中予の市町村では戦後、町村合併などの記録を残すためにも、全部の市町村が自発的に地誌を編集している・松山市は昭和三七年に『松山市誌』A5判六八四頁を出し、目下一三巻の『松山市史料集』を編集中(既刊六巻)である。北条市では昭和四〇年『北条市の人文・自然』A5判二五八頁を出し、昭和五六年には『北条市誌』A5判一四二二頁を発行した。
 温泉郡では『余土村誌』が大正一四年(一九二五)に、『河野村史』が昭和二九年に、『湯山誌稿』が同三四年、『小野村史』が同三五年、『久米村誌』が同四〇年、『伊台村誌』が同四一年、『久谷村史』が同四二年、『中島町誌』が同四三年、『中島町誌史料集』が昭和五〇年、『川内町誌』が同四三年、『続川内町誌』同年、『重信町誌』A5判一〇一九頁が同五〇年に出版された。
 伊予郡では、昭和二五年に『伊予郡年鑑』B5判二七〇頁が伊予公論社から出版されている。『中山町誌』が昭和四〇年に、『双海町誌』が同四六年、『伊予市誌』A5判一一四〇頁が昭和四九年、『砥部町誌』A5判一二三一頁が同五三年、『松前町誌』A5判一六九九頁が同五四年に発行された。残る『広田村誌』も目下編集中である。
 上浮穴郡では『久万町誌』B5判七七四頁が昭和四三年、『久万町誌史料集』B5判七五六頁が同四四年に出た。『久万町合併二十年』B5判四九三頁が同五三年発行された。『仕七川村誌』A5判四〇八頁が昭和三九年、『美川村二十年誌』A5判六三九頁が昭和五〇年に発行された。『面河村誌』A5判七七三頁が同五五年に出版された。残る『柳谷村誌』は昭和五九年三月に、『小田町誌』は昭和五九年度末に発行すべく目下編集中である。


 地誌Ⅱの特色

 地誌I(総論)に対して、地誌Ⅱは各論である。地誌Ⅰは愛媛県全域を地誌的対象として論じたのに対して、地誌Ⅱの中予編は中予地方を対象として説述する。地誌Ⅰは自然環境の解説にかなりの紙面を用いたのに対して、地誌Ⅱは、自然的分野は割愛し、主として産業・交通・集落・観光の地理的現象に焦点をしぼり、歴史的背景にも相当の紙数を当てた。そして中予地方を松山市・松山平野・北条平野・伊予灘海岸・忽那諸島・久万高原とその周辺の六地域に区分して、そこの地域的特色を問題にしたのである。他の部門では資料集の巻を出す計画であるが、地誌部門では資料集を別に発行せぬ代わり、地誌Ⅱでは資料的なものや、条里制や式内社の分布など古い歴史的事項をも地理的に分布的に取り扱った。
 愛媛の地誌の系譜をみると、江戸時代の地誌は城砦・社寺・名所旧跡の記事が多い。明治時代の地誌には伊予温故録型と県が指示した郷土誌型と案内書型とがある。戦後の市町村誌にも明治末の郷土誌の項目を踏襲しているものが多い。二宮書店発行の日本地誌が、新しい学術的地誌の型を示している。地誌の項目は地域によって特色があってよいと思う。