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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第一節 概説


 自然環境

 県都松山市は愛媛県のほぼ中央に位置し、松山平野の北東部を占める。東端は石手川と蒼社川の分水嶺、水が峠(標高七〇五m)で越智郡玉川町と接し、西端は釣島、北端は北三方ヶ森(標高九七七m)で北条市と玉川町に、南端は三坂峠(標高七二〇m)で上浮穴郡久万町と接して四極を占め、面積は二八九km2である。市役所の絶対位置は東経一三二度四六分三秒、北緯三三度五〇分一〇秒である。
 松山市の位置する松山(道後)平野は、高繩山塊と西日本の最高峰石鎚山(一九八二m)を背景とする四国山地の間に楔状に入り込んだ平野で、重信川や石手川のつくり出した肥沃な沖積平野である。西は瀬戸内海に面し、阪神及び中国・九州と結んでいる。東は高繩山塊前縁の丘陵に接し、松山市街はその丘陵の麓、石手川扇状地の北半部を占めて立地している。御幸寺山の南方の分離丘陵勝山(一三二・一m)の頂上に天守閣がある。松山市街地はこの勝山を中心に形成されている。
 松山の気候は、年平均降水量一三三七mm(一九五一年から一九八〇年までの平均値)で、一月の平均降水量五二mmに対し六月は平均二二八mmという典型的な夏雨型の瀬戸内海型気候である。最多雨年は昭和一八年の二〇四〇mm、最寡雨年は昭和五三年の七五九・三mmで著しい差があり旱魃の被害に悩まされてきた。年平均気温は一五・三度C、一月の最寒月でも五度Cという温暖な気候風土に恵まれている(図2-1)。


 歴史的背景

 道後の冠山や松山の周辺から発掘される縄文・弥生の遺物、古照における井堰・土堤遺構は開発の古さを物語る歴史的証言である。しかし、近代都市松山の基盤が確立したのは、慶長八年(一六〇三)加藤嘉明が松山に新城下町(二〇万石)を建設し移転してからである。以来、幕藩体制崩壊の明治維新まで領国統治の拠点として繁栄した。
 明治四年(一八七一)廃藩置県によって、松山藩は松山県となり、やがて今治・西条・小松の三県を併せ石鉄県と改称した。同六年(一八七三)石鉄と神山の二県が合併して愛媛県が誕生し県庁を松山に置いた。同一一年(一八七八)郡区町村編成法が公布され、松山城下町百か町は温泉郡松山の名を冠した。
 明治二二年(一八八九)一二月一五日全国三八市と共に市制施行都市となった。人口三万二九一六、戸数七五一九の小都市で、城下町の性格が強い士族中心の地方中核都市であった。昭和に入って三津浜・道後湯之町の両町と合併し、観光商業港湾など近代都市的機能の拡充を推進し、近代都市への発展の基盤が整備された。
 現在は、西瀬戸経済圏構想の四国の開発拠点として、人口四一・六万(昭和五八年九月一日現在)、四国最大規模の人口をようする四国の中核都市に発展した。五五年度の産業別人口割合は第二次産業が二四・二%に対し、第三次産業は六八・六%で特に卸小売商が三二・九%、サービス業二三・四%と両業種の就業者が全体の五六・三%を占めている。行政・経済・交通・文化の中心地として、第三次産業中心の大都市型産業構造を示している。
 また、交通環境も著しいモータリゼーションの波と都市の発展に伴い、国道を中心とする主要幹線道路とこれを結ぶ生活圏道路の整備など、都市活動の利便を考慮した総合的道路交通体系の整備に努めている。



図2-1 松山市のハイザーグラフ(1941―1970)

図2-1 松山市のハイザーグラフ(1941―1970)