データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 松山城下町の残象


 松山城下町の形成

 関ヶ原の戦功により、二〇万石の大名となった松前城主加藤嘉明は、慶長六年(一六〇一)幕府の許可を得て、居城を松山の地へ移す工を起こす。城郭築城工事と併せて農村地帯を城下町にするため、勝山(一三二m)の土地をならし、石手川の改修治水をして二〇〇余haの田地を開発した。必要に応じて住民は強制移転させられ、新都市建設は強引にすすめられた。
 慶長七年(一六〇二)一月一五日から家中地割を定めた後、まず鶴屋町・松屋町の地割から始めて三〇か町を完成、そのうち二〇か町は嘉明自らの繩張という。足立重信を普請奉行として本丸・二ノ丸の位置を定めて城郭を構築した。旧城地の松前(伊予郡松前町)、および道後湯築城の築石で北郭・東郭を設け、道後の集落を城北に移して道後町・今市町を形成し、一方松前の商人や住民を移して松前町、唐人を移して唐人町を形成した。家臣団とその中間・小者に至る奉公人・町人をも総て帯同して城下に定着したのが翌八年(一六〇三)一〇月である。それ以来城郭を松山城と呼び城下町を松山という。
 城および城下町建設は、同七年より寛永四年(一六二七)の会津転封までの二六年間の継続工事であった。こうした城下町建設に際して、各町の開発につとめたものは、付近に住む有力な郷士、商工業者の棟梁達であったが、豪商のもつ物資調達の能力とその豊富な財力を抜きにしては城郭工事の完成は出来なかった。古町に商家の町割を急いだのも、有力御用商人相図屋宗郡・府中屋念斎の協力を得るためであった。念斎は念斎堀を穿ちこれを御築山辺まで連続させて、砂土手を築き外堀にしようと計画し、古町三〇か町の区画も念斎の町割であった。
 かように、有力町人の協力によって商工業者の招致につとめる一方、都市の繁栄をはかるため種々の優遇策を構じた。「松山城下町数七一町、町家数一七三六軒あり、内古町三〇か町は古来より年貢免許外側二三町水呑一八町は年貢地也。」としたのはその方策である。恩典を利用して新市街での繁栄をもくろんだ商人・職人のうち、松前から移って来た町人に豪商名家が多く、初期城下町の指導的地位についた。後藤・曽我部などの御用商人は古町の目貫通り、松前町を形成して市況を盛んにした。
 寛永四年(一六二七)蒲生忠知が引卒した重臣の屋敷が、同一二年(一六三五)松平定行に随行した重臣に引き継がれている。屋敷の主は代わっても、増減変更は殆どなく固定している。このことは、幕藩体制下の門閥制度・身分秩序が厳然と定まって、動かしがたい時代の姿を反映している。一五万石級の松山藩は、幕府の規定で有事に備え、上士約五〇〇人・下士一一〇〇人、卒約二九〇〇人、計四五〇〇人の数が一定していて変動がなかった。したがって、武家の消費によって生計を立てた町屋の発展を緩慢なものとした。城下町建設の当初から御免町の特権を享受した古町の繁栄は停滞を続けたが、古町に対し周辺の外巡町や外側の町家、水呑町の発展にはやや著しいものがみられる。
 外側の高給家臣団の屋敷を囲んで、自然発生的な年貢免許の恩典を享けない永町(湊町)・唐人町(三番町一~二丁目)など外側商店街の形成は、寛文以降延宝(一六七三~一六八〇)年間である。


 城下町プランの基本構成

 幕藩体制確立期に新設した新城下町プランは、領主権力が意のままに町割に反映し、階級的身分秩序や軍事的配慮が地域制の上に最も良く投影された。一藩の首都としての城下町は、その核を城郭においたから、実戦上の有用性のみならず封建領主の威厳を示す人工と天険を巧に利用し、城下町景観中にそびえる勝山の丘上(一三二m)に平山城を築き、城下町を見渡せる形をとった。
 濠や土手は、城下町域や内部の地域制の画定線ないし軍事的防御線としての役目のみならず、町に「シマリ」をつけること、つまり無秩序な都市の拡大を防止するねらいがあった。城東地域に念斎堀・薬研堀・かわらけ濠・砂土手を築いて石手川堤防と共に防御線とした。内濠東西四丁二七間(約四八五m)、幅二〇間(約三六m)、南北四丁五七間(約五三九m)に囲まれた堀ノ内は、城麓の広大な地積を占め、西御丸(現ラグビー場)、三御丸(藩主御殿、現国立松山病院)と共に一般武家屋敷とは区別した独立街区として特別に計画的な町割を施した。領主の有力側近者重臣層で代表される特定家臣団の屋敷地七一軒と普譜所・会所・勘定所などの城内官庁区は、居住機能と未分離に存在する職住隣接の侍町として城下町の最内側に形成した。内濠は旧石手川の流路を活用したものであろう。
 寺院配置についても、大きな建物と広い境内とがもつ軍事的意義を重視した。搦手の城北防御ラインとして、山越に道後から天徳・龍隠の二寺、松前から長建寺を移し、来迎・浄福・弘願・不退・千秋・御幸などの諸寺を建立して寺町を形成し、西山の丘陵の寺社群で支砦防御ラインを構築した。
 市中に桝型・丁字路・鈎型路・袋小路が随所に見られるのも、市街戦で敵を混乱させる戦略である。特権町である古町を武家屋敷から分離して配置したのも、町人街を防御線に計画したものである(図2-2)。


 城下町の地域構造

 城下町の住民は社会的身分によって生活様式を一定させ、同一階層・同一職種の人々を集住させた。城下町の七割を占拠した武家屋敷の構造は、中世在地の土豪層の家敷構えで連続し、構成方式は寺社・農家と類似し建蔽率が低い。武家の総戸数約四五〇(一〇〇石以上)軒中、七一軒が堀ノ内と番町界隈で総軒数の六〇%を占め、残り一九五軒が他地域に散在し、二〇〇〇石以上の重臣層が城郭の四囲を固めた。
 武家屋敷と町家は並列的であるが、上中級の武家屋敷は大半が、外側の良質な飲料水と高燥で日当たり良好な城南地区を住宅地区に占拠した。それに反し、下級の徒士・同心・足軽組屋敷や水呑町は、アーバンフリンジに棟割長屋の組屋敷と町家が雑然と密集した。
 城下町の内と外とは厳重に区分し、城下町の表玄関三津口は同心で固め、木屋町・土橋口・一万口・立花口・新立口の六か所に公儀番所を設け、旅行者の通行、商品流通の取締、移出入税徴収の関所とした。また城下町と農村の接点で城下町商業の農村侵入を規制した。
 町人街区の核心古町三〇か町は本町筋の街路を軸に碁盤目割を基本とし、城の位置から割出して大手筋に向って縦町と直交する横町との交点が目貫の町で、町方法度が張り出された札の辻である。府中町には町奉行所があり、町政の中枢機関はここに集中した。中心街の本町・呉服町・松前町などの町家は構造も大きく、大商店・大旅宿の所在地で、城下町商業の指導層である問屋商人・御用商人、豪商栗田(廉屋)・曽我部(豊前屋)・後藤・古川など金融業者、呉服屋などが町の美観を呈した。
 商店街が表通りに面したのに対し、社会的身分の低かった職人は裏町か町はずれに位置して同業者が集住した。材木・荒物類は場末に多い。魚町は臭気の関係で裏町におかれた。木屋町・鍛冶屋町・畳屋町・紺屋町・魚町・紙屋町・米屋町・細物町・利屋町・桧物屋町・風呂屋町・樽屋町など職種町名は古町にのみ限定し、地子免許の特権制は、城下町の繁栄と市街の膨張を無制限に拡大することを抑制した。
 軍事に関する職人町は特に弓矢・鉄砲・槍など使用武器の区分によって一団とし、足軽指揮のもとに城の付近においた。
 城下町の草創期には、地割も町づくりもされず放置された外巡町二三町、水呑一八町が自然発生的に年貢地町屋として形成されたのは寛文から延宝年間(一六六一~一六八〇)である。元禄一四年(一七〇一)四月一七日永町(湊町)に大火が発生し、類焼家屋一三六軒を出している。永町が整然たる町並に改修されたのは大火以後のことである。
 町家に特有な居住形態として、借家住居がある。武士の居住区では譜代・家来・下人などは屋敷の中に長屋住居などで同居し借家人ではない。借屋居住は町家特有の形態で、古町の中心的位置を占めた府中町一丁目は七五・六%、二丁目は七二・五%が借家住居で古町・外側を問わず上層町人の間で借家経営がかなり広くすすめられた。
 道路の幅員にも身分制・階級制が地域的に反映している。古町の町人街の中心本町筋が二間一尺(約四m)、外側の永町(湊町)が二間二尺(約四・二m)、大唐人町(三番町一~二丁目)が二間一尺~二間四尺(約四~四・七m)であるのに対し、武士居住区には階級差が明確に規定されている。高禄武士団の居住街区堀ノ内は四間三尺(七・五m)、北郭付近四間五尺(八・七m)~三間(五・四m)、一番町五間(九m)~四間四尺(八・四m)、二番町四間(七・二m)~三間(五・四m)、三・四番町は三間(五・四m)~二間(三・六m)もあって、若い武士が乗馬の稽古をしていたことから馬乗町ともいわれた。このように、居住する武士の禄高に比例して道路の広狭が決定されている。足軽・中間の組屋街はいずれも一間幅(一・八一m)で狭く、徒士の住む歩行町は幅一間二尺(二・四一m)以上の道路はなかった。


 明治維新による土地利用の変貌

 明治政府は旧支配者に対する恩愛と執念を消滅させるため、明治五年(一八七二)松山城地とその敷地付属物一切と御用船の競売払下げを命じた・同六年(一八七三)大蔵省所管となり、「城郭取り壊令」が布達された。同七年(一八七四)松山城本丸を松山公園とし、聚落園と号した。城郭のうち平坦部の堀ノ内は、同一〇年(一八七七)丸亀連隊の分営となり、同一九年(一八八六)歩兵第二二連隊の兵営となった。
 城下町地積に占める武家屋敷は、大凡八五・七%という広大な地積を占めていた。この武家屋敷地区が土地利用の変容が最も大きかった地区である。内部構造の変容としては、建物自体の更新近代化と新機能地域への再編成である。重臣の住宅は広い邸地が付与されていたが、維新にともなう変動はこれら大邸宅の維持修理を困難にした。明治三年(一八七〇)内家監察は令を出し、割屋敷が許可され武家居住区における土地の分割がはじまった。
 明治四年(一八七一)「士族にして在官の者の他は農工商を営むこと勝手たるべし。」と公示した。廃藩以後武士の窮乏は一層深刻化し、多数の士族屋敷が売却され、もしくは毀されるなど武士の居住区の変容は著しい。家臣団の四散によって、武家屋敷の四五%が空屋敷と化した。外側の高級士族の離散による空地化は、広域経済圏の核として近代都市機能の核心業務地区の形成に好都合であった。
 明治六年(一八七三)太政官布告第六〇号により「神山・石鉄ノ二県ヲ廃シ、愛媛県ヲ置キ伊予国一円管轄被抑候条。此旨相達候事、但県庁ハ温泉郡松山ニ被置候事。」となって松山は愛媛県政の中心となった。
 新庁舎は一番町の家老職奥平の邸地五八二七坪四合六勺(約一万九二九九㎡)、価格九一八・五六銭(坪三・三㎡当たり一五・七銭)を購入し、同一一年(一八七八)仮庁舎の古町大林寺から移転した。新庁舎の一番町に移転するまで、古町の大林寺付近は仮県庁の門前町となって活気を呈し、紙屋町界隈は夜も店頭に行灯・カンテラが灯され活気にみちていた。
 仮県庁舎が一番町の本庁舎移転後、電信分局が二番町八股榎付近に、松山地方裁判所が末広町法龍寺から一番町の菅野良弼家老邸跡に移転した。同一三年(一八八〇)北郭の獄舎も藤原の松山監獄署(現県中央病院)に移った。同一五年(一八八二)松山郵便局も府中町から一番町の裁判所向側へ、その後三番町へ移転した。このように、同二二年(一八八九)の市制施行前すでに官公署は、古町から外側の番町地区に移転集中して、政治中枢・中心業務街区が形成されていた。市役所は湊町四丁目六二、円光寺に仮庁舎を置き、同二三年(一八九〇)出淵町二丁目三三に移転し、現在地に移ったのは昭和一二年である。
 明治五年(一八七二)の学制発布前四年(一八七一)に、松山地方最初の小学校六校が開校したが、いずれも家老の大邸宅跡か寺院の建物を利用し、その分布も通学の関係で城山中心に市内各方面に分散立地した。それに対し、中学校・女学校は二番町界隈に集中化して学校街を形成した。同七年(一八七四)二番町に愛媛県師範学校・松山中学校、同一九年(一八八六)松山女学校、同二四年(一八九一)愛媛高女、同二六年(一八九三)北予英学校がいずれも二番町に開校した。
 しかし、二番町地区は武家屋敷跡であり、都心部では生徒数の増加につれ学校規模の拡充に不都合で、次第に遠心的拡散をしていった。師範学校は古町繁栄の誘致運動により、同二三年(一八九〇)〝愛媛の阿房宮〟と称讃された新殿堂に移転した。松山女学校(現松山東雲高校)は大正九年(一九二〇)、東郭の県立病院跡へ移り、北予英学校(現松山北高校)は明治三三年(一九〇〇)鉄砲町に、愛媛高女(現松山南高校)は同三四年(一九〇一)末広町へ各々移転した。松山中学校(現松山東高校)も大正五年(一九一六)二番町揺藍の地から持田町へ移転した。
 かように、武家屋敷は旧武家人口の転出とともに、一屋敷当たりの地坪が広大で建蔽率が極めて低く、一団地の取得が容易であったし地価が町家に比して安かったからである。下士組屋敷は住宅街と類型化し、労働者サラリーマン住宅地域に転化し町家と共に機能的に最も変化の乏しかった地域である。
 明治二一年(一八八八)伊予鉄道線が松山市駅を起点として開通営業したため、松山の経済媒養圏を完全に外側に結集した。かくて、明治新体制下、新たに形成された政治・経済・文化機能が外側の武家屋敷地区を中心に再編成された。市の中央部に地方経済を支配する会社・銀行が建ち並び、地方政治経済の中枢として、近代都市松山の新都心が完全に外側の城南地域に移動し、城下町時代の封建都心古町は封建制の解体と共にその命脈を断った。

図2-2 松山城下町の都市構造

図2-2 松山城下町の都市構造