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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 松山市の食品工業

  1 食品工業の地位

 明治末~大正初期の食品工業

 大正初期における松山の主な製造業は、絣、綿布、食品(菓子・清酒・醤油・干油揚・精米)、指物、竹細工、麻裏草履の製造等であり、これらを中心に三〇余種のものが製造されていた。これらの製品の総生産額は約六〇〇万円であったが、多くは精米、綿糸、伊予絣製造であり、当時の産業構成の特徴をよくあらわしている。
 食品関係では精米(二一四万円)、菓子(四四万円)、清酒(二五万円)を中心に三一二万円に達し総生産額の五二%を占め、製造業における食品工業の比重の高さを示している。


 事業所数・従業者数の推移

 戦後、産業構造の変化とともに食品工業の占める地位は大きく変化して来ている。昭和二六年と五六年の事業所数を比較すると製造業全体では四一一から八三二に倍増している。しかし、食品工業部門の事業所数は徴増したにとどまり、全体に占める割合は二八%から二二%に減少している。三六年、四六年には事業所数はいずれも三〇〇を超えているが、これは従業者が三人以下の事業所も含めているためである。この場合には全体に占める割合も約三〇%となっており、零細企業の多い食品工業の特色をよく表わしている(表2-17)。
 従業者が三人以下の事業所を除いた製造業全体の従業者数は、二六年が七七九〇人であったが、五六年には二万二二一五人となり、二・五倍に増加している。食品工業についても一三三一人から四一二八人に増加しており全体に占める割合はいずれの時期においても一七~二〇%である。五六年現在食品工業に従事するものの六〇%は従業者が三〇人以上の事業所に所属している。これに対して従業者四~二九人の事業所数は食品工業全体の八七%を占めるにもかかわらず、従業者数は四〇%にとどまっている。現在松山市には三人以下の事業所が一〇六あり、これらの事業所の従業者を加えたとしても、食品工業全体の従業者は四五〇〇人に満たない。


 製造品出荷額の推移

 製造品出荷額は大正二年(一九一三)には約六〇〇万円であったが、昭和二六年には製造業全体で約  三三億円となった。その後も増加し、三六年には六四六億円、四六年には二〇〇〇億円、五六年には六一六〇億円となった。食品工業部門では二六年には八億円であったが、五六年には七四二億円となっている。全体に占める割合は二五年には二五%も占めていたが、その後の重化学工業の発展等、経済構造の変化に伴い食品工業の占める割合は七~八%にまで低下した。五六年現在では、食品工業分野にも大規模事業所が出現したことなどにより製品出荷額は増加し、全体に占める比率は一二%にまで回復している。  


  2  製造品目別事業所数と規模

 大正二年の松山市重要物産

 大正二年(一九一三)の調査による松山市重要物産生産統計によると、食品工業部門における主なものは精米(製造戸数三四戸、生産額二一四万円)・菓子・清酒・醤油・菜種油などである。その他のものとしてはラムネ・サイダー、飴、麩があり、当時の特色がよくあらわれている(表2-18)。
 菓子製造は藩政時代より盛んであったが、明治三八年(一九〇五)以後松山に捕虜収容所ができて以来外国人の往来が盛んとなり、それにつれて外国人の嗜好に合ったものも作られるようになった。カステラ・洋かんなどがそれである。酒造業を営むには藩政時代には酒造株の所有が必要であったが、明治時代になるとこの制度は解除された。明治一六年(一八八三)松山市に同業組合が設立され、同三二年(一八九九)酒造組合規則が施行されるとともに醸造法の研究も盛んとなり、同三六年(一九〇三)には有志の寄附金をもって松山市松前町に醸造試験場を設置するまでになった。同試験場は日露戦争後の不況により同三九年に閉鎖された。醤油製造は従来数戸の醸造元があったのみで松山地区の需要も十分に充たすことができなかった。このため小豆島や宇和島方面から供給を受けていた。しかし、明治三一年に松山醤油株式会社が設立され、続いて醤油味噌醸造合資会社、醤油味噌醸造組合等が設立され生産量も増大した。松山の特産の一つである干油揚は製造過程に種々の改良を加え、長時間の貯蔵が可能となった。このため販路は著しく拡大され、西日本全域はもとよりアメリカ合衆国にまで輸出された。


 従業者数別事業所数

 昭和五六年現在松山市内には三〇四事業所が食品の製造を行なっている。このうち、従業者が三人以下の事業所は一二〇で、全体の三九%を占めている。四~一九人の事業所は一三九で全体の四六%になる。この程度の規模になると異なった複数の製品を製造する傾向が強くなり、一三九事業所で一八二品目を生産している。従業者が二〇人以上になると食品工業の部門では比較的規模が大きい事業所であるが、これは四五で全体の一五%である(表2-19)。


 製造品目別事業所数

 製造品は五四品目に大別されるが、菓子類の製造を行う事業所が最も多く一二二あり、全体の三四%を占めている。次いで多いのが豆腐・油揚げ・こんにゃく・麩等の副食原料の製造(五七事業所)であり、醤油・味噌・清酒・食酢・こうじ等の調味料及び清酒製造(三四事業所)、水産食料品製造(三二事業所)も製造事業所が多い。近年はジュース製造が多く、それに伴い果実のしぼりかすを肥飼料に加工することも行われている。水産練製品や漬物の製造事業所は従来に比べて減少しているが、これは松山蒲鉾企業組合のように企業合同により組合組織としたことなども原因している。

  3 食品工業の立地

 従業者二〇人以上の事業所の実態

 昭和五七年現在松山市には従業員二〇人以上の事業所が四五ある。これらの事業所を対象に実態調査を行なったが、その結果(表2-20)を見ると、創業は戦前からのものは四分の一にすぎず、戦後設立された事業所が多いことがわかる。
 従業者数については二〇~四九人の事業所は全体の六〇%を占めており、五〇~九九人の事業所と合わせると八八%に達する。資本金は一〇〇〇万~二〇〇〇万円が最も多く一〇事業所あり、一〇〇〇万以上が全体の六〇%である。五〇〇万円以下の事業所はわずか四事業所であるが、これは従業者二〇人以上の事業所を対象にしたことによるものである。
 近年、国道や国道バイパス等の整備により、従来の立地場所から駐車場が十分確保できる広い敷地があり、しかも交通の便の良い場所に移動する事業所が多くなっている。食品工業についても、四〇事業所のうち二三事業所が今までに移動したことがあるとしており、将来移動する予定であるとした事業所を合わせると全体の七三%に達する。立地移動の理由は、前の場所が狭くなったとするものが一六あり、立地移動を行なった二三事業所の七〇%になっている。移動を行なった年代は三〇年代後半からであり、四〇年代が一五事業所で最も多い。なかでも四〇年代後半に比較的多く集中している。これは当時の経済成長に支えられ業務拡大を行なう事業所が多かったことによるものである。その場合、広い敷地を必要としたことや、自動車交通の時代に対応するために新しい立地場所を求めたことを示している。
 移動する以前と以後の所在地の変化を見ると(図2-20)、移動前は松山市の中心部(市役所付近)を中心に半径一㎞以内にあった事業所が大半を占めているが、一部三津浜地区内での移動も見られる。移動後は、国道や環状線に隣接した場所が多く選ばれているが、臨海部への移動も一部に見られる。いずれの場合においても、移動後の場所は現時点では松山市中心部より六km以内の地点であり、交通の便の良い松山市近郊が適地として選ばれている。


  国道等に隣接して立地した事業所

 従来の立地場所から国道、国道バイパス及び南・北環状線(以下国道等)沿いに立地した事業所は一〇ある。一六や西四国ヤクルトはその代表的なものである。
 一六は明治一六年(一八八三)玉置夫妻により大街道にて創業を開始し、戦後まで蒸し物を中心とした菓子製造を行なっていた。昭和三九年に事業拡大のため東石井町の国道三三号線沿いに移動し、さらに四七年に菓子製造部門を現在地(東石井町)に移動し、五〇年に資本金一二○万円で株式会社とした。五七年現在資本金は二〇〇○万円となり、菓子製造・販売部門の売り上げは三三億一〇〇〇万円となっている。
 西四国ヤクルトは現在松山市平井町の国道一一号線沿いに立地している。以前松山市千舟町中西条・大洲・宇和島市にあった一連のヤクルト販売事業所が、設備の近代化を推進するために企業統合し現在地に立地したものである。ヤクルト原料液は福山工場より購入し生産を行なっている。生産能力は一日当たり最大六〇万本であるが、実際の生産は年間約八七〇〇万本である。販売先は愛媛・高知両県にまたがっているが、六〇%が愛媛県内である。
 環状線沿いに立地したものとしては丸吉漬物がある。昭和二四年に丸吉商店・菊池商店・渡部商店等が合併して設立されたものであり、従来は松山市藤原町に立地していた。しかし、松山中央卸売市場の開設に併い五〇年同市場に隣接する北部環状線沿いの現在地に移動したものである。製造品は沢庵等の漬物で、県下一円に出荷している。五七年度の売上げは六億四〇〇〇万円に達している。これらの事業所のほか母恵夢、四国明星、愛媛食鳥産業、五色そうめん、福助ベーカリー等多くの事業所が国道等に隣接して立地しており、広い敷地と交通の便の良い道路の重要性を示している。


 臨海に立地した事業所

 日本製粉松山工場は、三六年松山市高砂町にあった城北工業所と合併し設立されたものである。現在地には四一年日産製粉能力約一六一トン(一二○○バーレル)の規模で建設された。松山港に面して立地しており、日本製粉が最初に四国に建設した工場である。製品の九〇%は四国一円に出荷されているが、残りは中国、関西地方へも出荷されている。臨海立地とはいえ輸送の大部分はトラックに依存している。愛媛食鳥産業吉田工場は本社工場が狭くなったこともあり、五一年南吉田町に建設され、ブロイラー解体処理を専門に行なっている。


  4 いろいろな組合

 愛媛県青果農業協同組合連合会

 青果連は昭和二三年、伊予園芸農協・温泉青果農協・西宇和青果農協・宇和青果農協・喜多青果連の五組合により、戦後荒廃した青果農業の復興をめざし出資総額三五万円で発足させたものである。五七年現在八会員となり県下全域をカバーする巨大な組織に成長している。青果連では昭和二七年より将来性のあるジュース加工に着目し「ポンジュース」の発売を開始するとともに、三一年には缶詰ジュースの製造を始め、翌年には中近東への缶詰ジュースの輸出を開始した。このようにジュース加工・販売事業の成功により、余剰ミカンの利用価値は大幅に高まっていった(表2-21)。四四年に天然ジュースを発売し好評を得たが、これを契機に四六年には松山市安城寺町に東洋一の規模を誇る松山工場を完成(写真2-8)させた。また、四九年には最新設備を備えた東京工場を完成させジュース加工を発展させていった。多様化した食生活の中で、手軽にしかも季節を問わずに楽しめる果汁は、消費者の人気を得て来た。青果連では二七年以来三〇年間果汁加工の新しい技術・設備を開発・導入し、「POMブランド」のシェア拡大をめざしている。
 輸出事業については、三七年の果栄貿易(青果連直系の子会社)設立及び四五年の富永貿易(神戸)とのタイアップにより大きく発展してきた。五〇年度のポンジュース輸出実績は史上最高の五二四万余ケース(一ケースは二六〇g×三〇缶)の新記録を樹立した。これは前年度の二・五倍という大幅な伸びで、日本から中近東へ輸出されたジュースの九〇%以上をPOMブランドが占めるという結果となった。輸出ジュースのほとんどはサウジアラビア・クウェート・アブダビ・ドバイ等アラビア半島八か国で占められている。


 温泉青果農業協同組合

 二三年九月温泉青果出荷連合会を発展的に引き継ぐ形で発足した。発足当時事務所を三津浜町中須賀に置き事業を行っていたが、三八年松山市湊町の現在地に移動した。五六年現在出資総額は一九億円余に達し、県下の青果農協の中では最も多額となっている。
 加工事業は二六年度より始まった。これは台風によって落果した早生温州をジュースに利用するという形でスタートしたもので、同年度の取扱高はわずか五九八九万円であった。しかし、その後急速に増大し、五六年度の取扱高は四一億円余(表2-22)に達した。このうちの五〇%はつぶ入りジュースである。つぶ入りジュースの生産は五四年度から開始されたものであるが、現在は最盛時に較べて大幅に減少している。缶詰加工はつぶ入りジュースのほか、くり(九~一〇月)、みかん(一~三月)、たけのこ(四~五月)、そらまめ・ふき・びわ(五~六月)、もも(七月)、ぶどう(八月)等多品目にわたっており、年間を通して加工が行われている。


 松山蒲鉾企業組合

 戦前、三津浜地区では水産練製品の製造が盛んに行なわれていた。昭和二三年ころでも三〇以上の業者が製造を行なっていた。二九年になり、一六業者が共同出資をして組合を作り、共同作業を行なおうという気運が強まった。この結果、一業者当たり三〇万円、組合七〇万円の出資(合計五三〇万円の出資金)で松山蒲鉾企業組合が設立された。参加した業者については従来の事業所を閉鎖するとともに、加工用機械類を組合に集め、出資者も組合の現場で働くという形態をとった。五八年現在一四三〇万円の出資金で経営ざれている。直売直送方式で、主として松山及び周辺に出荷している。五七年の販売実績は約四億五〇〇〇万円で、従業者は六二名となっている。同組合では、消費者の好みの変化に対応することに重点をおいた研究を続けているのが現状である。

表2-17 松山市の食品工業

表2-17 松山市の食品工業


表2-18 松山市重要物産生産統計表(食品工業)(大正2年)

表2-18 松山市重要物産生産統計表(食品工業)(大正2年)


表2-19 食品工業の規模別事業所数(製品別)

表2-19 食品工業の規模別事業所数(製品別)


表2-20 食品工業実態調査

表2-20 食品工業実態調査


図2-20 食品工業の立地移動

図2-20 食品工業の立地移動


表2-21 愛媛県青果連のあゆみ

表2-21 愛媛県青果連のあゆみ


表2-22 温泉青果農協加工部門年次別取扱高

表2-22 温泉青果農協加工部門年次別取扱高