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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 松山市の電力と水資源


 電力開発の歩み
         
 愛媛県における電力供給は、水力発電から着手された。これは四国で最初の事業でもあった。電力供給は、まず電灯からであったが、それは伊予水力電気による石手川上流の湯山水力発電所(出力二六〇kw)によって、明治三六年(一九〇三)に営業を開始した。四国の電力事業の最初は、徳島電灯の石炭による火力発電であった(明治二八年)。これは、日本で最初のアーク灯による点灯に遅れること一七年、また同じく営業用の点灯となった東京電灯の事業(明治二〇年)より八年遅れていた。ところで、愛媛県では水力発電により電力事業が開始されたが、その理由は日清戦争(一八九四~九五)後の石炭価格の値上りにより、発電コストが上昇したためである。
 水力発電は、水量が豊かで勾配のある河川が選ばれた。そのような地点は人口も少なく、当時としては電灯料金が高くて一般に普及せず、送電距離も技術的に遠くの需要地へは及ばなかった。日本最初の営業用水力発電は明治二四年(一八九一)の琵琶湖疏水を利用したもので、湯山水力発電所のそれは一二年遅れていた。この水力発電所は、地理的条件から需要者の多い松山市や三津浜町に近いところが選ばれたものであった。そして、伊予水力電気は、営業を開始して二か月後には動力の供給をはじめたし、電灯数も二年後には六〇〇〇灯に達した。
 大正年間には県内各地で水力発電所が建設された。これは需要の増加と技術の進歩によって、しだいに出力の大きい発電所となったことと、中予や南予地方の電力事業が伊予鉄道の前身である伊予鉄道電気の経営に組み入れられたことによる。日本で最初の軽便鉄道を松山市と三津浜との間に開設した伊予鉄道は、湯山水力発電所をもっていた伊予水力電気を合併して、大正五年(一九一六)に伊予鉄道電気と改称して電気事業に進出した。同社は、宇和水力電気、愛媛水力電気、燧洋電気、小田水力電気などを大正から昭和初期にかけて相ついで吸収合併し、事業の公益性を増していった(図2-22・表2-23)。
 現在の電力事業の中心をなす四国電力は、第二次大戦中に電力の国家統制管理で登場した四国配電(昭和一七年営業開始)を前身としている。四国配電は、四国内の伊予鉄道電気をはじめ四社と、高知県電気局の五つの電力事業を統合したものであった。その本店は、四国で最も近代工業が立地して電力需要が多く、地理的位置が四国中央部にあり、各地からほぼ等距離にあった新居浜市に置かれた。第二次大戦を経て、電気事業の民主化のために事業再編成が行われ、昭和二六年に新しい電力会社として四国電力が発足した。
 昭和三九年に運転開始をした道前道後の三つの発電所は、愛媛県を事業者としている。これらは、四国山地の仁淀川水系面河川上流にある面河ダムから、灌漑用水として周桑(道前)平野と松山(道後)平野への供給と、松山市や松前町の工業地区への工業用水の確保のため計画された、道前道後水利総合開発事業によって、導水途中の落差を利用して建設されたものである。同一の水を三つの発電所によって利用せざるを得なかったのは、用水を両平野に分水するための地形的制約から位置が限られたことと、地質のうえから分水燧道の圧力を低くしなければならなかったことなどによる。従って、この三つの水力発電所は、放水路の水位によって自動的に出力が調整されているが、四七年度からは、第一・第二の発電所は無人化され第三発電所から遠隔操作されている。なお、電力はすべて四国電力へ売電されている(表2-24)。


 水資源開発 

 道前・道後平野は愛媛県における二大平野であり穀倉地帯である。しかし、この平野の耕地一万二〇九四・四haを涵養している流域は、道前平野一八五・六km2、道後平野三七四・七km2であって、渇水時の流出量は道前平野〇・六五m3/S、道後平野二・二m3/S(昭和二七・八年実測)となっていて、耕地面積に比較してきわめて少なく、しかも、この地帯の平均降水量は一五〇〇mm内外である。この用水不足を補うため、ため池・揚水機・湧水利用施設が設けられているが、現状では地区内における水資源開発は限度に達しており、水不足に悩まされていた。このため農林省岡山農地事務局は、昭和三二年に道前道後平野農業水利改良事業を農林省の特定土地改良事業として採択し、次の三つの開発事業を行った。(1)農業水利事業として、両平野の耕地に対して、水田の用水を補給するとともに、山麓の果樹園地帯の畑地灌漑及び一部開田地域の用水として三二一四万八四〇〇m3を確保する。(2)発電事業として、面河ダムより平野部に至る導水途中の落差四七二mを利用して三か所で発電を行い、最大出力二万五一〇〇kwの電源開発を行う。(3)工業用水事業として、道前・道後平野臨海工業地帯に対し、日量一〇万六〇〇〇m3の工業用水を確保する。
 事業の概要としては、流域面積七六・一三km2、重力式直線型コンクリート堰堤、堤高七三・五m、堤長一五九m、堤体積一八万三一〇五m3、満水面積一二四・八ha、総貯水量二八三〇万m3、有効水深四五mの面河(笠方)ダムを建設した。承水施設として、面河川・鉄砲石川・坂瀬川・妙谷川その他渓流より取水し、燧道八二五七・四mを開渠し、二七一・八mの承水路によりダムに集水する。放水導水施設として、ダムより平野部中山川上流千原に至る一万二八三七・三四mを燧道をもって放水し、さらに道後平野導水路五六〇〇mの燧道を設置する。地区内幹線水路として道前平野地区内に水路延長三万九八二二・二mを設置するもので、総事業費は八七億七八〇〇万円で、昭和三五年九月に着工以来、七年の歳月を費やして四二年九月に完工した。
 県都松山市は年々人口の増加や産業経済の発展、また生活水準の向上などによって水の使用量は増加している。松山市の上水道の水源は、重信川流域の地下水源を中心に六か所あり、一日当たり一九万m3を得ている。主なものは垣生浄水場(二万m3)に加えて、高井神田浄水場(二万七七〇〇m3)・かきつばた浄水場(四万三〇〇m3)のほか、重信川総合開発事業の一環として四三年度に着工し、四八年に完成した石手川ダムからの九万七〇〇〇m3の給水があり、これは、現在最も重要な水源となっている。石手川ダムは、このほかに、石手川の洪水調節と石手川北部地区五五〇haの灌漑用水の補給とをあわせもった多目的ダムで、堤高八七m、総貯水量一二八〇万m3である。この県営灌漑排水事業は、松山市の伊台・堀江地区と北条市南部の樹園地五五〇haに導水し、スプリンクラーによるかん水を行っている。水源の石手川ダム上流面に設置された多段式取水口から、水道と共同取水し、堤体内の利水放水管から分岐した農業専用導水管により、堤体下流部へ導水し、ダム下流約一三〇m地点の右岸側に揚水機場を設け、ポンプ三台によって、背高位部標高四一五mに設置する着水槽へ揚水し、以降は自然圧流下によりパイプラインによって受益地へ送水し、スプリンクラーで散水している。この事業は、四六年度に着工し、五九年度にすべて竣工の予定である。
 砥部地区県営灌漑排水事業として、四五年度に着工し五一年度に竣工した銚子ダムは、三五〇haの流域面積をもち、総貯水量七八万m3で、砥部町南部の四七二haの樹園地を灌漑している。送水路として幹線水路一万二四四〇m、支線水路五六六二mが計画され、全工事の竣工予定は六二年度である(写真2-11)。
 県営一般灌漑排水事業および、一般県営畑地帯総合土地改良事業の中心をなす北条市の立岩ダムは、総貯水量八〇・二万トンで、五五〇haの灌漑を目的とした堤高四八・二m、堤長一七五mの中心コア型フィルダムである。灌漑排水事業としての幹線水路は一万九〇一三mに達する。また、畑地改良事業としての幹線水路は二〇〇〇m、支線水路九二三八mに達し、あわせ行う農道整備は一三路線一・八kmにおよんでいる。ダムの着工は四七年度で五五年度に竣工をみた。なお、灌漑排水事業は六〇年度、畑地改良事業は六一年度竣工の予定である。

表2-23 愛媛県の電力事業のあゆみ(1)

表2-23 愛媛県の電力事業のあゆみ(1)


表2-23 愛媛県の電力事業のあゆみ(2)

表2-23 愛媛県の電力事業のあゆみ(2)


図2-22 愛媛県の電力事業の推移

図2-22 愛媛県の電力事業の推移


表2-24 松山地方の発電所(昭和57年3月現在)

表2-24 松山地方の発電所(昭和57年3月現在)