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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 周辺の温泉郷

 奥道後温泉
      
 「蛇を斬った岩と聞けば渕寒し」石手川上流湧ヶ淵を探勝した夏目漱石が、その地に伝わる伝説をもとに詠んだ句である。道後温泉から車で約五分、石手川の渓流にそうこの景勝の地に、温泉を中心にした東洋一を誇る一大レジャーセンターがある(写真2-24)。渓谷美と多量に湧出するラドン及びフッ素を含むアルカリ単純泉と山頂の遠望を取り入れた約三〇〇万㎡の広さに、昭和三九年以後、数々の施設を建設して歓楽境に発展させた。熱帯植物のジャングル風呂、各種の遊技場、映画館のほか、四季植物の植え込みがなされ、渓流に望んだ錦晴殿は、京都の金閣寺と寸分違わぬものとして造られ、優雅な線と黄金の雄姿が川面に映えて美しい。また、一二〇〇mのロープウェイで県営ユースホステルのある杉立山頂に登ると、四国連山の雄「石鎚」の壮観を背に、道後平野と瀬戸内海の島々を遠望することができる。谷あいにはホテル奥道後を中心とする宿泊施設、食堂、料亭、茶室が立ち並び、一般観光客にうけている(図2-43)。
 ホテル宿泊の形態についてみると、本館、カメリヤハウス、フラワーハウスを合わせて、年間約一五万人余りである(そのほかに研修的施設がある)。季節的には約五〇%が四・五・一〇・一一月に集中しており、発地別では松山市内五〇%、四国内一五%、大阪一五%、残りが東京・中国・九州である。これらの三分の二は滞在型で、家族による二泊三日のゴルフ、休養が多い。またこの観光地の特色は、ホテル、船舶、ゴルフ等の系列企業のタイアップによる集客力であり、公園においても、季節おりおりの催物の企画と県下関連企業との結びつきがみられる。


 権現温泉

 かつて、吉井勇が「大伊予の友国の湯にひたりつつほのぼのとしてものをこそおもへ」と詠んだ権現温泉は、松山市街の北方約九㎞、国道一九六号線よりわずかに山あいに入ったところにある。
 権現町友国川のほとりの岩間から湧出している温泉を発見し、現在のホテル清泉のところで営業され、次第に世に知られるようになったが、キジヤ台風の被害で一時休止状態となった。昭和三三年のボーリング成功によって、温泉郷としての開発が進められ、翌三四年には「ごんげ温泉センター」が完成した。その後、二本目のボーリングも成功し、出湯は松山市へ提供し松山市から配湯される形がとられており、現在では内湯の完備した旅館数九を数える(そのほかに盲老人ホームにも配湯される)。
 二八度Cの冷泉で、温泉センターは重油で、他は灯油により加熱利用しているが、泉質はラドンを含む単純アルカリ泉で薬効著しい療養温泉として知られ、また近くに五三番札所円明寺があることと関連して、県内だけでなく広島・高知・徳島・名古屋・大阪からの来客も多く、一般に年寄の利用が多いが、夏場には近くの堀江海水浴場からの帰りにセンターを利用するケースもみられる(図2-44)。


 東道後温泉郷

 ここには三つの温泉地がある。ファミリー温泉・東道後温泉・星乃岡温泉である。ファミリー温泉は、松山市の中心から東南へ約三㎞、南久米町の国道一一号線から二〇〇m北へ入ったところにあり、昭和三八年に完成した温泉で、泉質は単純アルカリ泉である。二〇〇人収容の大浴場をはじめ、貸し席、家族湯、大食堂、名店街などがある。従来冷泉を加熱利用していたのであるが、ボーリングの成功により四○度Cの温泉が湧出するようになった。
 東道後温泉は、松山市駅からバスで二〇分のところにあり、星乃岡温泉は、市駅から電車で八分、福音寺駅で下車して徒歩で一〇分のところにある。ともに近郊の人々の利用が多い。


 鷹の子温泉

 松山市の中心部より四km、国道一一号線沿いにあり、市駅から電車で一二分で行ける。一二○○年の昔、弘法大師が伊予の国久米の里に立ち寄られたとき発見し、付近の人々に教えたと伝えられている。四九番札所浄土寺も近い。昭和三九年に本格的に開発され、五〇〇人収容の大浴場をはじめ、バルブ湯・弁天湯・家族風呂、食堂街、遊具、演芸場などの施設のほか、ホテル(個室二二、宴会場三)も完備しており、四一年に鉄筋二階建てスーパーレスト(第二浴場)も完成し、一・二階とも浴場になっている。遊具も整い家族連れで楽しめる温泉郷である。泉質は単純アルカリ泉である。

図2-43 奥道後温泉の主要施設図

図2-43 奥道後温泉の主要施設図


図2-44 松山の温泉と札所寺院(有馬原図)

図2-44 松山の温泉と札所寺院(有馬原図)