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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

九 伊台・五明の観光開発


 地域の変貌
       
 伊台・五明地区は、湯山地区と共に松山市街の背後に控えた農山村であり、藩政時代から薪や木炭の生産、野菜の産地として知られていた。その伊台・五明地区は昭和三五年以降の高度経済成長期の間に、松山市の都市化の影響を受けて大きく変貌している。
 まず世帯・人口数においては、五明地区では、中心集落の菅沢を除いて、いずれも減少が著しいのに対して、伊台地区では、松山市に近接した下伊台地区で増加が著しい。下伊台地区の世帯・人口は、昭和四〇年の二五九世帯、一二一〇人が、昭和五五年には五五〇世帯、二一八六人になっている。これは昭和五六年まで下伊台地区が住宅建設の制約を受けない白地地区であったので、松山市街に近く地価が安い利点を生かして、住宅団地の建設が急激に進んだことによる(表2-58)。


 観光開発
      
 伊台・五明地区の変貌で、住宅団地の建設が進展した以外で注目されるのは、各種の観光・娯楽施設の建設である(図2-49)。この地区の観光資源としては、河野家一族の砦で中世の山城の遺構をよく残す横山城跡と、それに接して広がる五明牧場であった。五明牧場は昭和三八年に開設された松山市の乳牛育成牧場である。松山市内の酪農家の子牛が生後六か月で預託され、それが一か年後に人工受精され、分娩二か月前に酪農家に返却される。昭和五六年九月現在では、二七戸九二頭の育成牛が預託されている。その内訳は、小野(三戸・一四頭)、久米(八戸・二九頭)、桑原(一戸・五頭)、拓南(三戸・八頭)、石手(二戸・四頭)、西雄郡(一戸・二頭)、垣生(三戸・一三頭)、生石(一戸・三頭)、朝美(一戸・七頭)、久枝(二戸二頭)、和気(一戸三頭)、湯山(一戸・二頭)であり、預託農家は松山市域の各地区に分散している。牧場の一角は行楽客に開放されていたので、週末に横山城とセットでここを訪れる松山市民が散見された。
 その後新しく建設された娯楽施設としては、オートテックランド、フィールドアスレチック、ゴルフ場などがある。五明牧場に接してあるオートテックランドは、昭和四二年に五明菅沢の農家横田春雄によって建設された。県内唯一のオートランドとして週末には県下全域から集まる若者がモトクロスを楽しんでいる。昭和五八年現在の会員数は約三〇〇人である。伊台フィールドアスレチックは、昭和五二年四国建販・親和観光・伊台開発の三社によって、市民の健全な娯楽施設として開設された。昭和五七年現在の入場者数は三万五〇〇〇人、うち大人一万三〇〇〇人、中学・高校生六〇〇〇人、小学生一万三〇〇〇人、幼児三〇〇〇人であり、小学生を連れて家族単位で訪れる者が多いことを物語っている。利用のピークは三月から五月と一〇・一一月の春秋であり、そのほとんどは休日に訪れる。
 道後ゴルフ場は、昭和四三年開設された。ゴルフ場の経営者は、従前、この地にミカン園を所有していた六人の農家であり、ミカンの将来性に見切りをつけた転業といえる。ゴルフクラブの会員は約一四〇〇人であるが、うち九〇%は松山市内とその近郊の在住者である。利用者は会員・非会員ともに松山市民が多い。昭和五八年現在の従業員は、クラブハウス内の事務員一八名、食堂一〇名、キャディ五〇名、コースの維持管理一五名であるが、このうち、キャディとコース管理に従事するものは、伊台・祝谷地区のミカン農家の兼業と転業が多い。
 愛媛観光ゴルフ場は、昭和五一年に開設された。ゴルフ場の経営者が埼玉県の工場経営者であるので、ゴルフクラブの会員一三〇〇人のうち、県外の埼玉県方面が約五〇〇人も占める。利用者の大部分は松山市内の住民である。昭和五八年現在の従業員は、クラブハウス内の事務員一七名、キャディ三五名、コースの維持管理一三名、食堂一二名であるが、コースの管理に従事するものは地元五明地区の兼業農家であり、キャディは地元の五明地区の主婦のほか、松山市内・北条市内の主婦が雇用されている者が多い。
 伊台・五明地区は高度経済成長期に観光・娯楽施設が多く建設されたが、これは松山市街から自動車で一五分から二五分の近距離にあり、適当な起伏に富んだ用地に恵まれていたことによる。建設された観光・娯楽施設は、松山市民の週末の行楽地として利用されているものが多く、この地区は松山市の観光・娯楽地区としての機能を果たしているといえる。

表2-58 伊台地区の住宅団地

表2-58 伊台地区の住宅団地


図2-49 伊台・五明地区の観光・娯楽施設と住宅団地(篠原原図)

図2-49 伊台・五明地区の観光・娯楽施設と住宅団地(篠原原図)