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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四  砂丘地帯の野菜栽培


 砂丘地帯の野菜産地

 松山平野の伊予灘沿岸には、北は松山市の三津浜から、南は伊予市の郡中に至る間に数列の砂丘が発達している。この砂丘上は、内陸の後背湿地が水田であるのに対して水利の関係から畑に利用されている。藩政時代から明治年間にかけては、あわ・そば・麦などの自給作物の栽培が盛んであったが、大正末期以降交通の発達と共に、松山市場や瀬戸内海沿岸の諸都市を市場とする野菜栽培が盛んになってくる。
 砂丘地帯の野菜産地を北からあげると、松山市の古三津・清住・北吉田・南吉田・垣生、松前町の塩屋・北黒田・南黒田、伊予市の北新川・南新川などであったが、このうち古三津・清住は住宅化のために、北吉田・南吉田・塩屋などは帝人や東洋レーヨンの工場進出や松山空港の建設によって野菜栽培が著しく減少している。現在砂丘上の野菜産地として最もまとまりのあるのは、松前町の北黒田から伊予市の新川にかけての地区である。


 松前町黒田付近

 松前町の北黒田・南黒田から伊予市の新川にかけての砂丘地帯は、松山平野最大の野菜産地である。この地は寛永一二年(一六三五)松山藩から大洲藩に替地されたころには、牛飼原といわれる松林の荒地であり、砂丘の開発はそれ以降である。藩政時代には、麦・豆・そばなどの自給作物が栽培されていたが、幕末の嘉永元年(一八四八)讃岐の国より甘蔗(さとうきび)が導入され、明治年間には最も重要な作物となる。明治・大正年間には、夏作の甘蔗と冬作の裸麦の二毛作が一般的な作付体系であった。
 野菜の栽培が盛んになるのは大正末期以降である。最初は甘藷(さつまいも)・さといも・ごぼう・じゃがいも・たまねぎなどの根菜類が主として導入され、次いでなす・かぼちゃ・きゅうり・すいかなどの果菜類が、さらにははくさい・キャベツなどの葉菜類が導入されてくる。たまねぎは大正一一年(一九二二)大阪から「泉州黄」が導入されてから、年を追ってその栽培面積が増加する。かぼちゃは昭和六年「黒皮早生」が、さといもは同一一年ころ「石川早生」が導入され、共に早期栽培を有利にする。たまねぎに早生種の「貝塚早生」が導入されたのは昭和二五年である。
 昭和初期には、たまねぎ(冬作)→甘蔗又はかぼちゃ・さといも(夏作)→はくさい又はだいこん(秋作)が主な輪作体系となる。昭和一〇年代になると、夏作の甘蔗は減少し、かぼちゃの栽培面積が増加する。第二次世界大戦後は甘蔗が復活し、昭和二〇年から二四年には砂糖ブームが再来するが、それは一時的な現象にしかすぎなかった。二六年ころからは夏作と秋作にキャベツが増加してくるが、このころからはくさいにウィルスによる腐敗病が蔓延し、やがてはくさいは消滅していく。
 昭和五〇年代の輪作体系は、たまねぎ(冬作)→かぼちゃ(冬作)→キャベツ(秋作)の一年三作が普遍的である。秋作はキャベツ以外にねぎ・にんじんなども多く、また一時的な休閑地も目につく(図3-12)。たまねぎは一〇月下旬から一一月上旬に定植し、四月中旬から下旬にかけて収穫する。砂丘上のたまねぎの品種は早生種の「貝塚早生」であり、砂丘背後の後背湿地の水田のたまねぎが五月中旬から下旬にかけて収穫されるのと比べて約一か月程度収穫が早い。このように早期に収穫が可能なのは、砂丘の砂礫質の土壌が太陽熱を受けて地温が上昇することによるためである。砂丘上の冬作の約八〇%はたまねぎである。
 夏作のかぼちゃは三月下旬にたまねぎの中に定植する。寒気をさけるため四月中旬までビニールのトンネルで被覆する。収穫は五月上旬から七月上旬までであり、これまた砂丘の地熱の上昇を利用した露地による促成栽培を特色とする。キャベツはかぼちゃの収穫の終わった八月上旬から中旬に定植し、一〇月中旬に収穫するものが多い。出荷時期をずらすため、一枚の畑でも数日ずつずらして定植している。キャベツの収穫後はまた冬作のたまねぎが栽培される。
 農家は砂丘上の畑と後背湿地の水田の両方に農地を所有しているが、稲とたまねぎを栽培する水田よりも、たまねぎ・かぼちゃ・キャベツと一年三作する畑の方が土地生産性は高い。地価も土地生産性の違いを反映し、砂丘の畑の方が六割程度は高い。
 砂丘の畑作経営の最大の難点は灌水にあった。夏になると焼けつくように熱くなる砕礫質の土壌は、灌漑が不可欠であるが、地形の関係上河川の水を灌漑水に利用できないので、灌水は各自の畑に掘った井戸水をハネツルベで汲み上げる方式をとった。井戸は面積一〇アール程度に一つずつあったので、広い畑になると三つ程度も灌漑用井戸があった。井戸は畑の一番高いところにあり、汲みあげた水は溝をつたって畑全体に灌水できるようになっていた。
 水汲み作業は二人がかりで行なわれた。壮年の男か女がハネツルベで「水汲み」をすれば、その水を溝を切りながら畑全体に灌水する「水やり」は女か子供または老人の仕事であった。二人がかりで一〇アールの
畑に灌水をするには、約一時間を要した。七月から九月にかけては、一日二回の灌水を要したので、朝は三時ころから、日中は一一時ころから、それぞれ水汲みに精を出したという。
 この地方にモータポンプが導入され、動力揚水が普及したのは昭和九年以降である。昭和の初期にヒューガルポンプが一部の農家に導入されていたが、昭和九年にモータポンプが全域に普及したのは、前年の大旱魃が大きな契機となった。昭和一六・一七年ころにはハネツルベの灌漑はほぼ消滅する(図3-13)。
 モータポンプによる灌漑が始まってからは、井戸は整理統合され、共同井戸となる。六〇~七〇アール程度に一つの共同井戸が掘られ、四人から五人程度で共同利用された。共同井戸から各自の畑へは土管が地下配管され、畑の噴き出し口の木栓を抜くと、そこから水が噴き出るように工夫されている。灌水施設は共同所有であるが、利用は個人の恣意にまかされている。利用には一定のルールはなく早いもの勝ちである。最近個人単位で灌水施設を造ろうとする動きがあるが、これは自分の好きな時間に灌水したいためである(写真3-9)。
 この地方の野菜の出荷先は、元来松山市場を指向するものであった。昭和初期には大八車に積んだ野菜が土橋の市場に出荷されたが、片道三時間も要したので、前日に荷造りした野菜を朝の三時ころには運び出さなければならなかった。市場では仲買商に荷受けしてもらい市売りするものであり、松山近郊の小栗地区のごとく振り売りは不可能であった。このような生産者による個人出荷以外では、地元の郡中や松前の仲買商に庭先販売されるものがあった。これらの仲買商は松山市場に出荷するのみではなく、国鉄の貨車や郡中港・松前港から機帆船を利用して、呉・広島などの県外へも盛んに出荷した。
 松山市場への個人出荷の難しいこの地方では、野菜の生産が伸びるにつれて、仲買商に野菜を買いたたかれる傾向が強くなった。このことが昭和の初期に北黒田・南黒田・新川に農民の手による野菜の出荷組合を結成させた要因である。昭和一〇年からは伊予郡出荷連合組合・県農会の指導のもとに、松山のみならず、大阪・広島・関門・呉・尾道などの県外へもたまねぎ・かぼちゃなどの野菜を盛んに出荷した。
 第二次世界大戦後は、たまねぎ・かぼちゃに関しては伊予園芸の共同出荷が多い。伊予園芸管内で生産されるたまねぎは、昭和五七年現在早生種二一○○トン、晩生種七〇〇トンであるが、このうち八五%は組合の取扱い量である。たまねぎは昭和四一年「松山たまねぎ」として国の指定産地となったので、出荷先が規制されている。昭和五七年の出荷先は、関西地区五〇%、中国地区二五%、京浜地区二〇%、四国管内五%となっている。組合の共同出荷以外では個人出荷で松山市場などに向かう。かぼちゃは共同出荷四〇〇トンのうち、関西地区に出荷されるもの八〇%、京浜地区に出荷されるもの一五%、四国管内に出荷されるもの五%となっている。
 キャベツ・さといも・きゅうり・トマト・ねぎなどの野菜は各農家の個人出荷となっている。出荷先は伊予市の連合農協の青果市場か、松山市の中央卸売市場であるが、一部は地元仲買商人に販売されるものもある。


 松山市北吉田

 松山市の北吉田は、砂丘地帯では松前町から伊予市にかけての産地に次いで野菜栽培の盛んな地区であった。この地区は海岸に並行に五列の砂丘列とその間に五列の後背湿地があり、住民は砂丘上の畑を利用して野菜栽培を営むかたわら、後背湿地の水田を利用して水稲栽培をしてきた(図3-14)。
 昭和の初期までの砂丘上の畑作物としては、甘蔗が重要であった。甘蔗は冬作の裸麦の畝間に四月上旬に二節に切った茎が植え付けられた。五月下旬に発芽したころ麦刈が行なわれ、麦刈後は元寄を何回も重ねて倒伏を防いだ。特に台風時期には、畝ごとに杭を立て針金を張りめぐらして倒伏を防いだ。夏期には砂丘上にうがたれた井戸水をハネツルベで一日に一回から二回程度灌水した。一〇月中旬になると糖度を高めるため灌水は中止する。収穫は一〇月中旬ころに運動会に生食するものが収穫され、次いで一一月下旬から一二月上旬にかけて霜の降りる前に全面的に刈り取られる。
 砂糖をしぼる時期は一二月半ばから一月にかけてであり、砂の中に貯蔵された茎が順次とり出されてしぼられた。「しぼり場」は集落内に数か所あり、牛を動力にしてしぼり機を回してしぼった。「しぼり場」は数戸の農家が株をもって運営していた。しぼり取られた汁は、釜に入れ、薪をたいて煮つめてタキゴミ(粗糖)を造った。
 野菜栽培は大正末期から昭和の初期にかけて次第に盛んになってくる。この地区で栽培される野菜としては、らっきょう・にんじん・だいこん・ごぼう・やまいもなどの根菜類の栽培が盛んであった。それはこの地区の砂丘が、松前町から伊予市の砂丘のように砂岩や結晶片岩の砂礫質ではなく、花崗岩の風化した細粒の砂であったので、質の良い根菜類が栽培できたことによるが、一方では、こまかい砂は強風によって吹きとばされるので、葉菜類は風に埋まり栽培に不向きであったことにもよるといわれている。
 根菜類の中で最も重要な作物は金時にんじんであった。にんじんには五月の中旬に播種し、一〇月初旬の秋祭用に収穫する早出し用と、七月中旬に播種し、一〇月中旬から翌年の四月上旬まで収穫を続けるものがあったが、その主体は後者にあった。また、他に一二月に播種し、梅雨あけに種子を採るにんじんもあった。採種用のにんじんは松山の種もの屋と契約栽培をしているものが多かった。この地区のにんじんは紅が鮮かであり、きめが細かく、「吉田のにんじん」として名声を博した。春の節句まで鬆が入らぬこと、寿司に入れてもにんじんの紅が米に移らないことなどが名声を博した理由である。
 ごぼうは秋播きが多く、春播きは少なかった。正月前に播種したごぼうは六月に収穫でき、二月から三月にかけて播種したごぼうは七月から八月にかけて収穫した。この地区のごぼうは太陽熱による砂地の昇温を利用した露地による早出しごぼうの栽培に特色をもっていた。
 だいこんは五月上旬に播種し、七月上旬に収穫する美濃早生だいこん(夏だいこん)、八月下旬に播種し、一二月から二月にかけて収穫する青首だいこん(秋のだいこん)、一二月から一月に播種し、四月から五月にかけて収穫する時なしだいこん(春だいこん)などがあった。だいこんもまた、含め細かい良質のものが生産された。
 野菜の出荷先は、大正年間は松山市の土橋の市場と三津浜の市場に個人出荷された。市場までの時間距離は、荷車にて土橋まで一時間半、三津浜まで四〇分程度であった。昭和初期には、野菜生産が伸びるにっれて農家によって出荷組合が結成される。出荷先は三津浜港を経由して呉・広島にまで拡がった。この共同出荷は同じ船に荷物をまとめて積み込むという形の共同出荷であり、実質的には農家の個人出荷とかわらなかった。
 北吉田の野菜栽培は、昭和二八年帝人松山工場の誘致が決定して以降、砂丘上の畑とその間の後背湿地が工場用地に転用されたことによって壊滅的な打撃を受けた。水田六〇ha、畑二〇haといわれた北吉田の耕地面積は、現在水田四ha、畑二ha程度に減少してしまった。かつて野菜栽培で生計を立てていた農家の大部分は、帝人松山工場・丸善石油・大阪ソーダなどの工場に勤め、脱農したものが多い。北吉田は急激な工業化が野菜産地を消滅させた典型的な事例といえる。

図3-12 松前町黒田付近の土地利用図

図3-12 松前町黒田付近の土地利用図


図3-13 伊予市新川の砂丘上の灌漑施設

図3-13 伊予市新川の砂丘上の灌漑施設


図3-14 昭和初期の松山市北吉田の地形と土地利用

図3-14 昭和初期の松山市北吉田の地形と土地利用