データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 砥部焼(1)


 沿革

 「砥部焼」という呼び方が初めて出てくる文献は、大洲藩士人見甚左衛門栄智が元文五年(一七四〇)に筆写した『大洲秘録』である。この書物の中に、砥部の大南村と北川毛村の特産物をあげ、「陶茶碗之類ヲ造リ出ストベヤキト云」、「陶器茶碗鉢類トベヤキト云」とあり、このころよりも前に砥部では陶器(土物)が生産され、特産物として有名だった(表3-53)。
 しかし、今日の砥部焼、すなわち、磁器としての砥部焼の起源は、安永六年(一七七七)で、同じく大洲藩政下の時代であった。時の大洲藩主加藤泰候侯が土産の砥石屑を利用して磁器創製を思いたったことに始まる。安永四年(一七七五)、泰候侯は、加藤三郎兵衛に命じて磁器の製造を企てた。三郎兵衛は、大阪の砥石問屋和泉屋治兵衛の媒介で肥前大村藩長与窯の工人安右衛門外四名を迎え、麻生村の御用油師門田金治を主幹とし、宮内村の杉野丈助を工場指図役として事に当たらせた。丈助は同年三月、五本松上原に窯を築き、外山産の砥石屑を坏土及び釉薬の原料として製造に着手し、その後二年半余りにわたり幾度か失敗を重ねつつ苦心研究を続けた。失敗の原因が釉薬の不良にあることを、時たま、筑前上須恵窯より来ていた信吉なる者に知らされ、彼の勧めに従って筑前より釉薬原料をとりよせ、これを用いて初めて完全な磁器を作ることができた。これが砥部磁器の起源であって、安永六年一二月一〇日のことである。なお、丈助は、釉石を他国に頼るのは不利であるとして近郷の山野を探し求めた結果、三秋村(現伊予市三秋)に良石を発見し、調合の方法を研究し釉薬に応用することができた。こうして彼は砥部磁器の陶祖と仰がれるに至ったのである。
 磁器の製造に成功するとその年、藩は工場を門田金治に下賜し大いに保護奨励した。金治は職工を肥前及び筑前より招き、創業の困苦によく耐えてこれを発達させた。製造家も増加し、市場村(現伊予市)にもその方法を伝えた。その後、向井源治は文化一〇年(一八一三)五本松花細に工場を開いた。彼は当時の製品の色合いが悪いのを遺憾として近郊を探査した結果、文政元年(一八一八)川登の川底に白色の岩層を発見し、これを用いて純白の磁器を製することができた。これが川登石であり、彼は本県における白磁器の祖であるといえる。ついで、文政八年(一八二五)砥部の人、亀屋庫蔵は、藩から選ばれて肥前に行き錦絵の方法を習い、帰って錦絵磁器を製造した。これが砥部における錦絵磁器の始まりである。
 源治・庫蔵以後なお幾多の先覚者が出て技術上の工夫・改良を加え次第に発達したが、明治に入り向井和平(源治の孫)、伊藤允譲・城戸徳蔵が出るに及んで砥部焼はその品位を高め、内外にその名声を博するに至った。すなわち、和平は幾多の製造上の改良をなしたほか、明治一一年(一八七八)伊達幸太郎を京都に派遣して彩画描金の法を伝習せしめ、一三年より西洋絵具を用いる京都風(清水焼)絵付の製品をつくり、一八年には城戸徳蔵等と共に海外輸出品の製造を始め、さらに二三年には新たに淡黄磁器を創製して内外に好評を博し、二五年には磁器に彫刻を施して製品に改良を加えた。また、伊藤允譲(五松斎)は明治一一年(一八七八)に有田から工匠を招いて型絵・染付の法を伝え、自らも錦手と称して青華錦彩の精巧美麗なものを製造した。城戸徳蔵は、向井和平と輸出品の製造を始めた(写真3-25)。
 明治初年の砥部焼は、飯碗・弁当・重丼等の下手物が多く、松前商人によって「からつ船」で四国・中国地方の農漁村に売りさばかれていたのであるが、前記の向井・伊藤・城戸等の工夫、改良によりしだいに高級品となり、輸出向製品に転じて顕著な発達をとげた。明治二〇年ころの製品の種類をみると、淡黄磁器では装飾品及び茶器を、染付磁器では日用品・飲食器を、錦彩画磁器では丼鉢類を製造していた。輸出額も逐年増加し、二六年には生産額の三八%に達した。製造所は一八か所(下浮穴郡一四、伊予郡四)、従業員は七二八人(職工四四三、その他二八五)であった。
 第一次大戦中は南方向け輸出の最盛期で、輸出品が生産の七割も占めた。その主な物は型絵染付茶碗(ライスボール)で、特に「伊予ボール」と呼ばれ、輸出の伸びによって販売面も活発となり、問屋業も拡大し、砥部の町の経済は大いに潤った。しかし、大戦終了とともに南方向け輸出は振わなくなり、一転して不況になり、倒産・廃業する工場が続出した。
 昭和になっても好転はみられず低迷が続いた。その中で、一三年に組合の共同製土工場がつくられ、それまで多くあった水車に代わって機械で陶石を砕き、坏土をつくるようになった。第二次大戦中は企業統制により、当時の伊予陶磁器工業組合所属の一五工場は四工場に統合せられた。戦後は、東南アジア向けの伊予ボールの生産で復興した。二八年ころからは国内向け花器・置物・飲食器などの生産に力を入れるようになった。また三〇年には碍子、三八年には工芸タイルの生産も始まり、四〇年代には民芸ブーム・手作りブー人がおこり、窯元数も三五年の二七から四六年の四六、五一年の七一と増え、五一年には国の伝統的工芸品に指定された。なお、五七年現在の窯元数は六四である。

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 1

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 1


表3-53 砥部焼に関する歴史年表 2

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 2


表3-53 砥部焼に関する歴史年表 3

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 3


表3-53 砥部焼に関する歴史年表 4

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 4


表3-53 砥部焼に関する歴史年表 5

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 5


表3-53 砥部焼に関する歴史年表 6

表3-53 砥部焼に関する歴史年表 6