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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 伊予鉄道沿線の駅前集落


 横河原の集落立地と飲料水

 横河原は重信川の渡河点、金比羅街道の渡津集落で、伊予鉄道の横河原線もこの地点で止まった。橋のたもとにあるこの集落は重信川の自然堤防の延長上にあり、乏水性の横河原扇状地の扇央部にあって飲料水には恵まれなかった(図3-32)。
 集落の立地が古いのは金比羅街道の旧道筋で、この道筋に最も古い上井戸・中井戸・下井戸(明治二〇年-一八八一より前)の共同井戸が三か所あり、深さが七間(一二・六m)もあった。明治四〇年(一九〇七)駅前通りにも共同井戸が掘られた(写真3-26)。新道(国道一一号開通の大正一三年(一九二四)を中心に二本松・本町・水天宮の新共同井戸が掘鑿され七か所の共同井戸に飲料水を依存した。集落の発達は井戸の開発と一致し、最初旧道沿いから駅前通りへ発展し、その後、新国道沿線へと拡大して新旧両道を結ぶ街道沿いに集落が形成された。
 土居藤太は横河原の飲料水不足の解決は、上水道施設を設ける他には術がないことを訴え、昭和四年同志八木菊次らと相謀り、伊予郡上灘(現双海町)の簡易水道施設を視察して帰った。夏枯れしない水脈を探索しつづけ、昭和二一年盤石の大設備を施すため、伏流水を揚水する新藤式揚水パイプ一○○尺(三〇・三m)、ポンプ(七馬力)、それに五馬力のモーター時価三万円を購入して設備の完成をはかった。株主戸数七二戸(一株二〇〇〇円)その他二〇戸(水道よりのもらい水)計九二戸、横河原全世帯の三八%がこの上水道の恩恵に浴した。扇央の乏水性の地形上に立地した横河原の集落発展に寄与した土居藤太・筒易上水道組合長八木菊次・中奥文吾・富久宇太郎らせ話人の労苦と努力を讃えねばならない。


 横河原駅前集落の発達

 見奈良の相原直温の記録した『相原日記』、明治二一年(一八八八)九月一日洪水記録中に「樋口村ノ東南部ナル字横川ノ人家数数十集合シテ商家軒ヲ並べ近ク町ヲ作リタル場所ナルガ……。」との記録がある。横河原は明治二三年(一八九〇)ころまでは金比羅街道筋に沿う一四戸の寒村で二本松という巨松があり、この松が地域名となって二本松と呼んだ。二本松は横河原駅の北側にあり敷地は志津川の天満神社の御旅所である。横河原の地籍は樋口と志津川に分かれ氏子も樋口村と志津川村に分かれていた。
 石鎚登山客が重信川の洪水で川止にでもなった時に宿泊する程度の小集落が、明治三二年(一八九九)一〇月四日、伊予鉄道平井河原駅からの延長線が横河原まで開通し、横河原線の終着駅となってから急速に発展した(表3-55)。
 鉄道が横河原まで延長されると、村内の樋口・志津川から出て商売を営むもの、川上村(現川内町)や周桑郡方面から移住して駅前で八百屋・駄菓子屋などの店を開き、なかには、人力車夫となって駅前で営業用人力車業を営む者もあった。人力車は三内・川上(現川内町)方面の人々が多く利用し、時には周桑まで足を伸ばすものもあった。人力車に続いて客馬車(六人乗)が登上して川上・丹原方面へ客を運び、東温地域の交通要衝として、一大商業集落を形成した(図3-33)。昭和五六年には七九一戸の大集落に発展し六〇余軒の商家が街村状の駅前商店街を形成し店舗構成は表3-56のとおりである。


 農林産物の集散地化した横河原

 横河原線の開通は、横河原を物産の集散地とした。横河原駅構内に貨物積込の引込支線が設けられ、駅前広場は山之内(現重信町)川上・三内(現川内町)などから運び出された薪炭・木材の集散地となり、荷馬車・トラックで運搬してきた材木・薪炭・杉皮などの山が築かれた。駅前には運送店があって、村内はもとより川内町方面への生活雑貨・肥料・農機具類は殆ど横河原駅止で送られてきた。こうして横河原は物産の中継基地となり、山間地域に牛馬車で配達した。川上の米倉庫も、横河原駅構内に専用ホームをもうけ引込線をひいて建設した。現在も土蔵倉庫は残っている。表3-57により横河原駅の乗降客・貨物輸送状況を見ると、周桑郡や川上・三内(現川内町)方面の玄関口となった横河原の流通機能の活況がわかる。
 かように、横河原までの鉄道延長は近隣の村々に大きな影響を与えた。横河原駅まで延長(一三・二㎞)したことによって、通過駅となった平井駅前の新街村は大きなダメージを受けた。『温泉郡誌』は

「明治二五年(一八九二)九月起工し同二六年(一八九三)四月竣工五月七日開業せり。元平井河原駅と称し、横河原線延長以前にありては最終停車場として荷客輻輳せしが、横河原線の延長せられるや頓に荷客を滅し全く其繁栄を横河原駅に奪われたり。……」

と、また川上村についても『郡誌』は

「松山街道は川上駅より西方横河原を経て松山に至る要路なり。其横河堤防に至る間は道路平坦にして、人馬車の来往容易なれども横河原は砂礫多く又凹凸甚しく、大雨の時はしばしば交通遮断せられ往来大に不便なり……。山林濫伐の結果殆んど山林と見傚すべきものなけれども、船の山・シダヲ山等に松杉桧等稍繁茂す、然れども是等も漸次伐採し横河原駅に運搬するをもって樹木日々に減少す。鉄道の使用せざる前には東西の旅客川上駅に宿泊するもの多かりしが、松山市より横河原駅まで鉄道布設せられ、以来客漸く減少……。」

と川上宿場町の繁栄もすっかり新興駅前集落の横河原新街村にお株を奪われてしまった。
『北吉井村誌』(昭和一三年刊)は

「明治三二年(一八九九)一〇月横河原駅が開設されたとき民家僅か二圭二軒あるのみにして、小松原の荒蕪地にすぎず、婦女子の通行も昼間さえ危検視されるところであったと古老はいう。然るに今日、人家二〇〇軒余を算し、商家櫛比の現状であり一行政区がもうけられ、本村の大玄関口たるの発展を見たるは一重に伊予鉄道の恩恵である。本村以東の貨物の集散地であり、交通の要衝として将来益々発展するであろう。」

と記している。


 横河原の商工業

 大正二年(一九一三)松末磨多一が製材業を営んだのも交通の便利なためである。電力がまだ導入されていないので、焼玉エンジンを動力源として建築材や箱板を製材した。専用引込線をもうけ鉄道輸送で松山・三津浜方面に輸送し、箱板は広島県大崎下島の大長(現豊町)みかんのみかん箱の注文が多かった。大正一三年(一九二四)佐伯運三が佐伯製材を創業し、富久宇太郎も駅の北側で吉井製材を経営するなど、戦前には横河原駅周辺に三製材工場が立地した。翌一四年(一九二五)樋口の和田伍郎が新国道ぶちに清酒醸造業を始め、志津川の酒造業島田要の小富士と共に銘酒男花の地酒を醸造している。
 戦前には中奥・日乃出屋の二軒の割烹旅館も営業し、精肉店・鮮魚店・油揚げ・こんにゃく屋などの食品店があった。鍛冶屋が三軒、荷馬車も多かったから蹄鉄鍛冶屋も一軒あった。堤防上の空地で東温地方の牛市も不定期に開催され、横河原橋詰の堤防空地では人形芝居や大相撲の地方巡業が開かれた。横河原駅前には劇場旭館があって地方巡りの劇団や映画が上映され、農村娯楽のセンターであった。昭和一三年には、傷痍軍人愛媛療養所が開設されて官舎ができ横河原の商店街は一層活気が増し加わり、益々繁栄して戸数も増加した。


 学術衛星町化した横河原界隈

 昭和二九年二月一日、横河原線開通以来沿線住民に親しまれてきた坊ちゃん列車、四輪連結水槽付蒸気機関車を廃し、ディーゼル機関車運転となった。松山-横河原間所要三九分、二二往復運転となり松山生活圏と一層密着した。しかし、昭和三五年以降の農村の過疎化と自動車の普及、道路の整備がすすむにつれ貨物や乗客の鉄道利用が減少した(表3-58)。昭和四〇年に森松線を廃止した伊予鉄は、赤字を理由に横河原線も平井-横河原間を廃止してバス化を決定した。
 そこで、重信町は四一年五月、横河原線電化期成同盟会を結成し、九月に伊予鉄本社前で町民大会を開き、廃止反対の運動を展開し存続を要望した。こうした存続運動と公営機関の誘致などの結果、ようやく四二年一〇月一日全線電化を完成した。さらに五六年には高浜線と直結し一五分間隔の運転となり、松山市のベッドタウン化を一層推進する結果となった。
 昭和四八年、横河原駅西部の志津川部落の不用溜池、「前川池」通称かご池四haと、その周辺部敷地六万坪(一九万四二五五㎡)の用地に総工費二〇〇億円を投入して、愛媛大学医学部および付属病院が完成した。横河原駅界隈が中心街で、農協・商店・銀行・郵便局・東温消防署・愛媛大学公務員宿舎・国立療養所愛媛病院官舎・四国地方建設局松山工事事務所など官公署・金融機関などが集中している(写真3-27・28)。

図3-32 横河原扇状地と横河原駅前集落の位置

図3-32 横河原扇状地と横河原駅前集落の位置


表3-55 重信町横河原の戸数変化

表3-55 重信町横河原の戸数変化


図3-33 昭和10年代(戦前)の横河原駅前の集落

図3-33 昭和10年代(戦前)の横河原駅前の集落


表3-56 重信町横河原商店街の店舗構成

表3-56 重信町横河原商店街の店舗構成


表3-57 伊予鉄道横河原線沿線各駅の利用状況

表3-57 伊予鉄道横河原線沿線各駅の利用状況


表3-58 伊予鉄道横河原駅乗降客の変遷

表3-58 伊予鉄道横河原駅乗降客の変遷