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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 中予地方の古い集落


 式内社と集落

 道後平野と風早平野の考古学的な調査の報告によると、集落は平野の山麓に早く立地し、次第に低地に新田集落が形成されている。山麓には古墳が各地に分布している。集落は一般に飲料水のあるところ、天災の少ないところを選び、古い神社や寺のある付近の集落が一般に古いようである。
 延長五年(九二七)撰の延喜式に記載されている、いわゆる式内社が、道後平野には八社、風早平野には二社ある(図3-34)。愛媛県の式内社は伊予市より南の喜多郡や宇和郡には見られない。南予は文化的には開発が遅れた証拠である。風早郡の①国津比古神社と②櫛玉比売神社の二社は、北条市八反地の丘陵上に、相接して立地している。その山麓は集落発達の好条件の土地である。
 天平勝宝四年(七五二)の東大寺文書には、風早郡粟井郷五〇戸が、温泉郡の五〇戸と合わせて、東大寺の寺家雑用料にあてられたとある。当時この程度の集落が発達していたことを示している。
 道後平野の場合は、道後温泉の近くの丘に、三社が相接している。③伊佐爾波神社(湯月八幡)は、もと道後公園の中央の比高約四〇mの湯月城址の上にあった。断層で切られた地塁で分離丘陵である。古くは伊佐爾波岡と呼んだ。飛鳥時代に聖徳太子が道後温泉に来浴された時、有名な温泉の碑を建てられたのもこの丘らしい。鎌倉時代に河野氏が湯月八幡宮を建立したが、南北朝のころに湯月城を造った。そしてこの二社を今の地に移したという(愛媛面影)。今の壮麗な湯月八幡の社殿は松山藩主松平定長が、寛文四年(一六六四)に再建したものである。④湯神社と⑤出雲崗神社の二つの式内社は、今は冠山の上に合祀されている。道後温泉に近い山腹に③④⑤の三社が立地しているのは、当時から、式内社を維持するだけの人家があり、道後温泉付近には古い集落があったものと思う。
 ⑥阿沼美神社は『国史大系本』には、阿治美とあるが、沼が正しい。今の松山城(勝山・味酒山)の山頂にあった社を、加藤嘉明が慶長七年(一六〇二)に築城のため、城西の今の敷地に移したという(『愛媛県誌稿』・『松山史要』)。味酒の地名は、温泉郡とともに、『倭名類聚抄』(七一三年篇)の郷名にも、『続日本紀』にも見られる古い地名である。伊社爾波の丘は、湯の岡や天山とともに『伊予風土記逸文』(七四八年編集)に出てくる地名である。
 伊予郡の式内社は四社とあるが三社が正しい。⑦伊予豆比古命神社だけは伊予郡でなく、昔の久米郡、後の温泉郡とすべきである。旧石井村(現松山市)の居相にあり、椿神社の名で知られ、旧正月六・七・八日の大祭には、毎年三〇万人ほどの参拝者がある。戦時中は武運長久、今ころは商売繁昌、受験合格の神として人気がある。以前は水田の真中であったが、近年は住宅地として発展し、神社の近くに石井小学校・石井東小学校・椿小学校のマンモス小学校ができている。
 ⑧伊予神社は松前町神崎(旧北伊予村)に、⑨高忍日売神社は松前町徳丸(旧北伊予村)に、⑩伊曽能神社は伊予市宮ノ下(旧南伊予村)にあるが、互いに距離的には一㎞余で近い。この地域は地名の上からも伊予国の伊予郡の伊予村で、伊予国の中心的な所であったことを示す。神崎や宮ノ下の集落名も神社に関係がある。集落の立地条件も、河川の氾濫・飲料水・農耕・交通上からも好条件の所である。なお伊曽能神社は、南北朝のころまでは、今の伊予市(旧南山崎村)の曽根にあったのが、今の地に移ったといわれている『志賀剛の式内社の研究』。これらの集落形態は、街村や散村ではなく、いずれも集村である。


 石手寺・太山寺浄土寺の門前町

 石手寺も太山寺も浄土寺も鎌倉時代の貴重な建造物や宝物の残っている古い寺で札所である。門前には早くから街村的な集落が発達し、江戸時代からへんろ宿もあった。松山市内には四国八十八ヶ所の札所が八か寺もある。浄瑠璃寺・八坂寺・西林寺、浄土寺・繁多寺・石手寺・太山寺・円明寺のどれをみても、近くに集落がある。戦後は檀家が必ずしも近くの人とは限らなくなったが、寺の付近の農村集落は集村が多い。


 中予の古い地名

 和銅六年(七一三)の『倭名類聚抄』に伊予国の郡名が一四ある。中予の各郡の郷名をみると次のようである。
 風早郡の粟井・河野・高田・難波・那賀。和気郡の高尾・吉原・姫原・大内。温泉郡の桑原・埴生(垣生)・立花・井上・味酒。久米郡の天山・吉井・石井・神戸・余戸。浮穴郡の井門・拝志・荏原・出部。伊予郡の神前・吾川・石田・崗田・神戸・余戸が誌されている。


 河野氏御家人の分布

 『東鑑』元久二年(一二〇五)八月の条に、河野四郎通信の伊予国の御家人三二名の名がある。ほとんど道後平野で集落に関係がある。『伊予史精義』によれば次のようである。いわゆる豪族集落である。
 ①浅海太郎頼季(浅海村)・②橘六公友(素鵞村)・③浮穴大夫高茂(浮穴村)・④田窪太郎高房(南吉井村)・⑤白石三郎家員(南吉井村野田)・⑥高野小大夫兼恒(湯山村)・⑦埴生太郎清貞(垣生村)・⑧眞膳房実蓮(味生村北斎院)・⑨井門太郎重仲(浮穴村井門)・⑩山前権守(北山崎村)・⑪大内三郎信家(潮見村)・⑫十郎大夫高久(潮見村大内)・⑬余戸源三入道俊恒(余土村)・⑭久万太郎大夫高盛(久枝村久万)・⑮久万太郎永助(久枝村久万)・⑯吉木三郎家平(石井村吉木)・⑰吉木四郎高兼(石井村)・⑱別宮大夫長員(粟井村の別府か拝志村の別府)・⑲別府新大夫頼高(同上)・⑳別府七郎大夫吉盛(同上)・(21)寺町五郎太夫信忠(小田町村)・(22)寺町小大夫時永(同上)・(23)寺町十郎忠貞(同上)・(24)寺町太郎頼恒(同上)
 以上は中予における河野氏の御家人の分布である。これらの集落は集村の形態をなしている。

図3-34 中予地方における式内社の分布

図3-34 中予地方における式内社の分布