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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 遍路道と金ぴら街道


 中予の遍路道

 昔の大洲領内には札所がない。江戸時代からの伝説によると、弘法大師が四国を回られたとき、大洲の若宮で虐待され、宿泊を断られ、十夜ヶ橋の下で野宿されたためといわている(賢明著『空性法親王四国霊場御巡行記』。しかしこれは史実ではない。四二才の弘法大師は当時とても多忙で、南予までは来ておられない。大洲藩に札所のないのは、大洲藩は江戸時代に儒教や禅宗が盛んで、真言宗が弱かったためもある。四国八十八か所のうち、中予地方に一〇か寺ある。それも上浮穴郡に二か寺と、あとの八か寺は松山市内にある。松山市内の遍路道は平坦で、近接しており、八か寺を一日行程で順拝できる。これに対して、四三番の宇和町の明石寺から、四四番の菅生山大宝寺に至る行程は、昔は二一里(八四km)で、二泊三日で歩いた。この区間は伊予では最も長く、しかもいくつも峠を越える難コースであった。土佐の窪川の三七番岩本寺から足摺岬の三八番金剛福寺間の一一〇㎞に次ぐ長丁場である。
 43明石寺-44大宝寺間の遍路道 昔の遍路は明石寺から北に向かい、田野中から札掛峠を経て大洲へ出て、番外の十夜ヶ橋の永徳寺に参拝して、内子、大瀬、田渡、下坂場峠、宮成、鴇田峠を越えて久万の大宝寺に順拝した。この八十余㎞の旧遍路道を歩く者は今は全くなくなった。鴇田峠の頂上などは人通りがなく、藪こぎで荒廃している。今は単車か歩く者でも明石寺から、いったん卯之町へもどり、国道五六号を通り、内子から小田町の町村、真弓峠、橋詰、落合を経て久万に出る約九五㎞が順路である。しかし小田町の田渡の突合わせから臼杵を通り、下坂場峠を越えて宮成、橋詰、落合経由が少し近いし、道標があり集落もあって淋しくない。
 大型の順拝バスなら内子から広田の上尾峠を越えて砥部に出るか、国道五六号の犬寄峠を通って、伊予市に出て、砥部から国道三三号の三坂峠を越えて久万町の大宝寺に順拝する方が、道路が広くて時間的にも早く、安全である。なおハイキングコースとしては大洲市指定の文化財鳥坂番所と札掛峠間が、旧道で昔を偲ぶのには好適である。
 44大宝寺-45岩屋寺間の遍路道 今回環境庁の予算がつき、「四国のみち」の愛媛県版は、まず昭和五六年度に久万町の河合から岩屋寺の八丁坂の旧道と、古岩屋から岩屋寺に至る「川沿いの道」の「山里のへんろ道コース」一〇・五kmを整備した。河合には「かどや」の遍路宿が残っており、宿帳も保存されている(図3-48)。すぐ近く三〇〇m東に、畑野川バス停があり、一㎞東に、「久万高原ふるさと村」がある。久万町産業課の経営で、昔の代官宿泊所の民家、農家の馬小屋、倉庫、民俗資料を集めた山村歴史館など昔のふるさとの学習のできる施設がある。また炭焼窯があり実演し、新鮮な野菜や川魚を炭火で料理する食堂がある。春は山菜狩りやきのこ狩り、夏はとうもろこし、秋はりんご狩りもできる。隣接してキャンプ場と野外レクリエーション施設のある家族旅行村がある。
 ふるさと村バス停から東方一kmにハイランドゴルフ場入口があり、これより約二㎞で八丁坂入口休憩地がある。ここから渓谷を一㎞東に進むと、国民宿舎古岩屋荘がある。この付近は古第三紀(五千万年前)の礫岩峰が林立しており、海底に堆積した礫岩層が、五〇〇mも隆起し、侵蝕されたもので、妙義山に劣らぬ絶景である。特に秋の紅葉季が美しい。
 八丁坂入口から山の屋根を通る丁石のある古い遍路道は、岩屋寺の奥の院に至る参道で、二・六㎞のコースである。三十余の丁石や行倒れの遍路墓や、延享五年(一七四八)の二八五cmの高さの、槇谷組中の建てた緑色片岩の道標などがあり、昔の遍路を体験できるユニークなハイキングコースの遍路道である。
 昭和五七年度の愛媛県の「四国のみち」は次の三コースが整備された。(一)は久万郷の山寺に通ずる遍路道コース (二)久万郷の峠を越える遍路道コース (三)旧三坂峠を下る道コースである。
 (一)は久万町役場から大宝寺の杉の巨木の森を通って、峠御堂トンネルの東口に出て、河合に至る約四㎞のコースで、五六年度に整備した河合からの東の山里の遍路道コース一〇・五㎞に連結するものである。
 (二)は河合から西へ、大宝寺の北方二kmを、千本峠を越え、高野の集落を通って、仰西渠に至る四㎞の遍路道コースである。河合は模式的な「打戻り」地点で、ここに一泊し、荷物を預けて、岩屋寺へ往復する者が多かった。大宝寺の総門の内に、戦前は五、六軒遍路宿があったが、今では総門の外(西方)の久万川の右岸に、仕七川屋という遍路宿が一軒経営しているに過ぎない。大宝寺に最も近い下寺(目下駐車場)の前に、とみや(井上シカヨ)という遍路宿があったが、七年前から許可はとっているが休んである。宿泊は札所がするようになった。
 (三)の旧三坂峠を下る道コースは、九・五kmの長丁場で、上るのは疲れるが、森林の中の急坂を下るのは楽である。海抜七二〇mの三坂峠には伊予鉄の食堂や展望台や記念碑や句碑や個人の売店や別荘やバンガローがあり、休憩の施設が整っている。しかし峠から浄瑠璃寺(四六番)を経て八坂寺(四七番)に至るコースは割合に単調である。三坂峠で見るべきものは桜・榎の部落の休憩所、行倒れ遍路墓、網かけ石、バスの終点の丹波の集落、窪野の一遍上人の窪寺の跡、浄瑠璃寺ぐらいである。丹波の三坂峠の麓に、松山札の辻より四里の道標があったのに、紛失したのは残念である。


 松山市内の遍路道

 46番の浄瑠璃寺から47番の八坂寺に至る道は、わずか〇・八㎞で、歩いて一〇分ほどである。岩屋寺-三坂峠-浄瑠璃寺間の二二km、歩いて六~七時間、大宝寺-三坂峠-浄瑠璃寺間の一四㎞、歩いて三~四時間に比して近距離である。八坂寺から48番の西林寺に至るコースには、衛門三郎で有名な文珠院や八塚があり、土用部池の堤坊の今は人が通らぬ草むらに、貞亨二年乙丑(一六八五)の道標がある。この道標が伊予国で、今残っている道標では最も古い。八坂寺から恵原の街村集落を通り、夜明ヶ松から岐れ道を東にとり、小村・河原の集落を抜け、重信川の大橋を渡って、高井の西林寺に至る距離は四・六kmである。恵原の街村の途中から東に折れ、中世の平岡城址(恵原城)や幕末の庄屋の渡部邸(国指定の文化財)も道路ぶちで見学(土曜と日曜日)できる。西林寺の前の内川は、伊予節でも知られているテイレギの産地である(図3-49)。
 48番の西林寺から北方の49番浄土寺までは三・四kmで徒歩で約一時間のコースである。途中要所には遍路道の道標がある。49番浄土寺から50番繁多寺への道は、二・六㎞で、ファミリー温泉の下を通り、昔はもっぱら人が歩いていたが、最近は車が輻輳している。繁多寺は浄水池の上にあり、山麓で蜜柑園や池の縁を通り、展望がよい。
 50番繁多寺から石手川の遍路橋を渡り、51番石手寺に至る二・六kmの道は、戦前は畑寺も東野も農村集落で、のんびりしていたが、今は住宅地域で、道も広くなり、バスやトラックが走り、交通量が多い。民家の建物も変わった(図3-50)。
 51番石手寺は市内の札所中、最も参詣者が多く、寺前は順拝バス・トラック・定期バス・マイカーが常に輻輳している。石手寺から道後温泉を通り、御幸寺山麓の樋又を経て、今は埋めた松田池(松山商大グランド)から山越の寺町を通り、姫原・東長戸・鴨川・安城寺を経て、近道の大渕から52番太山寺に至る遍路道は、道路改修のため沢山あった道標が散逸している。大渕付近は果樹園の中を、道標を辿って旧道を歩くと、変化に富み、見学事象も多く、自転車なら楽だが、歩くと一三・五㎞あり、四時間はかかる。
 52番太山寺は、一の門から奥が遠い。定期バスは一の門前がバス停であるが、順拝バスや乗用車は〇・五㎞奥の本堂前の石段の近くまで行けるようになった。途中太山寺には布袋屋・佐々木など昔の遍路宿の俤を残す民家が四軒あり、森林に包まれ、句碑・歌碑を読みながら歩くと楽しいコースである。太山寺から53番の円明寺への遍路道は、今は二・五km直線的で「打ちもどり」する人が多い。近年は円明寺から太山寺へ往復、同じ道を通っているが、戦前は太山寺-石手寺道は、南の大渕の集落を通り、太山寺-円明寺の旧道は、小学校の北の曲がった道を通っていた。
 53番円明寺には隠れキリシタンの墓があり、道標に汽船乗場の宮島行を指示する文字がある。本尊の厨子に打ちつけた銅板の納札を、大正一三年アメリカのスタール博士が紹介して有名になった。松山市の指定文化財である。
 円明寺から今治市阿方の54番延命寺の道も長丁場で、三六・九kmあり、汽車やバスの便があるので、歩く人は珍しい。


 金ぴら街道

 讃岐の国内では、金ぴら街道は多度津、丸亀、高松、阿讃山脈、伊予から豊浜経由の、金ぴら宮に至るものが、五コースある。中予においては金ぴら街道は即讃岐街道で、道後平野では三本のルートがある。(一)中山・双海から伊予市を通り、重信川を渡り、見奈良・川上を経て桜三里の中山越えをして、小松西条を経て讃岐に至るコース、(二)久万や砥部からは、重信川の南の拝志を通って川上で合流するコース、(三)松山や三津浜からは鷹ノ子・播磨塚・志津川・横河原経由で、川上で一緒になるコースである。
 これらのコースには金ぴら大門より○○里の道標があり、金ぴら燈篭が建っている。主なる道標を辿って、昔の金ぴら街道を調べてみると、東温では川内町の札場の三叉路に、「金毘羅大門江二十五里」の道標がある。また川内町松瀬川の三軒屋に、弘化四年(一八四七)に建てた「金毘羅大門よ梨廿六里」の道標がある。さらに川内町北方の田中自転車店の前に、嘉永三年(一八五〇)の「従大門廿七里願主米田屋仙助」の道標がある。また横河原のレストラン吾平の角に、明治三九年建立の「左福見山、右金刀比羅道、弐拾七里壱丁」の道標がある。
 重信町下別府の拝志大橋の南に、文化一〇年(一八一三)建立の「従金毘羅大門二十八里」の道標がある。南吉井小学校の西に文化一一年(一八一五)の廿八里があり、播磨塚の西の坂の南側にも、文政四年(一八二一)の廿八里の道標がある。
 鷹ノ子の水木理容店の前には文化一〇年の廿九里があり、久谷大橋の北西の堤に明治二四年と二七年の、廿九里があり、荏原東方の渡部七郎邸の前にも嘉永元年(一八四八)の廿九里標が建っている。
 伊予市上三谷の仲神久儀の西に慶応三年(一八六七)の三十一里があり、同じく下三谷の阿部茂夫宅にも文化一〇年の三十一里があり、上吾川十合の玉井重元の東に元治二年(一八六五)の三十一里半、市場の向井春雄宅には三十二里の道標がある。
 北条市辻町明星川の伊予銀支店前に嘉永三年(一八五〇)の三十二里がある。これは今治経由である。
 中山町佐礼谷の景浦橋に弘化二年の三十四里があり、中山町榎峠には天保五年(一八三四)の三十四里半がある。
 松山市桑原農協のバス停には三十三里、三津浜の厳島神社の玉垣の外に三十五里、小田町の上田渡橋に慶応三年の三十五里、双海町上灘高岸の三島神社の境内に三十五里、久万町露峰の橋詰に明治一四年の「金毘羅宮へ三十六里」の道標がある。
 このほか金毘羅燈寵が各地にあり、時代不明の道標も多い。その分布で金ぴら信仰の範囲がわかる。そして寄附者と建立年代により金ぴら信仰の時代性がわかる。

図3-48 44番大宝寺~45番岩屋寺地区のへんろ道

図3-48 44番大宝寺~45番岩屋寺地区のへんろ道


図3-49 松山市内の八ヶ寺の札所(四国八十八ヶ所霊場)の位置を示す略図

図3-49 松山市内の八ヶ寺の札所(四国八十八ヶ所霊場)の位置を示す略図


図3-50 明治中期の石手寺~繁多寺付近

図3-50 明治中期の石手寺~繁多寺付近