データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)
四 薬品工業
喜三郎と松田博愛堂
明治一三年(一八八〇)松山市五明の窪田忠七の次男として生まれた喜三郎は、一三歳の時、北条市鹿峰で製瓦業を営んでいた松田三平の養子となった。薬品に関係したのは日露戦争に出兵し、衛生兵として軍医に指導を受けたことに始まる。明治三七年(一九〇四)松田博愛堂を創設し、薬品の販売を行なうかたわら医薬品の研究を行なった。日露戦争当時の経験を生かし、ドイツよりアミノピリンとピラミドンを輸入し、これらを主体とする感冒薬(解熱鎮痛剤「ヒラミン」)の製造に成功した。ヒラミンは胃に悪影響を与えないということもあり、第一次大戦前後の大正かぜで飛ぶように売れ、「かぜにヒラミン」の名と同時に松田博愛堂の名は全国に知れわたった。
昭和一四年~一五年ころは現在の五倍くらいの生産を行い、朝鮮・満州(現中国東北区)・北支に多量に輸出しており、国内消費量と海外消費量はほぼ等しい状況であった。当時の松田博愛堂は、薬店薬局向けの製薬会社としては全国有数の地位を占めるまでに成長していた。しかし、一八年九月の企業整備令により、県内の同業三〇数社との合併を余儀なくされ、社名は愛媛製薬株式会社となった。松田博愛堂の名は一時姿を消すことになったが、その間の二一年に創始者松田喜三郎がこの世を去ってしまった。戦後、企業整備令が解除になったため、二五年に(株)松田博愛堂として再び自社営業を始めた。
松田薬品工業の三か年計画
強力な指導者を失った同社は、戦後も同族的な営業から脱し切れず、業界の近代化・合理化から取り残され、生産量は急激に減少していった。三七年には最盛時(一六年~一七年)のわずか三八%になった。しかし、社名を松田薬品工業と改称するとともに、工場を現在地に移転し再起を図った結果、その後は徐々に回復している。五七年度でもまだ四三%であり(表4―22)、出荷額も三億七〇〇〇万円である。全国的に見てまだ低い地位にあるが、当社では三か年計画に従って開発及び研究部門を充実し、事業のたて直しを図っている。そして、六〇年度末には出荷額一〇億円の中堅クラスの製薬会社になることを目指している。
中須賀の現在地には、三七年に鹿峰の創設地から移転したものであるが、水質が良くないこともあり、将来は移転することも計画している。県内には他に二つの製薬会社があるが、本格的なものは当社のみであり、地元に生まれ育った製薬会社として再起が望まれている。