データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 風早平野の条里制


 風早平野の条里制

 風早平野においても律令制下における土地制度である条里制が施行されていたことは史実からも明らかであり、明治三六年(一九〇三)の地形図を見ても、規則正しく道路や水路が設置され条里遺構をとどめている(図4―7)。
 本市の条里については、八反地にある宗昌寺が所蔵する文明一八年(一四八六)の坪付文書でその概要を知ることができる。同文書によると寺領は亀井里・大木里・宗弘里・松原里・社田里・黒染里・苗代里・堤田里・基野辺里・木村里・久貴田里・於夫田里・鳥能里・頭日里・鏡田里・芦田里の一七里にわたり、その坪数は一二七坪に及んでいる。
 風早平野では、山地及び海岸低湿地と立岩川周辺を除くほぼ全域に、条里地割の分布が確かめられている。宗昌寺文書に「苗代里一九坪海河に成る」と記されているが、これは現在の北条市役所付近であり、海岸から約五〇〇mの所まで条里制が施行されていたことを示している。また同文書苗代里の項に「西下、新開」等とあり、苗代里の西側には、条里地割のない新田地が存在していたことも示している。文政二年(一八一九)の中西内村地籍図においても、立岩川周辺は条里地割が乱れているが、他はほぼ一町ごとに整然と区画されており条里遺構を残している(図4―8)。
 池内長良の研究によると、条は東から西へ、里は南から北へ順次数えられるとし、地割形式は、大化改新以前のものとされる長地型(六間×六〇間=三六〇歩)が圧倒的に多く全体の六七%を占めている。これに対して大化改新以後のものとされる半折型(一二間×三〇間=三六〇歩)は三三%であるとしている。なお、北条の地名の由来は条里制に由来するもと
も、中世にあったとされる北条館の名に由来するとも言われている。


図4-7 明治36年(1903)ころの風早平野

図4-7 明治36年(1903)ころの風早平野


図4-8 文政二年(1819)の中西内村地籍図

図4-8 文政二年(1819)の中西内村地籍図