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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 風早平野の在町


 在町の成立

 現在の北条市の場合、町分か集落として機能をもつようになったのは、各種史料より元禄時代以前とする考え方が強い。在町は在郷町、町分などと呼ばれるが、その特色は江戸時代に農村地域で商工業を特別に許可された新興商人の居住地とされている。本市の場合、在町として記録にあらわれるのは北条村本町、辻村辻町及び別府村柳原である。
 北条村については『伊予古蹟志』に「有㆓北条氏第墟㆒太輔親孝及康孝経孝第之遺蹟也」とあって、越智河野氏から別れて北条氏が北条村に住んだとされており、その館は「北条館」と言われた。その位置については定かではないが、『新編温泉郡誌』には「今の上町と本町の四辻、天満宮のある所辺にありしならんと曰ふものあり」と記されている。北条館が存在した年代は九八〇年~一〇六〇年ころとされ、北条一族が北条地区一円を領していたものとされている。
 近世初期になると加藤嘉明(松山藩)と藤堂高虎(大洲藩)による伊予国の二分領有がなされるが、風早郡も二分されている。当時の北条村は松山藩領であり辻村は大洲藩領であった。その境界となったものは立岩川であるが、当時の立岩川は難波橋あたりから南流し、現在の明星川を河口としていたとされており、辻村と北条村の境界は明星川に比定される。
 寛永一二年(一六三五)蒲生忠知が急死したのに伴い替地が実現し、風早郡一帯は松山藩領となった。松山藩が在町(商業地として許可すべき地域)を選定した際、本市では中世よりある程度商業的機能を有していた街道沿いの本町・辻町・柳原が在町として認められていったものと考えられている。今治街道に沿った街村でもあるため往来する旅人を対象とした宿屋もあらわれてきた。宿場町の機能も備えて来るようになり、人口・戸数も他の村に較べて著しく増加した(表4―23)。

       
 本町と辻町
  
 江戸時代の北条村は中西村、中通村、辻村、下難波村に接し、辻村は中西内村、中西外村、別府村、土手内村、北条村に接していた。北条村及び辻村とも今治街道沿いの地である本町・辻町が街村として発展し、北条宿町と称されるようになった。
 北条村の村高は『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』(一六四八)に「北条村、小川有」とあり、村高は四一七石六升三合(田方三五一石二斗八升、畑方六五石七斗八升三合)とあり、『天保郷帳』(一八三四)では四八三石三斗九升三合と増加している。辻村についても六九六石六斗八升八合(田方六七五石五斗八升八合、畑方三一石一斗)から八九二石八斗二升五合に大幅に増加している。
 領地交換に前後して北条には「よがらす」と称される宿場が形成され、この付近を中心に市がたつようになった。「よがらす」が宿場として知られるようになったのは一六五〇年ころからのことであるとされている。夏の牛市及び歳末の大市の二回が定期的に開かれ、風早一円の農家から買い物にやってくる人々でにぎわった。この大市は、明治末年まで開催されており、その中心地は明星川付近であった。このように本町及び辻町の商業活動は活発となり、町分と村分か区別できるようになっていった(図4―9)。
 北条村にある法然寺の堂改築文書(元禄一二年一一月二五日)の中に改築代表者が記録されているが、この名の中に庄屋四郎左衛門外六名と共に町年寄九兵衛、苫屋長左衛門、宝屋仁左衛門、米屋九郎右衛門等の名があり、元禄時代にすでに町分と村分か分化して村の政治も二者が統治していたことがわかる。北条村では天和―貞享(一六八一~一六八七)までは、手作り地主であった高橋氏が庄屋役も務めていた。一八〇〇年ころ衰退した後、文政年間(一八一八~一八二九)に中興ししたが、その後再び衰え庄屋役は森家に移り明治を迎えた。このように、商人の成長とは逆に従来の村落支配者の没落が顕著となっていったが。北条村の場合、商人の中でも「米屋」 一統が多くの土地を所有していた。当時の代表的な米屋は「米元」(米屋元蔵)であった。米元は享和三年(一八〇三)には松山藩より「御蔵許」の米を売る御用役になるとともに、金融も行なうなど在町の経済を左右するまでになった。
 村分の農民が土地細分化により貧困化するのに対し、成長した町分は次第に町の中心部を占めていった。明治初年における代表的な商店の屋号は本町では鍛冶屋などがあり、辻町では布屋(豊田氏)などもあり、江戸時代の商業活動の盛況を知ることができる(表4―24)。
 辻村には古くは宗昌寺の領田もあり、当地は苗代里の北東隅に比定されている。集落としての形態が整うようになったのは本妙院日法聖人が養開に法善寺を建立してから、その門前町として栄えるようになってからであるとされている。『新編温泉郡誌』によれば

 辻村は本妙院日逢聖人(俗名豊田茂之進)村内に法善寺を建立して之れに居り、有徳のきこえ高くして帰依者多く信徒集り来りて付近に居住し、遂に今日の辻町の繁栄を為すに至れり

とある。松山藩はこの地の商業を許可すると共に、免租地としての特権を与えたとされているが、大洲藩領であった寛永三年(一六二六)にすでに辻村の一部が「地子并諸役免許(豊田文書)」となっている。元禄一五年(一七〇二)の『風早郡辻町御免許居屋敷改帳』(同文書)によれば一町八反八畝が三二軒に分割(横巾四~五間、長さ二十~三十間のものが多い)され(表4―25)、町の中央には水路が設けられていた。辻町では布屋等を中心に活発な商業活動が行なわれるとともに、新田開発に力を注ぐものも現れて来た。桧垣家の『新田由緒書』には慶長一一年(一六〇六)桧垣新兵衛が藤堂高虎の認可によって新田開発を行なったことが記されている。これらの新田の所在地は現在の新開に比定されている。
 北条港は古くは大津地あるいは津地港(辻港)などと称されていたが、商業活動が活発になるに伴い、明星川と長沢川の両河口にはさまれた沼地を浚渫して港を築造し、その土砂で「新地」の埋め立てを行なっている。その後、文政~天保年間及び弘化~嘉永年間にそれぞれ改修工事を行なった。このような結果、出入船舶も増加し、『伊予国風早郡地誌』によれば「一〇〇〇~五〇〇石船七隻保有」とあり、明治一一年(一八七八)には一一〇〇隻の船舶が入港している。同年の辻村保有の船は五〇石以上三隻、五〇石未満八隻、漁船二七隻であり、商業活動の活発化に伴い船舶利用も増大していった。
 藩政時代の本町・辻町の規模は東西三町、南北七町であり、中央部の辻町に高札掲示場があった。北条町宿には片町、辻町・西新町・新地町・養開町・本町・蛭町・浜町・湊町・浦町・新立町・東新町・横町・上町・百姓町・堺町・袋町などがあった。大正初期の辻町には八〇軒以上の商家が軒をつらね、風早地方の商業の中心地となった(図4―10・写真4―14)。しかしこれらの商店は街道沿いのみであり、依然として街村形態が続いていた。


 柳原

 別府村のうち海岸部に開けた在町で、江戸時代の初期に大洲藩の郡代官所が置かれたことにより町としての商業活動も始まった。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』(一六四八)によれば「別府村、日損所」とあり、村高は九九四石六斗五升四合(田方九四六石四斗一升二合、畑方四八石二斗四升二合とある。『天保郷帳』(一八三四)では一〇三四石九斗二升八合となり、やや増加している。柳原は、天正年間(一五七三~一五九二)に得居半左衛門の居館である柳原館が存在した所として、また江戸時代初期には、中江藤樹が郡代官中江吉長とともに居住した所としても知られている。替地以後は松山藩の在町として栄え、今治街道に沿って格子造りの商家が軒を並べた(写真4―15)。規模は東西二町五三間、南北五町二八間で南府中に掲示場があった。町数は新居敷・本町・蛭子町・府中町・湊町・古町の五つであった。元禄一五年(一七〇二)の「風早郡柳原町御免許居屋敷」によれば、在町は三六軒に区分され、二町二反五畝四歩が町分の面積となっている(表4―26)。柳原港は商業活動の拠点ともなったが、これは弘化四年(一八四七)に築造されたものである。


 藩の統制

 在町は基本的には村分に準じて統制を受け、商業活動に対しては商人株や商品の種類・数量が統制の対象となった。「一番日記呼出」によれば辻町布屋惣蔵、同油屋八兵衛、柳原町三津屋平左衛門、同桶屋弥三八、北条町太三郎などの活発な活動が記されており、藩ではこれに対し度々商人株を調査し、商品売買の帳面を提出させるなど統制を行なっていた。

表4-23 北条・辻・土手内・別府村の石高及び人口・戸口の推移

表4-23 北条・辻・土手内・別府村の石高及び人口・戸口の推移


図4-9 文政年間の北条村本町

図4-9 文政年間の北条村本町


表4-24 北条市の明治初年における代表的商工業者の屋号

表4-24 北条市の明治初年における代表的商工業者の屋号


表4-25 元禄拾五壬午年3月15日風早郡辻町御免許居屋敷

表4-25 元禄拾五壬午年3月15日風早郡辻町御免許居屋敷


図4-10 大正初期の辻町

図4-10 大正初期の辻町


表4-26 元禄拾五午歳年3月15日風早郡柳原町御免許居屋敷

表4-26 元禄拾五午歳年3月15日風早郡柳原町御免許居屋敷