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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 伊予灘沿岸集落の形成と発展


 漁村の立地

 伊予灘断層海岸の集落は(一)海浜に立地する集落、(二)海岸段丘及び平坦面、山腹斜面に立地する集落、(三)海浜より緩斜面に連続的に立地する集落に分類される。延長一六㎞の直線状の海岸線をもつ双海町の場合、海岸部に集落の立地する土地は少なく、また船溜の発達も阻害された。海岸にあるごくわずかの平坦地は、台風に伴う風水害によって流失をくりかえしてきた。『上灘郷土誌』によると明治一七年(一八八四)の災害では上灘だけで九八戸の家屋が流失している。
 双海町における漁業就業者(水産養殖業就業は無い)のいる世帯は、一七六〇世帯のうち二五七世帯で、うち下灘の下浜地区が一二六世帯のうち八三世帯、上灘の小網が一五一世帯のうち八六世帯とこの二地区に集中している(表5―7)。下浜の集落は、豊田川の土砂の堆積した海岸部のわずかばかりの平坦地に、海岸線に平行な列状村として立地している。他方、小網の集落には、地形的制約を克服して海岸線よりその背後に、階段状の家屋を密集させている。これ以外の伊予灘臨海部の集落は海に背を向けた農業集落が多いといえる。

         
 漁村の形成過程
         
 古くは文禄三年(一五九四)、久保縫殿好武が高岸に漁場を専有したことが記録されている。この中世豪族出身者の漁場独占は、明治三四年(一九〇一)まで漁場専用の慣行として続けられ、漁業者が入漁する場合には一〇%の入漁料を久保家に支払っており、早くから豪族を中核として漁村が成立していたことが推測される。小網・下浜地区については藩政期に、小網・豊田浜(上浜・下浜を合わせたもの)の部落民に対して独占的な地先占有権が認められている。小網地区の漁村形成の特色は集団的移住によるものである。すなわち藩主が参勤交代の際必要な加子役を確保する必要から、漁業を営むものに特別の権利を与えて移住をすすめ、漁村を成立させたものである。享保年間(一七一六~一七三五)には伊予郡松前町、温泉郡の中島・怒和島、あるいは山口県の大島郡などから移住があった。近接隣海地域からの移住と、瀬戸内海の漁村形成の特色ともなっている漂海漁民の系統をもつ海からの移住とによって漁村が形成されたと考えられる。豊田浜については資料はないが背後の山間農村より海岸への移住が多くみられており、農民分化にもとづく漁業集落形成が考えられる。聴き取りによると下浜地区は池窪から下りてきた人々と奥西から下りてきた人々が多い。とくに魚見・浜田・金山・豊岡姓の家々は池窪から下りて来たことは確かであり、分家がすすみ現在ではこの四姓の世帯だけで四三世帯を数えるに至っている。これらの世帯は池窪と同じく本村の慶徳寺の檀家である。豊川・福本・若松・続谷姓が奥西の長楽寺檀徒であることと対照的である(図5―6)。
 明治以降に新しく漁場開拓が行なわれたのは満野・富貴・本村の三地区であり、それぞれ網代の専有がなされた。満野特別漁場は明治一二年(一八七九)栗坂善三郎によって開拓され、富貴特別漁場は明治二五年(一八九二)綿井寅吉によって開拓された。本村の地曳網網代開拓も同じく明治二五年ころであった。本村の場合、漁場修築の費用は部落有林を処分して資金調達がなされたという。しかしこれらの地曳網は、農閑期を利用して行なわれる零細な百姓網であって、長くは続かなかった。満野・富貴・本村の集落はいずれも浜組とソラ組の二つから成り立っている。現在、ソラ組の生業は柑橘栽培中心の農業である。一方浜組も漁業世帯は皆無で、非農林漁業世帯が多く、つとめ人が多い。これら浜組の集落立地は、大正元年(一九一二)海岸線の県道開通と昭和一〇年鉄道開通のため、生活に便利な場所を求めてソラから浜へ下りてきたものであり、漁業との関係は薄い。


 小網地区における共同網漁業制度

 小網共同網における株制の発達は享保年間に、小網浦長左衛門(現小倉家)が地曳網一五人組をつくり、谷網と称したときに始まる。続いて明和年間に、谷網に対して溶網(畝網)と称する地曳網一五人組が組織され、次いで新網一五人組も創られ、この三網が明治期まで続けられた。明治三○年(一八九七)の漁業法の公布と、同三五年(一九〇二)専用漁業権免許制度実施を機会に、今までの三網は各網に二株ずつ増加させて、合計五一株制の共同網が誕生した。この共同網経営は、海岸に近づく魚を地曳網で捕獲し、沖合を回遊する魚は巾着網で捕獲したので画期的な成績をあげた。専用漁業権制度というわが国水産史上画期的な施策に対して、関係漁民は漁業慣行を主張し、免許出願の手続きをとり、明治三七年(一九〇四)、新たに五一株制の巾着網を製作し新網と称した。しかし、藩政期より経営されていた三網を基礎にもつ旧網に、主要漁業権を掌握され、同一漁村の小網地区内の漁民間で漁業紛争が絶え間なかった。県の指導もあって、昭和一八年になって二つは合併し、巾着網二統、地曳網二統は一〇二株制として経営されるに至った。
 現在の小網共同網「共栄網」は一株減じて一〇一株制として経営されている。下灘(下浜)でも株制の巾着網が組織された。大正二年(一九一三)「三豊巾着網」と戦後昭和二二年の「新巾着網」である。しかし下灘の場合は、株組織経営形態といっても有力者の資本に依存する株所有形態で、性格的には網主経営というべきであった。戦後、下灘の豊田漁港を中心とする漁業は、ローラー五智網や底曳網などの個人操業が発達し、小網の巾着網は伊予灘海区で独占的操業を続けることになった。
 小網の株制は、現在一〇一株に固定されており一戸一株制を原則としている。したがって分家すじの世帯は、株の所有ができず底曳網などの個人経営が中心となった。組合員には労働に参加する権利と同時に、義務を有しているが、現在の乗組員は七〇名となり、株保有者の代行も行なわれており、共同体的強制力は弱まってきた。収益分配は、漁業活動に参加した組員に同時にあたえられ、平等分配がなされている。熟練した漁撈長であろうと、新米の乗組長であろうと、その職能によって分配が差別されることなく平等分配である点は注目される。近代的株式制度というより村落共同体的諸関係の強い共同網株式制度が、現在も存続している理由として、(一)血縁的・地縁的関係が今もなお強く作用し、村落共同体の強制力が残っていること。(二)地区内に貧富の差があまりなく、魚問屋ないし鮮魚仲介人などの活動が低調であること。(三)漁業経営が大規模であり、比較的安定していること、などが列挙される。
 かつて国鉄予讃線の車窓から見えた屋根上や空地の、いりこ干し場「ひやま」は漁村景観の特色であった(写真5―2)。昭和四〇年に沿岸構造改善事業として共同加工施設が完成し、「ひやま」は無用のものとなった。共同加工場が建設されるまでは、漁獲のあったいわしを各戸に平等分配し、各戸で製造にあたった。特に温風乾燥機の導入は、各戸の水タンクやいり場(かまど)およびひやまを無用のものとしただけでなく、製造に費やされる婦人労働の軽減、製造の能率化に大きく貢献した。現在、製品は指定商人による入札制となっている。
 その経営は年間三~五億円の粗収入の六〇%が借入金の返済、加工部門の婦人の労賃などにあてられ、残り四〇%が、乗組員の労賃にあてられており、かつて行なわれていた一〇%の株式配当は行なわれていない。平等出資・平等労賃・平等分配の行なわれた共同網漁業制度の存続は資本制漁業の進展するなかで瀬戸内海漁村にあって特筆されるものであろう。


 豊田漁港整備と漁民団地

 下浜地区は、直線的な海岸と国鉄予讃線にはさまれた細長い土地に、列状の密居集落を形成している。一戸当たりの宅地面積は約一〇〇㎡、一戸平均床面積約一一〇㎡であり、ほとんどが二階建てである。住宅のまわりは漁村特有の狭い露地が分布し、漁港用地の整備が行なわれるまでは漁具の収納・網修理か各漁家内で行なわれ、これらの漁具が所狭しと置かれていた。
 この地区の生産構造は、古くから村張りのいわしまき網漁業も含めて漁船漁業が盛んで、戦後は集落背後の斜面を利用した柑橘栽培の農業を兼業としてきた。昭和四〇年代にまき網漁業が廃止され、またみかん価格の暴落がおこると、たいを中心とする小型底曳網漁業が盛んとなった。それまで柑橘栽培を手がけていた婦人労働は海に向けられ、夫婦共乗りが激増することになり、共同体的性格をもった半農半漁の漁村は、典型的純漁業村に変質した。
 断層海岸における漁船のけい留地不足と漁船の陸揚げは漁船の大型化を阻み、資本制漁業の進展を抑止してきたが、昭和四五年の小型底曳網漁業六一隻の許可は、独立自営の漁船漁業にとっては画期的なものとなった。
 こうした中で「生産性の高い、生鮮魚供給地として活気にみちた漁村」を目ざし、生産基盤の整備と環境基盤の整備がすすめられることになった。特に昭和五ニ~五六年実施の第六次豊田漁港整備は、瀬戸内海有数の漁港を完成させた(図5―7)。西防波堤ほか外かく施設整備に約一二億円、けい留施設(物揚場)および船揚場等に約四億円か投入されている。またこれらに関連して漁民団地の建設がすすめられ住宅用地が造成され、昭和五三年には八一戸に分譲された。漁業後継者の住宅難を解消する目的で分譲され、五六年から入居に実行にうつされたが、現在のところ一六戸の入居が止まっている。付随した事業として漁業集落環境基盤整備事業も実施された。漁業集落道整備では、国道三七八号線と漁港関連道を結ぶ道路が整備され、漁業集落排水施設として汚水処理施設と排水路が設置され、漁港付近海域の浄化がはかられた。ほかに水産飲用雑用水施設としての貯水池建設、環境整備として公園緑地帯造成、漁業集落センターが建設された(写真5―3)。下浜地区の集落道路は、狭いうえに網や漁具が置かれ機能をなしていなかったが、生産機能が漁港に分離され、かつ漁民団地が造成されることによって漁村は大きく様変わりしている。

表5-7 双海町(地区別)の就業別世帯数

表5-7 双海町(地区別)の就業別世帯数


図5-6 下浜地区における主な同姓世帯の分布(昭和58年)

図5-6 下浜地区における主な同姓世帯の分布(昭和58年)


図5-7 第6次豊田漁港整備計画図(昭和53年)

図5-7 第6次豊田漁港整備計画図(昭和53年)