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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 興居島の果樹栽培の変遷


 多角的果樹栽培への指向

 松山市興居島は、昭和二七年松山市に合併されるまでは釣島と併せて温泉郡興居島村であった。 大正一〇年(一九二一)の温泉郡勢によると田面積は三四・三町、畑面積は二四一・一町で農家一戸当たり平均田面積一・四反、畑面積四・〇反で(温泉郡農家一戸当たり田面積の約四分の一、畑面積では約二倍)、畑での高収益化をはからねばならなかった。
 この点では隣接する忽那諸島(中島町)も同じ条件であったが、忽那諸島が普通畑換金作物としてのしょうが・たまねぎ栽培中心の時期を経て柑橘栽培に集中していったのに対し、興居島では早くから多角的果樹栽培による換金農業に指向していった。この相違は興居島が松山市場に対して航行距離ニ㎞の近距離にあり、自家所有船や「渡海船」を十分利用して果実の市場性に対応できたのに対して、忽那諸島は航路距離一三~三六㎞の遠距離で損傷のはげしいびわ・もも等は適作物ではなかったことに原因する面が多いといえる。
 日本の産業革命の進行と並行して全国の農村部ではいろいろの換金作物が栽培されたが、果樹栽培も農村が大きく期待した作物であった。そして果樹苗木商が農村各地を訪ね販売して回ったものである。その結果として全国博覧会が開催され、よりすぐりの出品果実は、又多くの生産地を刺戟していった。そして外来種の果樹を選択し、初めてみる害虫の駆除を模索し、徹底した労力管理で市場性のある果物を作り、利益をあげていくというのであるから、その初期や発展過程におけるリーダー達は篤志家で研究家で、農村の資産家である場合が多かった。興居島の果樹生産は典型的にこの過程を歩んだものである。


 「晴耕園史」による明治時代の果樹栽培

 興居島由良の田村豊八郎の祖父昌八郎が経営した農園の営農記録誌に『晴耕園史』というのがある。これは明治六年(一八七三)より四二年(一九〇八)に至る農事を記述したもので、明治時代の興居島の果樹栽培に関する諸研究はすべてこれを引用しているといえる。以下この農園記録を抜粋して紹介するのは、それが興居島果樹栽培変遷史の縮図であると思うからである。

一、嘉永四年頃(一八五一)由良の小林佐七郎が北浦の山林五段を開塑し、摂州(大阪)東野の種苗家を訪ね、桃苗五〇〇本を求めて植えた。三、四年後結実し、三津浜から仲買人が来たが値段のめやすがなかったので米二五俵を海岸に積んで取引をした。村民もこれをみて果樹栽培と取り組むようになった。

一、安政年間(一八五四~五九)小林、東田らがモモ・ビワ・ナシの苗木を植える。後にその名をとって、佐七桃、好五桃と呼ばれるようになる。

一、明治一〇~一六年、晴耕園に初めてモモを植える。大阪の苗木商がリンゴ苗を持って来たのを植える。愛媛県勧業課よりも、リソゴ、モモの苗木を配布、三、四人の篤志家が植えた。後、栽培する者が続いた。

一、明治二三年、田村は東京の第三回内国勧業博覧会を視察、東北地方出品のみごとなリンゴに驚き、本格的リンゴ栽培を志し、東北のリンゴ栽培者四〇余名に書状を送って教えを乞うた。

一、明治二六年、晴耕園面積二町四段となりリンゴ(三五種)九八一本、モモ一一五一本、ナシ一五七本、ビワ六三本、柑橘一二四本(温州五四本)を植苗する。収入なし、支出二四円、翌年リンゴ害虫現れる。

一、明治二九~三〇年、東北地方リンゴ栽培地を同志と視察する。来園者多くなる。リンゴ一二八二本、モモ八一〇本、ナシ五三〇本、はじめて収入四九円、支出九〇円、明治二八年(一八九五)より袋かけを始める。暖地性リン   ゴ五種を選定(紅魁、中成子など)又新聞紙を「掛け袋」に使う。

一、明治三二~三六年、リンゴニ○四七本、モモ一一四八本、ナシ八〇八本、ビワ九三本、柑橘一六〇本、収入八二二円、支出四〇〇円、初めて明治三二年に利益を出す。三三年、興居島果樹協会設立、象鼻虫、三四年に綿虫発生、又三五年にリソゴの斑点病、白渋病ひろがる。農事試験場と対策を考える。晴耕園参観者一〇〇名、利益五〇九円。

一、明治三八~四二年(一九〇五~一九〇九)日露戦争記念園を造る。綿虫の被害増大し、その対策として柑橘への転換をはかることに園議がまとまる。三九年果樹園面積四・四八町、参観者九〇名、四一年リンゴ樹の伐さい続く、ナシ大豊作二〇万袋をつける。四二年大日本農会有功章を受ける。果物集散場を設立し、直接市場への積出を行なうため、広島・呉・関門の需要地視察を行なう。


 りんご・もも・なし・びわ・みかん

 興居島ではももが最初に導入され明治一〇年(一八七七)ころからりんごが導入され、並行して栽培面積を増やしていった。傾斜地で風当たりする緩斜地で排水よく、砂質土壌地に植えられていったのは、肥沃地での樹勢の伸長による結実不良をさける為である。りんごは明治二〇年代の後半から伸長するが最初は「誰も果樹の性質を知る者なきをもって……(温泉郡誌)」の状況であり、三〇余種のりんごをてあたり次第に栽培して、明治二九年(一九〇六)に、ロシヤ系の暖地適地りんご五種を選定するにおよんで利益をあげてくるようになる。当時の日本東北部産りんごの供給圏外における需要を背景とするものであり、戦後物資不足の時期に越智郡宮窪町が、りんご(一一・五ha)で景気を呈したのと同様の需要であった。りんごの最盛期は明治三六~三八年(一九〇三~〇五)で一〇〇haを超えたが、当時の興居島では、果樹栽培者(一アール以上)三二五人で全戸数の三分の一に及んでいる。
 りんごの衰退は綿虫被害と共に北日本産地の品種と競合できなかった為であり、それにかわって大正年間から、昭和の戦前期にかけて「興居島もも」の栽培が盛んとなり、大正一五年(一九二六)には県産の三分の一を占めた。昭和に入っては八〇%以上を占めるようにもなったが、早・中・晩の品種をたくみに配分しながら、松山市場への至近距離の有利さを生かした果樹栽培であった。島の東面に多く植えられ、小富士山麓などはその中心地であったが今は全島で一~二haにすぎない。
 なしとびわは、りんごの衰退にかわって大正年間に増加の傾向を示した。なしは袋かけなどの労力がいり、貯蔵もみかんと比べて短いという不利な点はあるが、結実が早いので資金回収が早く、陸地部では北条市(浅海のなし)のように成功した例もあるが、興居島を含めて中・東予の島しょ部のなしがあまり発展しなかったのは、みかんの導入が陸地部より早く、それに専念していったのであり、この島でも、昭和に入って姿を消した。
 びわは北風をさけて肥沃な谷間に植えられみかんと競合するかたちをとった。大正の中期から盛んになり大正七年(一九一八)一七ha、一一年に四四haとなり、昭和に入って五年には一〇四haまでになり、ももと全島を二分した感があった。戦後も面積は八〇ha台に減ったが県産の六〇%を占めた時期があった。現在三〇ha程に減っているのは投下労力が多すぎるのと市場の需要が短く、梅雨期との関係もあって短期に収穫処理しなければならないためである。労力は袋かけと採取・選別荷造りに一〇アール当たり一〇〇人役も必要といわれ、一〇~二〇万枚の袋かけをはしごで行ない、選別は、びわ独特の果実のうぶ毛を除けないようにするなど想像を絶するものである。だからその盛時には忽那諸島や中山町から二〇〇~三〇〇人の労力を雇用したといわれる。成木を枯らす「天牛」の害や、びわの「いや地性」が面積の限られた島しょ部に適しないことなども 衰退の原因である。ただ、りんご・なし・ももがほとんど姿を消しているのに、びわが三〇haの命脈を保っているのは、前に述べた短い期間の嗜好果物としての需要量や価格に安定したものがあるからである。御手洗地区が特に盛んであったが、今もその名残をとどめており、鷲ケ巣にも残っている。他に釣島や北浦にも散見される。
 昭和二五年ころより、なしから温州へ、もも、びわから温州みかんへの切り替えが急速に行なわれ、現在は九〇%が柑橘類、うち早生いよかん七八%のみかんの島となった。
 多角的果樹栽培から単一化へと興居島の果樹栽培は大きく変容したわけであるが、現在のみかん不況の中で、キウイフルーツ(五ha)やマーガレット(切花)栽培の胎動がみられるのも、四〇万都市松山市場へ二㎞、海上一五分の距離にある産地が捨てがたい多角栽培への魅力とでもいえよう。印象的であるのは島内三農協のうちの一つの販売方式である。現在共同選果・共同出荷が常識であるなかで、この地区の農協では共同選果のある一方で「個選」と称し個人による選果・出荷が認められていることである。利点としては三津市場へ持船や渡海船で自由に持って行けること。相場変動をみることができること。現金化が早い等があげられる。市場へのこの「地の利」は、興居島の多角的果樹栽培指向の芽を温存し続けるものである(写真6―4)。