データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

七 久万林業

 林業の地位

 上浮穴郡の久万町は明治以降すぎの美林のみられたところであり、久万林業の名がある。久万林業とは、従来は久万町の林業をさす言葉であったが、昭和四一年上浮穴郡の林業を一体的にとらえて振興施策が検討されて以降、上浮穴郡一帯の林業をさす名称として使用されることが多くなってきた。この項では、久万町の林業を中心に上浮穴郡全般の林業について記述し、郡内でも新興の林業地区として知られる小田町については、小田林業として次項にまとめて記述する。
 四周を険しい山々に囲まれた上浮穴郡は林業が最も重要な産業である。昭和四三年の産業別純生産所得をみると、上浮穴郡は第一次産業の占める割合が五六%を占め、その内訳は、農業二五%、林業七五%となっている。昭和四〇年代に入って本材価格の低迷から、林業生産所得の構成は低下したが、それでも昭和五四年の第一次産業の純生産所得割合は農業の四〇%に対して、五八%であり、林業の方が比重が大きい。
 上浮穴郡の地質は、北部に新第三紀層の安山岩が広く分布し、それをとりまくように凝灰岩や礫岩が分布している。その南には長瀞変成岩に属する緑色片岩・黒色片岩が分布し、さらに南には秩父古生層の輝緑凝灰岩・粘板岩・珪岩が分布している。これら岩石の風化土は地味良好であり、年降水量が二〇〇〇㎜内外ある多雨な気候条件と相まって、すぎ・ひのきの生育に適した自然条件を提供している。
 上浮穴郡は総土地面積七万二三四八haのうち、林野面積が八八%を占め、県内で林野率の最も高い地域である。人工林率は県の六〇%に対して、八〇%に達し、これまた県内随一の比率を誇る。特に美川村の九〇%、久万町の八八%は県の最高水準である。人工林のうち樹種別面積ではすぎの比率が特に高く、県の五〇%に対して、六八%にも達する。昭和五五年の素材生産量は一六・九万立法メートルであり、これは県の二一%にも達する。素材生産の中心であるすぎ・ひのき材についてみると県内の三六%にも達する。郡内の素材生産量では、久万町の五・三万立法メートルと小田町の五・〇万立法メートルが双璧をなす。上浮穴郡は林野面積においても、素材生産量においても愛媛県一の林業地帯であるといえる(表7-22)。


 林業の発展過程

 久万林業の発展過程は、以下の四つの段階をへて今日に至ったといえる。まず第一段階は、明治初期の先覚者井部栄範による植林の導入期である。藩政時代の久万山郷は松山藩領であった。その大部分の山地は焼畑用地今入会採草地であったが、部分的には藩用材の調達地もあった。その代表は、上林峠(一〇六六m)を経由して、城下の松山に最も近接していた上畑野川地区であり、遅越山・新開山を中心とした御林山では、すぎ・ひのきの植林も行なわれていたという。このような部分的な人工造林はあったが、本格的な植林は明治初年の井部栄範の事業を嚆矢とする。
 井部栄範は明治五年(一八七〇)大宝寺住職木島堅洲を慕って久万山に来住し、大宝寺の執事に就任した。明治七年大宝寺の焼失を契機に還俗し、大宝寺の再興のため植林事業に専念する。明治一二年(一八七八)菅生村戸長に就任するや、村会の決議によって、村内全戸に杉苗一か年に二〇〇本宛の植林を奨励する。苗木のない者には苗木の無償貸与を行ない、山林のない者には村共有山を林木一代を年期に貸与したりした。この借地制度は吉野の借地林制度にヒントを得たものと考えられる。苗木は当初は吉野・広島方面から購入したが、明治二〇年代からは村内で苗木の育成も行なった。植栽本数は吉野に習い、一町歩当たり六〇〇〇~七〇〇〇本の密植方式であった。井部栄範の指導のもとに植林地は当時の菅生村を中心に、川瀬村・明神村・父二峰村・弘形村などへと拡大していく。彼自身も大正三年(一九一四)までにすぎ・ひのき・松など約四〇〇万本を五〇〇haに植栽し、文字どおり久万林業の基礎を築いた。
 井部栄範が力を注いだもう一つの事業は三坂峠に車道を開削することであった。四国新道といわれたこの国道の建設が着工されたのは明治一九年(一八八六)で、翌二〇年には三坂峠が開削され、同二七年にはこの国道は松山市と高知市とを結ぶことになった。この道路建設の地元側の推進の中心となったのが彼であった。道路開通までは駄馬によって木材は松山方面に出荷されたが、その量は微々たるものであった。道路開通後は馬車によって木材の搬出が容易となり、久万地方の木材の伐採・搬出が盛んになった。流送による輸送路をもたない久万地方の林業は、車道の開通なくしては、その発展のあり得ないことを彼は看破していたのである。
 第二期は明治末年から昭和の戦前にかけての篤林家による植林の普及期である。明治末年井部栄範の造林思想の影響をうけた林業家としては、久万町中野村の秋本富十郎・半次郎父子、下畑野川の岡小八、二名の竹内新太郎などの名があげられる。秋本家は大正初期に半次郎によって人工林に枝打ちを開始する。その技術は秋本家から岡小八の養子になった重衝によって岡家でも開始される。彼等は枝打ちによって一般材より単価の高い電柱材や無節柱材の生産を指向したのである。竹内家は代々の酒造家であり、元来酒造用の樽丸や酒桶用材の自給を目的に林業経営に乗りだす。久万町で最初に始めたという二段林仕立は、昭和の初期節税のため間伐を繰り返し、疎間した林地を埋めるため下層木を植林したのが起源であるという。この期の植林推進者は、いずれも現在の久万町域内の資産家であり、自己の所有林に将来の久万林業の基盤となる独自の技術を展開し、それを地域の住民に普及していったといえる。
 第三期は昭和二五年から四〇年にかけての植林の拡大期である。第二次世界大戦後の復興期にあたる昭和二五年ころから木材需要が急激に高まり、それに刺激されて空前の造林ブームとなる。植林は地域的には上浮穴郡全域に拡大し、階層的には零細な山林所有者にまで普及する。従来の焼畑用地や採草地はまたたく間に人工林にと姿を変えていく。昭和二七年一五〇九haであった郡内の人工更新面積は、同三四年には二三七三haでピークに達する。しかしこの時期の植林は的確な生産目標もなく、技術的にはまだ低次の段階にあったといえる。
 第四期は昭和四〇年以降の新しい技術体系の確立期である。外材輸入の圧迫を受け、木材価格の低迷しだす昭和四〇年代にはいると、久万林業の質的向上が要請される。久万町では昭和三六年愛媛大学農学部に、久万林業の将来の指針を得るために林業総合調査を依頼した。その報告書は昭和三八年に提出されたが、その中で久万林業の向かうべき方向として、①均質優良小丸太材を大量生産する。②形質の良い大径材を生産する、の二つが示された。昭和四一年には、上浮穴郡全域の林業振興を推進する機関として、上浮穴郡林業振興協議会が発足した。この協議会は、上浮穴郡の各町村と森林組合、並びに県事務所久万出張所林業課などが一体となって組織したものである。協議会では、前記の報告書で示された久万林業の二つの改善方向を上浮穴郡全域に適用すべきものとして、その推進に努力していくのである。
        

 林業技術体系
        
 今日の久万林業は、①均質優良小丸太材の大量生産と、②形質の良い大径木の生産を指向している。その技術体系は、昭和四四年県事務所久万出張所の林業課から、「上浮穴地方育林技術とその体系」として示され、各林家の林業経営の指針となっている(図7―8)。
 これによると、ha当たりの植栽本数はすぎ五五〇〇本であり、吉野林業に習った明治初年のha当たり六〇〇〇~七〇〇〇本の密植方式と比べると、その植栽本数が減少している。植付け時期は三月上旬~下旬を適期とする。品種は県下の選抜品種いよすぎ・くますぎ・たかなわすぎや、県外からの導入品種やなせすぎ・しばはらなどが選定されている。
 下刈りは植栽後五年以内に全刈り、筋刈り、坪刈りなどの方法で毎年行なわれる。時期は六月中旬から七月中旬を適期とする。雪起こしは久万地方においては従来あまり実施されていなかったが、植付後五年目までに四回行なうよう指示されている。近年は特に直材仕立の必要性が認識されるに至り、次第に実施されてきている。林地肥培が行なわれているのは、久万地方の特色である。肥培の方法としては、幼齢林施肥と壮齢林施肥が指示され、前者は下刈り労働の軽減、伐期の短縮、病虫害の抵抗性増大を目的に、後者は林地改良、枝打ち跡の癒合促進、葉量の増加を目的に行なわれる。しかし壮年林施肥は肥効が現れ難いので、一般には行なわれていない。
 枝打ちは価格の高い良質材、特に小径木化粧丸太や無節柱材生産のためには不可欠の作業である。三mの無節の柱材を二玉とることを目的に六年生から一五年生までの間に三年毎に四回行なう。枝打ちの時期は打傷の少ない秋一〇月ころから春三月ころまでがよく、とりわけ二・三・一〇月が適期であるが、労力配分の関係で最悪の六月ころに行なわれている例もある。枝打ちは、林業振興協議会が講習会を開くようになった昭和四〇年代以降盛んになるが、その目的や技術が充分に消化されていないため、枝打ちしたところから材質の腐蝕するボタン材を生産する例もある。
 除伐・間伐も年輪の均質な優良材を生産する上には不可欠な作業であるが、久万地方ではあまり実施されていなかった。除伐は植付け後一一年目ころ、林内の被圧木・曲がり木・二又木・病虫害木などの木を対象に行なう。その本数はha当たり五〇〇本程度である。間伐は植付け後一四年目・一七年目・二〇年目の三回行なう。その本数は三回でha当たり二五〇〇本程度であり、間伐材は稲架・足場材としての需要があったが、コンバインの普及は稲架の使用を激減させ、建築用の足場材は鉄製足場にとって替わられたことから、このような需要が減少し、新しい用途が充分に開発されていない。
 加えて久万地方の齢級別樹林構成は、第二次大戦後の急激な人工林化を反映して、二〇年生以下の齢級の構成が六七・八%と極めて高く、四〇年生以上の成熟林の構成はわずか三・八%ときわめて低い(表7-23)。このような傾向は、面河・美川・柳谷などの郡内での後発的林業村に特に著しい。二〇年生以下の間伐適齢期にある人工林が多いにもかかわらず、間伐材の用途が充分に開発されていないので、間伐が停滞しているところに久万地方の林業の大きな問題点がある。
 間伐の終わった植付け後二〇年生の人工林はha当たり二〇〇〇本となるが、これを三〇年生まで育成して主伐期をむかえる。一〇・五㎝四角で長さ三mの無節の柱材を一本当たり二玉収穫することを目標とする。
大径木の育成を志向するものは、林内に少数の立木を残し、その下に下木を植栽する二段林仕立の方法などを採用しながら、六〇~八〇年生ぐらいの伐期を目標に大径木を育成する。
 以上が今日の上浮穴郡地方の林業経営の指針となっている育林技術体系の概要であるが、現実の育成方法は、郡内でも地味の良否等による地域差や、経営規模の相違による個人差などを反映し一様ではない。地域的な差異としては、先発的な林業地域であり、概して集約化の進んでいる久万地区では、すぎがha当たり四五〇〇~六〇〇〇本植栽されているのに対して、後発的林業地域であり、雪害の頻度が高く、従来から粗放管理の傾向のある柳谷や面河地区では、三五〇〇~四五〇〇本程度の疎植の傾向がある。また伐期齢においても、面河・柳谷地区などでは、植栽本数が少ないので成長が速く、二五年程度で主伐期をむかえる場合が多い。一方、個人的な差異としては、大径木の育林は経営に余裕のある大規模経営者に多く、大部分を占める小規模林家には少ない。


 二段林の育成

 久万地方の育林方式に二段林仕立がある。二段林とは、樹齢の異なる二段の樹林からなる林をいうが、中には三段の樹林から構成されているものもあるので、複層林ともいう。現在久万地方には、久万町の菅生・中野村・下畑野川・二名などを中心に約三〇〇~四〇〇haの二段林があると推定されている。これらの地区はいずれも早くから人工造林の始まったところであり、大正年間以降、枝打ちをして大径木の電柱材の生産など、新しい育林技術が積極的に導入されたところである(写真7-8)。
 二段林の起源は、二名地区の竹内新太郎が昭和の初期に始め、次いで中野村の秋本家、井部栄範の創立した久万造林などでも始めたことにあるといわれている。その面積が急速に増加したのは第二次大戦後である。二段林育成の当初の目的は、税金対策であったという。所得税は主伐林にきつく、間伐林にはあまり賦課されなかったので、強度の間伐を行なうものが増加する。強度の間伐によって広い空隙ができるので、そこに新たな植林をすることによって、二段林が仕立てられていったのである。しかし今日の二段林育成の目的は、皆伐による土壌侵蝕の防止、間伐収入を得ながらの大径木の育成にあるといわれる。二段林の上層木は多いところでha当たり五〇〇本、少ないところでは一〇〇本程度であるが、それは一般的には樹齢が増加するにつれてその数を減少する。
 二段林の育成で最も大きな問題点は、伐採時における下層木の損傷である。伐採には熟達の技術を要するが、それでも五〇~六〇年生の上層本を伐採するときは、二~三本の下層木が損傷し、八〇~一〇〇年生の上層木を伐採するときは、一〇~一五本程度の下層木が損傷することは止むを得ないといわれる。かくして育成した大径木は、造作材等に高価に販売できるが、伐採・搬出に多くの労力を要するので、二段林の収益性については、短伐期の皆伐林に比べて必ずしも有利とはいえない。二段林の育成は当初は経営規模の大きな林家の独壇場であったが、今日では中小林家のなかでも育林技術にすぐれた者には多く採用されている。
 なお、二段林の育成は最近盛んになった磨丸太の生産とも結合している。それは上層木の下に植栽された下層木は、皆伐林の跡に植栽された樹本のように幼齢本の期間に急成長することがない。このことは、年輪が等間隔に走り、緻密な材質をつくる。また成長の遅い木に枝打ちを丹念に行なえば、元口と末口のあまり変わらない完満な材質が得られやすい。このような材質は人工紋をほどこす原本としては最も適しているので、二段林の育成が磨丸太の生産と結合してなされているのである。


 銘木生産

 久万町と小田町には床柱などに使用する磨丸太や、軒げた材のケタ丸太などの銘木生産がみられる。久万町で磨丸太の生産は、昭和二六年下畑野川の日野朝幸が叔父の岡譲の協力のもとにその生産を開始する。岡は戦後下畑野川の公民館活動を通じて地域の林業経営の改善にとり組んでいたが、より生産性の高い磨丸太の生産に思いを致し、原木生産は岡が、銘木の加工は日野がという分担協力のもとに磨丸太の生産が始まる。育林や加工の技術は磨丸太の先進地である京都府の北山と奈良県の吉野より導入した。両氏の北山・吉野への技術修得の探訪は昭和二五年に始まるが、以後毎年のように技術修得の旅は続けられた。また相前後して、菅生の相原佐加雄も久万造林の援助のもとに、北山・吉野より技術を導入して磨丸太の生産を開始した。
 人工紋り丸太の生産が開始されたのは、昭和三六年であり、これまた日野朝幸によって開始された。紋り丸太は、表面に凹凸のある丸太材で、天然にもあり、それが天然紋り丸太として生産されていた。人工紋り丸太とは、その凹凸をあて木をあてて人工的に作るものである。日野はその原木を当初はやはり岡の山に求め、適当な立木をみつけて、人工紋りをほどこした。技術はこれまた北山・吉野より導入している。
 久万町において磨丸太の生産が本格化したのは、昭和四〇年代に入ってからである。前述の日野朝幸は久万銘木株式会社を起こして企業生産に入り、また町内の有志に技術を伝授する。昭和五四年には磨丸太の加工をする者によって久万町銘木生産組合が結成されたが、その構成員は、昭和五六年現在二七名に達している。その所在地は、菅生一二、直瀬一〇、下畑野川二、東明神二、上野尻一である。彼等は自山又は他山の購入原木に人工紋りをほどこし、それを自分の家にある加工場で銘木に仕上げる。販路は当初は各自で開拓していたが、昭和五四年以降は森林組合の依託販売となっている。
 久万町のケタ丸太は、昭和五五年一一月久万町森林組合が国産材加工施設を設置して以降、その生産が本格化する。ケタ丸太は長さ六~一二m、末口一八~三〇㎝程度の杉の磨丸太であり、樹齢四〇~八〇年生の杉材を利用する。広い加工場が必要であり、貯蔵が困難なところから、個人の生産には不向きであり、森林組介が国産材加工施設において生産している。五七年の年間生産量は約五〇〇本である。
 現在、久万町の磨丸太の生産は、日野銘木、森林組合傘下の銘木生産組合、久万造林によって行なわれているが、その生産本数は約一万本で、その割合は日野銘木五五%、銘木生産組合四〇%、久万造林五%程度と推定されている。販路はそれぞれ独自に持っているが、松山市の工務店・建材店に出荷されるものが七〇%程度、他に東予・中予などの県内、広島県・山口県などに出荷される。


 林業経営の特色

 上浮穴郡の林野所有形態別の林野面積は、国有林一万三二〇五ha(二〇・七%)、森林開発公団有林一五六四ha(二・四%)、公有林二二三二ha(三・五%)、私有林四万六八六七ha(七三・四%)となっている。県の割合は、国有林一〇・一%、森林開発公団林一・五%、公有林七・七%、私有林八〇・八%であるので、これと比較すると、国有林の比率が高く、公有林の比率が低いことがわかる。国有林は面河山・小田深山など奥地林がその大部分を占め、これを除くと私有林が卓越するのが上浮穴郡の特色である。水田が少なく耕地の大部分が山腹斜面に焼畑形態で展開していたので、水田に投入するための共有の入会採草地の面積が狭く、林野が焼畑用地として早くから私有化されていたのが、この地方の林野所有の特色であったといえる。
 私有林の保有規模は一般に零細であり、五ha未満の者が六四・八%を占めるが、県内の他地区と比較すると、五~二〇haの中規模の山林所有者の比率が高い(表7-24)。また農家林家と非農家林家の割合をみると、県内の他地区と比べて農家林家の構成割合が高いのも一つの特色として指摘できる。上浮穴郡の林業経営は大規模経営の林家も存在するが、総じて中小規模の山林所有者が農業との複合経営の一環として林業を営んでいるところに、その特色をもっているといえる。
 林業経営のあり方は所有規模によって異なる。五〇ha以上の大規模山林所有者は、林業のみで生活の維持が可能である。この階層の中には、地元の林業労務者を縁故関係等を通じて自己調達するものと、林業労務者を森林組合の労務班に依存するものがある。前者は伝統的な労力調達の方法であり、この形態をとるものには、林業専業者が多く、自らも雇用者と共に林業労務にたずさわる篤林家が多い。後者は新しい労力調達方法であり、林業以外の他産業を兼業し、やや林業経営に意欲の欠けるものが多い。久万町下畑野川の篤林家岡譲は前者の典型である(表7-25)。彼は一〇七haの山林に、五四アールの水田、苗畑を含む四〇アールの畑を経営する。自らも後継者と共に育林にたずさわるが、男四人を通年雇用し、下刈り・枝打ち・除伐・間伐などに従事させ、また農閑期の一二月~三月には近隣の農家の主婦五~六人を季節雇用し、枝打ちなどに従事させる。これら雇用者は固定しており、経営者と共に育林技術の修得につとめ、経営者の要請する高度の林業技術を修得している。彼等も農繁期には自家の農業労働に従事しており、林業労務専業ではない。このような雇用者は戦前は小作人であったものが多く、地主――小作の関係を通じて山林地主に雇用されていた者が多い。
 二〇~五〇haの中規模の山林所有者は、主として家族労働で育林作業を行なうが、不足分は縁故関係で近隣の農家の人を雇用したり、森林組合の労務班に作業依託をする。一〇~二〇haの山林所有者は、農業の傍ら自家労力にて育林作業に従事する。一〇ha以下の山林所有者は、自家農業の傍ら林業労務や他産業の労務者として雇用されている者が多く、自らの山林経営には一部の者を除いてはあまり熱心ではない。


 林業労務

 昭和三五年以降、経済の高度成長期に人口の激しく流出した上浮穴郡は、典型的な過疎地域である。昭和三五年の人口四万三四三四人は、昭和五五年には二万一六六四人にと半減した。またこの間に住民の就業構造も大きく変化した。昭和三五年には第一次産業に従事するものは七〇・二%、第二次産業九・八%、第三次産業二〇・〇%であったものが、昭和五五年には第一次産業四八・三%、第二次産業二〇・〇%、第三次産業三一・七%と変化した。この間の就業人口の総数の変化をみると、第一次産業に従事するものが約三分の一に減少しているのに対して、第二次・第三次産業に従事するものの総数はあまり変化していない。経済の高度成長期における上浮穴郡の就業人口の変化は、農林業に従事する第一次産業の就業者が激減するという形において進展した。
 上浮穴郡の林業労働者は、農業に従事するものが自山にその労力を投下する自営林業に従事するものが多いが、一方では、「雇われ林業」に主として従事するものが、他地域と比較して多いのも特色であった。「雇われ林業」に従事するものは、大山林地主に縁故で雇用されたり、素材業者や育林請負業者に雇用されたり、森林組合の労務班に組織されたりしている。
 上浮穴郡の林業労働の近年の変化の特色は、自営林業に従事する者も、「雇われ林業」に従事するものも、その総数が著しく減少していること、また共にその林業への従事日数が減少していることである(表7-26)。これは、近年の木材価格の低迷から林家自体が林業経営への意欲を減退させたことにもよるが、一方では、他産業との労働力の競合の結果でもある。林業と労働力において競合する産業は、久万町においては、近年急成長してきた高冷地野菜の栽培等もあるが、その最大のものは土木建築業である。土木建築業には域内のものもあるが、国道三三号線の改修と、モータリーゼーション化にともなって、三坂峠を越えて松山市方面に出向くものも多くなった。かつての林業労働者の多くは挙家離村して松山市等に転出したり、在村しているものも、マイクロバスで松山市等の土木建築業に通勤労働することによって、次第に林業労働から撤退しているのである。
 また、もう一つの変化は、林業労働者の老齢化である。久万町における森林組合労務班に属するものは、昭和五五年男子五〇人、女子七人であるが、このうち二〇~三九才一三人、四〇~四九才一九人、五〇~五九才二〇人、六〇才以上五人となっており、四〇才以上のものが七七%も占める。このような傾向は、小田町はじめ郡内全域に該当することである。
 このような林業労働力の減少とその老齢化は、優良材の生産をめざす久万林業に一つの影を落としている。久万林業がその育林技術体系においてめざしている優良小丸太材、すなわち心持ち無節柱材を生産するにあたっては、枝打ち技術などのすぐれた高度技能者を大量に必要とする。一般材で三〇年伐期の柱材を生産するのにha当たり一八八人役の労力が必要であるとするならば、心持ち無節柱材の生産には四二ニ人の労力を投下する必要があると試算されている。林業労力の枯渇とその質的低下は、久万林業の育林体系自体の見直しをも迫るという大きな問題をはらんでいるのである。


 木材の加工と流通

 久万地方の本材は、明治年間以降昭和の戦前に至るまで郡中(現伊予市)に出荷されるものが多かった。郡中は中予地方最大の本材の集散地であり、かつ移出港でもあった。昭和五~六年ころには大阪の消費地問屋と結合した六~七軒の木材問屋があり、その下に六つの賃挽製材工場があったという。郡中に集荷された木材は、これら木材問屋の手によって原木のまま、あるいは製材として広島・阪神方面に、さらには朝鮮・台湾にまで出荷された。また製材品は松山市で消費されるものも多かった。
 久万地方の木材を郡中に出荷するのは山元での素材業者であったが、彼等のなかには郡中の木材問屋に資金の前借を通じて結合しているものも多かった。また山元の久万地方にも、昭和になると山元の製材工場が設立される。昭和八年の上浮穴郡の製材工場は一三を数えるが、これらの製材工場も素材業を兼業し、盛んに木材の集荷を行なった。
 久万地方の木材が郡中にかわって松山市に大量に出荷されるようになったのは、昭和三一年に県森連松山原木市場が、さらに同三四年に業者の市場として、松山原木相互市場が、それぞれ松山市に開設されて以降である。この当時も素材生産の主体は素材生産業者であった。域内の森林組合が委託生産事業を始めたのは、昭和四四年久万町に県森連の久万山木材市場が開設されて以降である。同年には郡内の有力な素材業者一二名の出資によって久万木材市場が久万町野尻に設立された。また小田町には、小田町森林組合の山元貯木場が昭和四八年に建設され、これが翌年には市売を開始する。このように、山元に森林組合系と業者の三原木市場が開設されたことは、久万地方の木材の流通を大きく変革させた(図7-9)。
 現在の上浮穴郡の素材生産は森林組合と素材業者によって行なわれている。久万町森林組合に例をとると、森林組合の素材生産は、①山林所有者の原木を立木のまま購入して素材を生産する林産事業、②立木伐採から搬出・販売までの委託を受け素材を生産する受託林産事業、③山林所有者が山元土場まで搬出している木材を、原木市場までとって帰り、それを販売する受託販売事業などがある。森林組合の伐出作業は組合に所属する労務班によって行なわれる。素材業者もまたそれに所属する伐出作業に従事する林業労務者をかかえている。森林組合の素材生産の割合は年を追って増加している。久万町に例をとると、昭和四五年ころには全体の一〇%程度であったが、昭和五七年現在では約五〇%程度に達しているものと推定されている。
 上浮穴郡で生産された素材の大部分は県森連久万山木材市場と小田森林組合本材市場、さらに業者の設立した久万木材市場に集荷され、ここで市売りされる。その場合、地元の製材業者に出荷されるものは約二〇%、松山を主とした域外製材業者に出荷されるものは約八〇%と推定され、上浮穴郡の木材の大部分は素材のまま域外に出荷される。昭和五四年現在上浮穴郡には一九の製材工場があるが、二工場を除いては地元の国産材を加工している。主な製品はすぎ・ひのきの柱角、すぎの割物・板類などであるが、これらの製品の大部分は松山市などの県内地域や、阪神・京浜地方などへ出荷される。上浮穴郡は県内一の素材生産地であるが、地元での加工が少なく、林業に付加価値の低いことが一つの問題点として指摘される。

表7-22 上浮穴郡の樹種別樹林地面積と素材生産量(昭和55年)

表7-22 上浮穴郡の樹種別樹林地面積と素材生産量(昭和55年)


図7-8 久万林業の育林技術体系

図7-8 久万林業の育林技術体系


表7-23 上浮穴郡の民有林における齢級別森林面積(昭和55年)

表7-23 上浮穴郡の民有林における齢級別森林面積(昭和55年)


表7-24 上浮穴郡の山林保有規模(昭和55年)

表7-24 上浮穴郡の山林保有規模(昭和55年)


表7-25 久万町下畑野川の岡譲氏の樹齢構成(昭和55年12月現在)

表7-25 久万町下畑野川の岡譲氏の樹齢構成(昭和55年12月現在)


表7-26 上浮穴郡林業従事者数の変化

表7-26 上浮穴郡林業従事者数の変化


図7-9 上浮穴郡の木材流通機構

図7-9 上浮穴郡の木材流通機構