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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

七 岩屋寺と大宝寺


 岩屋寺と古岩屋

 岩屋寺と古岩屋は、久万層群二名層の礫岩が侵食されて形成された岩峰からなり、古来久万山第一の奇勝として知られてきた。礫岩峰には、逼割・独立岩峰・屏風尾根・絶壁・岩窟などの景観が見られる。逼割は、礫岩層の中を走る亀裂にそって侵食された、幅一mから三m程度の垂直方向に走る溝である。この逼割を利用して岩峰に登れるものとしては、岩屋寺境内の白山権現の逼割が有名である。ほか逼割には古岩屋の第一から第四の逼割、鐘釣岳の逼割などが知られている。独立岩峰は、逼割が発達して四方を絶壁に囲まれた岩峰であり、岩屋寺境内の尖刀峰・白山権現峰、古岩屋の柱岩・島田峰・大師岳・不動岳などがある。屏風尾根は前面が絶壁であるが、後方はなだらかな斜面となっている屏風状の岩峰であり、岩屋寺境内の金剛界峰・胎蔵界峰、古岩屋の千丈岳・子持岳・鐘釣岳などがその典型である。岩窟は礫岩層の中の巨礫や、岩層の一部が欠落して形成された凹地であり、岩屋寺境内の奥の院・仙人堂窟、古岩屋の盗人窟・不動窟などは、その規模の大きいものとして知られている。
 岩屋寺から古岩屋にかけては、このような変化に富んだ岩峰に加えて、植物景観も変化に富んでいる。岩壁にはいわひば・せきこくなどの着生植物、溪谷にはいわやしだ・いよくじゃくなどの羊歯類もみられる。岩屋寺境内にはとちのきの天然林やすぎ・ひのきの巨木も林立する。また岩窟は野鳥の絶好の巣づくりの場所となっているので、この地域にはうぐいす・しじゅうがら・やまがらなどの野鳥も多い。地形・地質ならびに動植物景観に富むこの地は、昭和一九年国指定の名勝に、同三九年には四国カルスト県立自然公園に指定され、全域がその特別地域である。
 岩屋寺は四国霊場の第四五番札所であり、寺の開基は弘仁六年(八一五)であるといわれ、古くは菅生山大宝寺の奥の院であったという。山号を海山寺と称するのは、「山高き谷の朝霧海ににて松吹く風を波にたとえん」と弘法大師が岩屋山の景観を詠んだことに由来するという。文永一〇年(一二七三)には一遍上人も参籠し、一遍聖絵を残しているが、それには空海練行の地であったと誌している。明治三一年(一八九八)の大火で仁王門を除く堂塔はことごとく焼失し、大師堂は大正九年(一九二〇)、本堂は昭和二年、山門は同九年にそれぞれ再建された。
 古岩屋は、四国霊場の第四四番札所の菅生山大宝寺と、その奥の院に当たる岩屋寺を結ぶ通路に当たっていたので、古くから修験者・順拝者の修行の場、宿泊・休憩所となっていた。不動窟には不動明王がまつられてあり、通夜堂や大師堂もあった。昭和四九年国民宿舎の古岩屋荘が新設され、荒廃していた遊歩道も整備され、観光地としてよみがえっている。
        

 菅生山大宝寺
        
 菅生山大宝寺は、四国霊場第四四番札所であり、大宝元年(七〇一)文武天皇の勅願によって創建されたと伝える古刹である。堂塔は仁平年間(一一五一~五四)と明治七年の大火で大部分を焼失した。現在の堂宇は、大師堂・護摩堂・庫裏が明治年間に、本堂・鐘楼が大正年間に、仁王門・総門が昭和三一年に、客殿・方丈が同三八年にそれそれ再建されたものである。寺院の蔵品としては、後白河天皇筆の「菅生山」の勅額と、同三九年県指定の文化財となった三三燈台がある。後者は室町期の金工・金文・仏教思想などに関する貴重な遺品である。
 寺院は老杉の生い繁る山中にあり、境内は山地植物の宝庫である。八haの境内はすぎ・ひのきを主とする樹林におおわれているが、特に参道ぞいには樹齢八百年のすぎの巨木が並ぶ。ゆきのした・おかめざさ・しゃがなどの群生、いぬわらび・いわへご・たにへごなどのしだ類にも貴重なものが多く、昭和四三年県の名勝に指定された。

        
 観光客の動向
        
 大宝寺・岩屋寺は四国霊場の札所であるので、そこを訪れる観光客は、四国遍路の巡拝者が最も多い。四国遍路の巡拝者は年間一〇万と推定されているが、この何割が大宝寺・岩屋寺を訪れているかは不明である。巡拝者は三月上旬から五月下旬にかけてが多く、この間に全体の三分の二の者が訪れる。
 第二次世界大戦前は一〇名内外で先達に連れられて徒歩で巡拝する者が多かった。宇和・大洲方面から内子・小田町を通力、鴇田峠または農祖峠を越えて久万町に入り、大宝寺に巡拝する。その後、峠御堂を越えて下畑野川に至る。下畑野川の河合は打ちもどり点であり、へんろ宿が九軒あった。ここから岩屋寺まで三三丁の道のりを往復し、またここから千本峠を越えて四六番札所の浄瑠璃寺に向かう(写真7-27)。
 第二次世界大戦後は、貸切りバスによる団体の巡札が多くなった。宿泊も面河溪や道後温泉に投宿するものが多く、畑野川や大宝寺前のへんろ宿はすたれてしまった。巡札者の発地は半数が愛知県であり、四国四県では香川県や徳島県が多い。岩屋寺を訪れるものは、巡札者以外に面河溪・石鎚を訪れる観光客が、その帰路に立ち寄るものも多い。徒歩によるへんろ道は、昭和四〇年ころよりすたれてしまっていたが、昭和五八年三月、四国のみち「山里のへんろ道コース(一〇・五㎞)」として復元され、松山市方面のハイカーのふるさと小径として利用されている(図7-24)。

図7-24 久万町の山里へんろ道

図7-24 久万町の山里へんろ道